〈06〉ボとバは似て非なる
大人数でカラオケボックスに足を踏み入れるという記念すべき瞬間を、僕はよく覚えていない。無理のないことである。
直前に我が人生最大にして最高の瞬間が訪れたのだ。僕の顔面に残り続ける柔らかな感触と、鼻腔を突き抜け脳髄を砂糖汁へと変貌せしめた甘い香り。咲沙さんの胸部との邂逅に僕の意識は根こそぎ奪われていた。
気付けば大部屋で凹型にテーブルを囲む六つのソファの内一つに腰掛けていた。場所は当然隅っこである。
未だ至福冷めやらぬ僕は上を目指す口角を宥めつつ、明鏡止水を心掛けながら左隣を見た。
そこに居たのは咲沙さんと仲の良い
そんな梶来くんが何故か僕の顔を凝視している。僕が面食いの女の子であったなら一撃で恋に落ちていただろう。しかし僕は女の子でもなければ面食いでもない、頬に感じる熱を左手でこそぎ落としながら訊いた。
「僕の顔に何かついてるかな?」
「いや、そうじゃなくてよ。ちょっといいか?」
そう言って梶来くんはこちらへ身体を寄せると、更に顔を僕の耳元まで寄せて囁いた。
「どうだった?」
「どうだった……?」
「しっ、もっと声落とせって。さっき咲沙の胸揉んだだろ、あれのことだよ」
梶来くんの声は弾んでいる。ボインボインと跳ねまわっているが、咲沙さんのお乳には敵わないなと思った。故に僕の視線が正面に座る咲沙さんへ向くのは自然なのだった。
こちらの動きに気付いた咲沙さんが笑顔で応じてくれる。
「お、どしたん。もしかして最初に歌いたい? いーねいーねあたしも一緒に歌っちゃおっかなー」
という無邪気な発言に僕の心もボインボインと弾んだ。心の巨乳である。
ここで一つ補足しておくが、咲沙さんは一般的に巨乳と呼ばれるお乳を持っているわけではない。むしろ小ぶりに類されるだろう。しかし僕を包み込んだ大らかさ、何とも代えられない無二の存在感は、間違いなく僕が知るお乳の中で最大だと断ずることができる。つまりボインボインで間違いない。
僕は梶来くんの耳元へ顔を近づけて答えた。
「ボじゃなくてバ」
「まっじかよ! 羨ましいぜ分けてくれ!」
先程得た柔らかな感触を強奪せんとばかりに梶来くんの男らしい手が僕の顔中を撫でまわしてくる。
「や、やめてくれ! 折角の幸せが塗り潰されてしまう!」
「仕方ねえだろ! 俺だって本物を触りてえよ! お互い我慢だ!」
尋常でない力に襲われながらも、来るべき時に備え筋トレを欠かさなかった僕はなんとか応戦する。梶来くんの顔を右手で押し返し、左手で梶来くんの右手を掴む。
「見逃してくれ! 僕には今後お乳を味わう機会なんて訪れない!」
「バカヤロウ! 咲沙以上はどこにもねえよ!」
「確かにそうだ! だからこそ! キミは分かってくれるはずだろう!」
「分かるさ! 分かるからこうするしかねえんだよ!」
それから僕達は争いを続けた。醜い戦いであったが、この争いが無意味なものだとは思わなかった。心が通じ合った気がしたからだ。
だから咲沙さんによって床に正座させられた現在も、不思議と満たされていた。
「……さいてー」
ソファに座ったまま自身を抱きしめるようにする咲沙さんは、怒っているというより恥ずかしがっているようだった。
僕は背筋を正して頭を下げる。
「ごめんなさい。つい自慢してしまった」
「だからそれやめてってば! ……もー、どうせ梶来がなんか言ったんでしょ」
「きっかけは俺だ。悪かったな
「分かった」僕は力強く頷いた。
「マジで怒るよ」
マジで怒られそう。
「梶来くん、咲沙さんの為にドリンクを準備しよう」
「名案だな、全員分用意させていただこうぜ」
器も大きい咲沙さんがいよいよ本気で爆発する前に、僕と梶来くんはドリンクバーへ向かうことにした。逃げるように部屋を飛び出し、僕達は顔を見合わせて笑った。
「怒っても可愛いよな」
「同感だ。梶来くんのおかげで良いものを見た」
「だろ? とはいえあとでちゃんと謝ろうぜ。悪ノリしちまったよなぁ。つい調子に乗っちまった……はぁ。気を付けてたんだけどな」
そう言って梶来くんは項垂れる。深く反省しているようだった。
「僕も調子に乗りすぎた。梶来くん、腹を切る時は一緒だ」
「なんだそりゃ。ははっ、最合って変な奴だったんだな」
もう一度僕達は笑い合う。友人がいたらこういうやり取りが普通なのかなと思った。
青春の波長を感じ取った僕は、梶来くんと一緒にドリンクバーでアイスティーとコーラの黄金比を探しながらたわいのない話を続けた。
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