第109話 侵入者

 夕食後、しばし談笑をした後、ティナはエイダを連れて自室へと向かっていた。まだ幼いエイダは就寝時間が早い。たっぷり昼寝をしても、早めにお風呂に入れなければ寝てしまうのだ。


 なぜかエイダは両親と再会した今でも、ティナの部屋で寝起きをしている。愛娘と過ごす日々を心待ちにしていたジスランなど、非常にショックを受けていた。アグネスのほうは、案外あっさりしていて『エイダももう親離れの時期か』などと言うだけであった。


 ちなみに、トラ夫婦は二人部屋の空き部屋を使っている。未だに人化した姿を見たことがないが、獣化したままでどう生活しているかは謎である。


「今日は何の本にしようか?」

「んっとねー……クライヴのほんがいい!」

「それじゃ、お風呂からあがったら読もうね」

「うん!」


 『クライヴのほん』とは、以前街へ出掛けた際に買ったものだ。表紙にティナに似た女の子とクライヴに似た犬が描かれていて、すっかりエイダのお気に入りとなっていた。


 護衛として部屋まで付き添ってくれていたクライヴは、エイダの言葉を聞き盛大に眉間にしわを寄せた。


「何度も言うが、俺は犬じゃなくてオオカミだからな」

「オオカミもいぬかだもん」

「くっ、余計なことを覚えやがって」

「エイダ、ものしり」


 えへん、と胸を張るエイダに、クライヴが口元をひくつかせる。


 二人のやり取りにクスっと笑いつつ、そのまま盗み見るようにクライヴの様子を窺った。クライヴの様子は普段と何も変わらない。


──あんな事があったのに……意識してるのって私だけなのかな。


 それはつい数時間前の出来事だ。恋人となって初めての口付け──嬉しいはずのそれは、ティナを大いに悩ませていた。というのも、あれからクライヴの顔がまともに見られないのだ。


『俺は犬扱いされるより異性として意識されたいんだが』


 クライヴはそう嘆いていたが、そんなのキスをする前からとっくに意識している。そうでなければお付き合いなどしていない。


 強く頼りがいのあるところも、優しいところも、なんだかんだで面倒見のよいところも、時々犬っぽくなるところも──全てが愛おしい。いったいいつの間にこんなにクライヴのことが好きになったのだろうか。出会いだけを見れば最低だったのに。


「ティナ? ボーっとしてどうした?」

「へぁっ!?」


 クライヴに顔を覗き込まれたティナは、素っ頓狂な声を上げた。気づけば、いつの間にか部屋に到着している。


「す、すみません。少し考え事をしていて……」

「少し顔が赤い気もするが、体調が悪いわけではないよな?」

「い、いえ、大丈夫ですっ!」


 クライヴのことを考えていたなんて、口が裂けても言えない。とりあえず、追及を恐れて部屋の鍵を開けた。


「じゃー、おやすみ。ばいばーい」

「さっさと帰れって言われている気がするんだが……」

「いまからティナおねえちゃんとおふろはいるんだもん」

「くそっ、ティナと風呂とかうらやましすぎるだろっ!」


 悔しそうなクライヴを見て、エイダが「ふふん」と勝ち誇ったように笑う。それから、さっさと部屋の中へ入っていった。随分ドライな対応だ。


「えっと、送って下さってありがとうございます」

「ティナの安全が第一だからな。部屋に入ったらすぐに鍵をかけるんだぞ。それと、窓の鍵もだ」

「はい、分かってます」

「それと──」


 クライヴがコホンと咳払いをする。視線が宙をさまよった後、やけに真剣な表情へと変わった。


「エイダと風呂に入る時はちゃんと服を着るんだぞ。ティナの裸を見ていいのは──」

「ク・ラ・イ・ヴ・さ・ま?」


 煩悩全開のセリフを最後まで聞かずに遮る。幼児の前で何てことを言いだすのだろうか。まぁ、エイダは既に部屋の中へ入っていったので聞いていないだろうが。


 軽蔑するような視線を向ければ、クライヴはしゅんとしてしまった。垂れた耳と尻尾の幻覚が見えるようだ。


「エイダちゃんは子供ですよ? それに女の子なんですから変なこと気にしないでください」

「……俺だってティナと風呂に入りたい」

「はいはい、庭でシャンプーならしてあげます」

「……なぁ、やっぱり俺のこと犬扱いしてないか?」

「気のせいです」


 もちろん今のは、わざと犬扱いしてやった。だがそれは変なことを言うクライヴが悪いのだ。


「それでは、おやすみなさい」


 そう言ってティナも部屋に入ろうとした時であった。クライヴに腕を掴まれ、そのまま抱き寄せられた。


「──っ」


 噛みつくように唇を塞がれる。昼間のキスよりも深く長いキスに息が続かない。クライヴの腕を叩いてもびくともしなかった。


「よし。これで俺のことで頭がいっぱいになるだろう」

「……っ!」


 意地悪な笑みを浮かべるクライヴに、じわじわと頬が熱を帯びていく。ティナはたまらず逃げるように部屋へ駆け込み、バンッとドアを閉めた。


 閉じたドア越しにクライヴが笑いを堪えるような声が聞こえてくる。それからひどく優しい声で「おやすみ」と言うと、足音が遠ざかっていった。


 足音が完全に聞こえなくなっても、ティナはその場から動けずにいた。


──ク、クライヴ様と………ひゃあぁぁーー!


 まだ先程の感触が残る唇にそっと触れてみる。噛みつくような力強い口付けは、甘い呪縛のようにティナの心を埋め尽くしていく。クライヴの思惑通り、頭の中はクライヴのことでいっぱいだ。


 そこに着替えを持ったエイダがやってきた。


「ティナおねえちゃん、どうしたの?」

「ふぇっ!? な、な、なんでもないよ」

「おかおまっかだよー?」

「うっ……き、気のせいじゃないかな~」


 笑って誤魔化してみるが、エイダは不思議そうにこてんと首を傾げた。「クライヴにキスされたから」だなんて言えるわけがない。エイダに見られなくて本当に良かった。


「よ、よーし。お風呂入ろっか~」

「うん!」


 今日は早めにお風呂をあがろう。そうしないとのぼせてしまいそうだ。そう心に決めながら、エイダとバスルームへと向かうのであった。




◆◆◆◆◆




「……ん」


 ふと目が覚めたティナは、ぼんやりとしながらサイドテーブルの上へと視線を向けた。文字盤がほんのり明るく光るのは魔道具の時計だ。その時計が示す時刻は深夜。起きる時間にはまだまだ早い。


──変な時間に目が覚めちゃった……。


 しかも、目も頭も冴えてしまって眠れそうにない。隣で眠るエイダを見れば、すぴすぴと可愛い寝息を立てて眠っていた。


 エイダを起こさぬように、そっと布団から出る。その時、視界の隅で何かが動いたような気がした。


──えっ? 何かいる?


 ドキリとして目を凝らす。


 暗闇の中、ぼんやりと見えるのは家具の輪郭だ。そもそも、この部屋にはティナとエイダしかいない。そのエイダも隣にいるのだから、何か動いたなんてことはないはずだ。きっと寝起きで寝ぼけていたのだろう。


「ティナ」


 するはずのない人の声。すぐそばから聞こえた声に心臓がドキリと跳ね上がった。


──い、今……男の人の声が……き、聞き間違い?


 早くなる鼓動を抑えるように、胸のあたりで強く手を握る。暗闇の中、声の主を探してもう一度目を凝らしてみる。


「ああ、そうか。人族は夜目が利かないんだっけ」

「っ! だ、誰っ!?」


 衣擦れの音が近づいてきて、ティナのすぐ目の前で止まる。さすがのティナもこの距離だとぼんやりと姿を見ることができた。


「怖がらせてごめん。こうでもしないとティナに会えなそうだからさ」


 心の底から詫びているような声からは、敵意は感じられない。むしろティナを気遣っているようにさえ感じる。


 ティナは恐怖心を募らせながらも、隣で眠るエイダの無事を再確認した。エイダは熟睡していて起きそうにない。もしこの侵入者が危害を加えようとしてきたら、エイダだけは絶対に守らなければ。


 そう思っていると、侵入者がフッと笑う気配がした。


「そう警戒しないでよ。危害を加えようなんて思っていないよ。というか、その子は起きないだろうしね」

「どういうこと? エイダちゃんに何かしたの?」

「ちょっと起きないようにしただけ。そんなに強い薬じゃないから大丈夫だよ」

「薬……?」

「そう、眠り薬。まぁ、薬がなくてもその子は朝まで起きなそうだけどね」


 侵入者がクツクツと笑う。


 その様子にどんどん恐怖心が増していく。ドクドクと響く心臓の音がうるさい。深夜に忍び込んできただけでなく、エイダが起きないよう薬まで使う──そうまでしてティナに用事があるのだろうか。


 その時、ティナの脳裏に一人の人物が思い浮かんだ。チャドの元を訪れたティナを探すという謎の人物──。


「もしかして……私を探していた青い髪の人って……」

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