第91話 オオカミVSトラ

──嘘でしょう……まだ追ってきてる。


 チラリと背後を確認したティナは、恐怖からごくりと息をのんだ。


 走る馬の背はとてつもなく揺れる。その姿をハッキリ捉えた訳ではないが、独特の縞模様がちらちらと視界に映る。大きさ的に考えて成獣で間違いないだろう。特務隊の隊舎で元気に駆け回る子トラとはまるで大きさが違う。


──こんなに執拗に追ってきてるって事は、私かローズを獲物としてロックオンしたのかも……。


 恐ろしい予想にぞくりと肌が粟立つ。


 だが、腑に落ちぬ点があった。トラが獲物をここまで執拗に追いかけるのは稀だという事だ。


 体が大きいトラは持久力がない。そのため、狩りは待ち伏せをして行う。こうして短くはない距離を執拗に追ってくるなんてあり得ない。


──よほど空腹とか……? ううん、それならこんなに体力を消耗するような事はしないはず。


 この森にはトラの獲物になり得る小動物が比較的多い。足場が悪い森の中なら、機動力のあるローズに軍配が上がる。果たして、捕らえられる可能性の低い獲物を追い続ける必要があるだろうか。


 落ち着いて考えてみれば、おかしな点は他にもあった。


 まず最初にトラが現れた時の事だ。あの時、ティナ達はゆっくり馬を歩かせていた。獲物を狙ったトラが狩りを失敗するような速度ではない。


 さらに、あのトラはティナに見向きもしなかった。かと言ってクロエに襲いかかるそぶりもなかった。まるで、クロエを足止め──いや、まるでティナとクロエを引き離すのが目的かのようだった。


 なぜ――そう思った時、ローズが突然急ブレーキをかけた。危うく吹っ飛びそうになり、全身に力を入れて何とかしがみつく。


「ロ、ローズ!? どうしたのっ?」

「ブルルッ!」


 ローズはその場に足踏みをし、しきりに辺りを気にしている。ティナが再度走るよう指示を出しても動こうとしない。このままでは背後のトラに追いつかれてしまう。


「ヒヒイィーーン!!」


 まるで助けを呼ぶかのようなローズの嘶きが森に響き渡る。


 その直後、低い唸り声がティナの耳へ届いた。そして正面の茂みからトラがゆっくりと姿を現した。鋭い牙をむき出しにして、ティナ達の行く手を塞ぐように立ちはだかる。


──い、いつの間にっ!?


 先程までトラはティナ達を追いかけていた。つまり背後にいたのだ。それなのにいつの間に前へ回り込んだのだろうか。


──に、逃げるには……来た道を戻るしか……。


 ここは森の中。左右へは行けなくはないが、かなり足場が悪い。ローズが足を滑らせれば一巻の終わりだ。


 ティナはトラを刺激しないよう静かに手綱を引いた。「反転しよう」、そうローズへ合図する。


 だが、ローズは言うことを聞いてくれない。目の前のトラを警戒しつつ、なぜか背後も気にし始めた。背に乗るティナを気遣ってくれているのか。はたまた、パニックに陥っているのか。


 もう一度手綱を引こうとした時、またしてもガサリと茂みが揺れる音が聞こえてきた。音のした後方を振り返ると、目を疑いたくなる状況が待ち受けていた。


──も、もう一頭っ!? そんなバカなっ!


 なんと後方にもう一頭トラが現れたのだ。前後をトラに挟まれ、逃げ道は完全に塞がれてしまった。


 二頭のトラは唸り声を上げながら、ゆっくりと距離を詰めてくる。今度は確実に仕留めてやるといった様子だ。


 もはやティナ達に残された道は一つ。トラの隙をついて足場の悪い左右どちらかの道へ逃げる事だ。ティナはローズを少しでも安心させるために、震える手で精一杯手綱を引いた。


 そんなティナ達の動きを阻止するかのように正面のトラが飛びかかってくる。間一髪、ローズは鋭利な爪が届く前に身を翻した。


 だが、その動きのせいでティナは体勢を崩してしまった。ぐらりと体が傾ぐ。必死に手綱を握るが、その隙を狙ってもう一頭のトラが飛びかかってきた。


──……っ!!


 死を覚悟したティナはギュッと目をつむった。


「ギャウッ!!」


 聞こえてきたのは獣の悲鳴。覚悟した痛みはやってこない。おそるおそる目を開けたティナが目にしたのは、よく知った後ろ姿だった。


「よくもティナを襲ったな。このクソネコ共がっ!」

「クライヴ様っ!」


 ティナの危機に駆けつけたのはクライヴであった。


 クライヴはちらりとティナの方を見たが、すぐにトラを睨みつけた。そのあまりの剣幕にトラが一歩後退る。


 両者が睨み合うことしばし。やがて意を決したかのようにトラが飛びかかってきた。大きな巨大がクライヴへと襲いかかる。


「クライヴ様っ!」


 ティナは思わずクライヴの名を叫んだ。いくらクライヴが獣人族で強いと言っても、トラを相手にしては無事でいられるか分からない。


 正面からトラを迎え撃ったクライヴは、飛びかかってきたトラの脇腹へ強烈な蹴りを繰り出した。


「てめぇら……俺のティナにちょっかいだしてんじゃねぇっ!」


 100キロはゆうに超えているであろう巨体が軽々と吹っ飛んでいく。そしてそのまま木に激突して鈍い音を立てた。


──えぇっ! け、蹴り飛ば……ク、クライヴ様っ、どれだけ強いのっ!?


 最初に吹っ飛ばされたトラと共に、二頭のトラは咳き込んで立ち上がれないでいた。


 凍てつくような瞳をトラに向けるクライヴは、ゆっくりとトラ達の方へと歩き出した。もしやとどめを刺そうとしているのでは。そう思ったティナは転がり落ちるようにローズの背を降りた。


「ク、クライヴ様っ! 待って下さい! とどめとか刺そうとしてないですよね!?」

「ティナを襲ったんだ。万死に値する」

「わ、私は無事です! クライヴ様が助けてくれましたから!」


 やはりクライヴは本気でトラの息の根を止めるつもりらしい。ティナはクライヴの片腕を掴み懇願した。


「あ、あの野生動物が人を襲うことは確かに脅威です。ですが、その……命までは……」


 ここでこのトラを見逃せば、別な人が襲われるかもしれない。子供や老人が襲われる可能性だってある。ティナを襲ったのだって弱くて仕留めやすいと思われたからだろう。


 だが、人が襲われたからといって殺してしまうのは、あまりにも一方的だ。トラの住処である森を守り、彼らのテリトリーに無闇に立ち入らず、お互いを尊重して棲み分ける事が出来れば、トラは害獣にはなり得ないのだ。


「今回のことでトラも学習したはずです。次回からは無闇に人里には来ないと思います。父にもトラ避けの魔道具を──きゃっ!」


 必死にクライヴを説得していると、強い力で引き寄せられた。あまりにも一瞬の出来事に目を白黒させる。


「ちっ! 学習しないクソネコめ!」

「グルルルッ!」


 どうやら最初に蹴り飛ばされたトラがティナを襲おうとしたらしい。クライヴに抱き寄せられたおかげで事なきを得た。それでも、ティナのポーチは爪で切り裂かれていた。


──あ、危なかった……。クライヴ様が助けてくれなかったら……。


 あの鋭利な爪はティナの脇腹を抉っていたことだろう。そう考えると震えが止まらない。


「ティナ、すぐに終わるから目を閉じていろ」

「クライヴ様……」


 ティナが震えているのに気付いたのか、クライヴが優しく気遣ってくれる。だが、トラへと視線を戻した時には、その瞳は激しい怒りを宿していた。


「ティナの頼みと同族のよしみだ。息の根は止めないでおこう。話しは虫の息になってから聞いてやる」

「グルルルッ! グァウ!!」


 トラが威嚇するように激しく咆哮する。


 クライヴに抱かれているとはいえ、その迫力は凄まじい。ティナはクライヴの服をギュッと握りしめた。


 緊迫する空気。


 一触即発の場に、愛らしい声が響き渡ったのはそんな時だった。


『ティナおねえちゃーん! きょうはね、にこんだおにくをたべたよ。キャロがおおもりにしてくれたー』


 この瞬間、二頭のトラは動きを止めた。

 

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