第90話 嫌な予感

「どうだ、クライヴ? 何か分かるか?」


 アレクに問われたクライヴは、目の前の足跡をジッと見つめた。砦近くにある沢に残るのは、真新しい獣の足跡。その大きさは成人男性の手を余裕で超える。


 これは今朝方、砦の者が見回りで見つけたものらしい。一日に数回行われている見回りは、他国からの侵入者や盗賊などの取り締まりの他、こうした大型動物を発見する目的もあった。異変を察知すれば、すぐに調査をし、近隣に警戒を促すというわけだ。


 クライヴは立ち上がると、お手上げとばかりに小さく息を吐いた。


「さすがに足跡だけで判別するのは難しいな。クマではないのは確かなんだが……」


 獣人族だからといって動物に詳しいわけではない。だが、クマではないことだけは断言できる。なにせ、クマの足跡なら隊舎で見慣れているからだ。


「俺も同意見だ。多分これは趾行性しこうせいの動物だ」

「……お前、結構詳しいな」

「ティナが足跡を見つける度に説明してくるもんだから覚えたんだ。クマは蹠行性しょこうせいだろ」


 さらりと言ってのけるが、それを覚えていて、こうして知識を役立てるなど簡単なことではない。クライヴの番いがティナだと見抜いた洞察力といい、こいつは意外と頭がキレるのかもしれない。腐ってもエヴァンス家次期当主ということか。


 ちなみに、趾行性しこうせいというのは、かかとを上げ指先だけで歩く歩行形態の事だ。忍び足に向いていて、素早く動く事が出来る。主にイヌ科やネコ科に多い。


 対して蹠行性しょこうせいというのは、足裏全体をつけて歩くことだ。かかとの足跡がしっかり残る。二足で立ち上がることに長けていて、人も蹠行性に分類される。


「さすがティナだな。動物好きなだけではなく、知識が幅広い」

「あいつ、一人で山に入っては一日中動物観察してたからな」


 己の番いを誇らしく思いながら、クライヴは大気中の匂いを嗅いだ。青々とした新緑の匂い、澄んだ水の匂い、湿った土の匂い。


──それだけじゃない……。


 先程から気になっていた匂いがあった。水辺ということもあり確かなことは言えないが、足跡に残る匂いとは別の匂いがする気がするのだ。例えるならば、もう一匹いるような……。


 大型動物が複数の個体で行動するとなると群れをなす動物か、はたまた番いで行動を共にしているのか。なんにせよ、足跡とわずかな匂いだけでは判別は難しかった。


「しばらくは見回りを強化した方がいいだろうな。近隣にも一人での行動は避けて、森への立ち入りを控えるよう伝えた方がいいかもしれない」

「クライヴの鼻を持ってしても特定は難しいか。こりゃしばらく厳戒態勢だな」


 そういうと、アレクは共に来ていた部下達に指示を出し始めた。どうやら数人に分かれて周囲を見回るようだ。部下達はすぐに散開し、見えなくった。


「はぁ、頭が痛い問題だな。お前の物騒な威圧で遠くに逃げてくれれば楽なんだけどな」

「お前な……人を番犬みたく言うな」

「オオカミ獣人だろ? 番犬ならちょうどいいじゃないか」

「どいつもこいつも犬扱いして……」


 威圧で大型動物が逃げるなら、自分よりもアレクとエヴァンスおうの方が適任ではないだろうか。この二人が揃ったのなら、どんな動物も恐れをなして逃げ出しそうだ。


 クライヴは二人に斬りかかられた時のことを思い出し、内心で溜息をついた。


 それから周囲に他の足跡がないか確認して回った。クライヴに至っては身軽さを活用して足場の悪い所も入念に見て回る。周囲の村のためにも確認は怠れない。


「そういや、ティナの前で獣化した事はあるのか?」

「ああ。ティナのブラッシングは最高だ」

「まんま犬のセリフじゃねぇか。ティナなら犬だろうとオオカミだろうと怖がらなそうだけどな。あいつ、子供の頃なんてヘビを連れて歩いてたからな」

「ヘビを……?」

「ティナ曰く友達だそうだ。よく庭に遊びに来てたんだと」


 アレクは見たことがないが、幼い頃のティナがそう言っていたのを覚えている。嬉しそうに笑いながらヘビが友達だと言い出したときには、伯父であるヨハンが変な魔道具を作ったのかと思ったほどだ。


 何気ない思い出話のつもりだったが、クライヴから急に殺気が立ち上った。たまたま近くの木にとまっていた小鳥が慌てて飛び立っていく。


「うおっ! お前、急に殺気立つんじゃねーよ!」

「くそっ……もっと早く出会っていれば俺がいくらでも傍にいたのにっ!」


 本気で悔しがるクライヴにアレクが呆れ顔になる。獣人族が愛情深い種族だとは知っているが、ここまでとは思ってもいなかったのだ。


「お前、大分……いや、かなり変わったな。昔は女なんて興味ありませんって顔してやがったのに」

「当たり前だ。俺らは番い以外興味ないからな。俺はティナのためだけに生きると決めたんだ」

「どんだけティナにベタ惚れなんだよ……」


 堂々と惚気るクライヴにアレクが若干引き気味になる。


「複雑だ……ティナがこんな粘着質な男に好かれているだなんて……」

「応援するって言っただろう? 今更、取消は出来ないからな」


 一通り周囲を確認し終えた二人は、砦へ戻るべく来た道を戻り始めた。


 大型動物の足跡が見つかったこの沢は崖の下にある。戻るには徒歩でぐるりと迂回するしかない。


「そろそろティナは村に着いてる頃か。何事もなければいいが……」

「クロエがついてるから大丈夫だろ。あいつならティナが好奇心で森に入ろうとしても止められる。万が一盗賊に襲われても問題はない」


 アレクは自分の婚約者でもあるクロエに絶大な信頼を寄せている。それは二人が婚約者として過ごしてきた日々の長さだけではなく、クロエが人の何倍も努力してきた事を知っているからだ。


 クライヴとて北の砦には何度か訪れている。クロエがその実力で小隊長にまで登りつめた事は知っていた。


「それは分かっている。分かっているが……」


 先程から何だかティナの事が気になって仕方ない。ティナの話しをしていたからだろうか。いや、それも違う気がする。ハッキリと言えないが、何だか嫌な予感がするのだ。


 人の気配がしたのはまさにその時だった。


「ア、アレク様っ! クロエ小隊長がっ!」


 血相を変えてやってきたのは、先程分かれた兵の一人であった。あまりにも慌てた様子にアレクがほんの少しだけ眉間に皺を寄せる。


「クロエがどうした? 落ち着いて説明しろ」

「は、はいっ! 森を抜けて道へ出たところ、クロエ小隊長に遭遇しました。クロエ小隊長の話しではトラに襲われたそうです」

「トラだとっ!? なんでこの地域にっ!」


 黙って聞いていたクライヴも驚いた。何度かこの地を訪れているが、トラが現れたなど聞いた事がない。


「クロエとティナは? 無事なのかっ!?」

「クロエ小隊長は無事です。トラはすぐに森へ逃げたそうです。ですが、ティナさんとはぐれてしまったそうで──」


 そこまで聞いたクライヴは一気に駆け出した。

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