第89話 危険な帰り道
「ティナちゃんと会うのは久しぶりよね。こうして話せて嬉しいわ」
ティナの隣で軍馬を乗りこなすのは、砦の制服をキッチリ着こなした凜とした女性兵。彼女の名はクロエと言う。
このエルトーラ王国の中でも数えるほどしかいない女性兵だ。獣人族であればそこそこいるのだが、人族の女性が男性社会ともいえる軍に入隊する事は、ほぼないに等しい。筋力や体力面でどうしても厳しいからだ。
だが、このクロエは女性ながらも小隊長まで登りつめた努力家だ。その実力は折り紙付きである。実はティナとは長い付き合いでもあった。なんせ彼女はアレクの婚約者なのだ。
「クロエさん、お手間を取らせてすみません」
「もー、なに言ってるのよ。私たちの仲でしょ」
「だいたい、アレクは過保護過ぎなんです。未だに私のこと子供だと思ってるんだから……」
「ふふ、アレクはティナちゃんの事が心配なのよ」
子供の頃からアレクの過保護に辟易すると、こうしてクロエが話しを聞いてくれた。クロエは、サバサバした姉御肌でとても話しやすいのだ。
彼女は昔からさっぱりした性格で、砦に勤めることを決めたのも実に男前な考えだった。その理由とは。アレクの帰りをただ待つのではなく、共に闘うパートナーになりたいから。頼もしいことこの上ない。
「クロエさんだって忙しいのに、わざわざ私に付き添わせるなんて…」
「アレクだけじゃなく、総司令官とクライヴさんにもよろしく言われたわよ。ティナちゃんってば愛されてるわね」
「…………」
待ってほしい。アレクと祖父は分かるが、なぜクライヴまでクロエによろしく言っているのだ。そんな暇があればちゃんと仕事をしてほしい。
「そういえば、クロエさんもクライヴ様のことは知っているんですね」
「もちろん。年に一回、特務隊の隊長か副隊長が視察に来るのは恒例行事だからね」
ティナは知らなかったが、この視察は昔から行われていたらしい。何でも獣人族にしかできない仕事があるとかなんとか。
二人が隊長と副隊長になったのは数年前。ティナがまだノルド村にいた頃だそうだ。こんな近くに来ていたなんて、なんだか不思議な縁を感じる。
「そういえば、ティナちゃんも今は特務隊で働いているんだって? 毎日毎日一人で森に入ってはアレクを心配させてたティナちゃんが立派になって……」
「ク、クロエさんっ!」
「あはは、冗談よ。でも心配してたのは私もよ。この森はクマや毒蛇もいるんだから」
「うっ……すみません」
今さらながら幼少時の自分の行動が恥ずかしい。あの頃は動物観察が楽しくて仕方なかったのだ。もちろん今でも機会があればやりたいというのが本音だが。
そういえば、クライヴの仕事が終わるまで自分はする事がない。両親の魔道具製作を手伝うのは無理だし、友人も仕事があるから昼間は忙しいだろう。それなら久々に動物観察に出かけてもいいかもしれない。
そんな事を思っていると、隣からジトリとした視線を感じた。
「もしかして、せっかく帰省したのだから森に入ろうとしてないでしょうね?」
「えっ!? い、いえ……そ、そんなことは……」
考えていたとは言えない。心を読んでいるのではないかというクロエの指摘に思わず狼狽える。
「絶対ダメだからね。ただでさえ、沢で大型動物の足跡が見つかったっていうのに……」
「大型動物っ!?」
「ティ~ナ~ちゃ~ん?」
「うっ……も、もちろん見に行ったりなんてしませんよ」
反射的に目を輝かせたティナにクロエがニコリと笑う。
さすがは小隊長殿だ。眼力というか威圧感というか……迫力が半端ない。笑顔なのに目が全然笑っていない。
いくら動物好きのティナでもそんな危険な事はしないというのに。そりゃ、ちょっとくらいは気になるが……。
「あれ、沢って……」
「そう、この近くの沢よ。だからアレクがティナちゃん一人で帰すのを心配したの」
それは大型動物と遭遇する方を心配したからだろうか。はたまた、ティナが興味本位で森に入ることを心配したのだろうか。後者であれば異議を申し立てたい。
沢というのは、この道からさほど離れていないところにある。といっても崖の下なので降りるにはぐるりと迂回する必要がある。大型動物が崖を登ってくるとは考えにくい。多分この道は比較的安全だろう。
「大型動物かぁ。普通に考えるならクマでしょうか?」
「それがクマの足跡とも違っていたみたいなの。この辺では見たことがない足跡だったらしいわ」
それを聞いてティナの好奇心が疼く。実物……は、危険だから行かないにしても、どんな足跡か書いて見せてくれないだろうか。
分かりやすく表情を変えたティナを見て、クロエが大きな溜息をついた。
「アレクが過保護になるのも分かる気がするわ。これは目を離すと危険ね」
「うぇ!? ク、クロエさんっ!? それはどういう──わっ!」
どういう意味ですかと言おうとした時、急にローズが歩みを早めた。
ティナが何か指示したわけではない。よく見ると目をきょろきょろさせて落ち着きがない。
「ローズ!? 急にどうしたの?」
「ブルルッ!」
ローズが答えるように鳴いてくれるが、その声はどこか緊張している。不思議に思ったティナは、後ろにいるクロエへ振り返った。
「クロエさ──」
「ティナちゃんっ!!」
目に入ったのはクロエの慌てた顔。それと同時にローズが急に走り出す。
──わっ……わわっ! い、いったい何がっ!?
手に絡ませた手綱のおかげで何とか落馬は免れた。何とか体勢を整えて振り返ると、先程までティナがいた場所には予想外の生き物がいた。
「ト、トラっ!?」
黄色の毛並みに縞模様の巨体。見間違えるはずがない。この地に棲息していないはずの生き物にティナは驚きの声を上げた。
トラはティナとクロエを分断するように二人の間にいる。低い唸り声を上げながら、クロエの前に立ちはだかっている。その間にもローズはどんどんスピードを上げる。
「ローズ、止まって! 止まってってば!」
「止まっちゃダメ! ティナちゃんは先に行きなさいっ!」
キラリと何かが光った。クロエが馬上で剣を抜いたのだ。
──どうしよう……トラは馬も人も襲うのにっ!
野生のトラは神経質とされているが非常に獰猛だ。ワニやクマにも襲いかかるとされている。いくらクロエが強いといっても剣一つで撃退できるはずがない。
「このままじゃクロエさんがっ!」
ティナが戻ったところで何か出来る訳でもない。フィズ特製の薬も使い果たしている。せめて砦に助けを求めに行きたいが、ローズが走っている方向はノルド村へと続く道だ。
「ローズ! お願いだから止まって!」
ローズにしがみつくようにしながら背後を確認すれば、もうクロエの姿は見えなくなっていた。距離が離れて見えなくなっただけだと分かっていても、嫌な予感しか思い浮かばない。
何も出来ない悔しさと歯がゆさから、じわりと視界が歪む。泣いてたまるかと強く目を閉じる。ローズが突然スピードを緩めたのは、まさにその時だった。
「ローズ! ありがと──うわっ!」
ティナの意を汲んで止まってくれたのかと思ったが、ローズは耳をピンと立てて何かを探っていた。かと思えば、突然方向転換をして森の中へと入っていく。
「ロ、ローズ!?」
またもやローズはティナの言葉を聞かずに森の中を走っり出す。飛び出た木の根を飛び越え、積もった落ち葉もものともせず必死に走り続ける。
──ローズの様子がおかしい……。
まるで何かから逃げているようだ。もしや先程のトラがティナを追ってきているのだろうか。
そう思った時、後ろの方でガサリと茂みが揺れる音がした。振り落とされないようにしながら僅かに振り返る。揺れる馬の背では視界がブレる。
だが、幼い頃から森に入って動物観察をしてきたティナの目は逃さなかった。
──ト、トラーーっ!!
草木に紛れていたが鮮やかな縞模様が見え、ティナは心の中で絶叫した。
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