第88話 オオカミはご褒美をご所望です

『ティナおねえちゃーん! きょうはね、にこんだおにくをたべたよ』


 王都よりも肌寒い風が吹く中、可愛らしい声が響くのは砦の城壁だ。城壁といっても、ここは見張りがいる場所とは違うので周囲には誰もいない。


 朝食後にクライヴを見つけたティナは、エイダの近況報告を伝えようとここへやってきた。砦の中では人が多くてゆっくり話が出来ないからだ。


 クライヴと会うのは、昨日ティナがエヴァンス家の血筋だと話して以来であった。


「──と、いう訳でテオさんがこれを届けてくれました。皆さんのおかげでエイダちゃんは楽しく過ごしているようです」


 最後までエイダのメッセージを聞き終えたクライヴは、苦笑とも取れる呆れ顔を浮かべていた。その気持ちは分からないでもない。


「エイダの奴、見事に食べ物の話しかしてないな。全員甘やかしすぎなんじゃないか」

「ちゃんと運動もしているようですよ。皆さんを困らせるくらいには……」


 テオいわく、元気過ぎて手に負えないくらいらしい。ルークに至っては獣化していた際、危うく狩られそうになったそうだ。まさか自分より大きなオオワシへ飛びかかるとは……。


「まぁ、泣いてるよりはマシか。エイダはティナにべったりだからな」

「最初は留守番も嫌がってましたもんね……」


 トラの姿で床を転げ回って駄々をこねていたのが懐かしい。最終的には、肉料理にコロリと態度を変えていたが。


 二人して自然と笑みになる。エイダを可愛がっているのは二人も同じなのだ。 


「あの、クライヴ様。昨日の事ですが……怒ってますか?」

「ん? 何の事だ?」

「私が……その……エヴァンス家の血筋だという事です」


 あの時、クライヴはかなり驚いていた。ティナが庶民である事に間違いはないが、エヴァンス家の血が流れていることも事実なのだ。もしかすると、嘘をついていたと怒っているのではないか気になっていたのだ。


 クライヴとしては驚きこそしたが、怒る要素など全くない。強いて言うならば、ティナと結ばれるために超えなければいけない大きな――それはもう険しく高い山が出来たくらいだ。だが、それはティナが悪い訳ではない。


「別に怒っていないさ。事情があったんだから、あまり口にする訳にもいかなかったんだろ」

「すみません……」

「謝るなって。ティナと結婚したらアレクとエヴァンス翁が親族になるのは……まぁ色々思うところがあるが……」


 一瞬だけクライヴが遠い目になる。昨日、二人から斬りかかられたのだから無理もない。ますます申し訳なさが募っていく。


 そこで、ふとある事が気になった。


 秋空に映るクライヴの顔色がいつもより悪いのだ。そういえば、先程から頻繁にこめかみを押さえたりもしている。もしかすると頭痛がするのだろうか。


「クライヴ様、具合が悪いんですか?」

「あー……昨日飲み過ぎただけだ」

「あっ、歓迎会ですか? テオさんから聞きました。毎年視察の都度、行われているんですよね」

「懇親会も兼ねているから断れなくてな。ここの奴らは酒に強すぎなんだ……」


 げんなりした様子に昨夜何があったのかおおよそを把握した。


 この地域の冬は寒く、アルコール度数の高いお酒で暖をとることがある。そのせいで、男女共に酒に強い人が多い。そんな人達と酒の席を囲んだら疲れもするだろう。


「確かにアレクも強いですし。おじいちゃんなんて酔ったところを見たことないですもん」


 それはアレクや砦の人たちから聞いた話だ。祖父は強い酒でも全く酔わないそうだ。むしろ、酒を飲んだ後でも手合わせが出来るらしい。


 ティナの言葉を聞いたクライヴが眉間に皺を寄せる。それに嫌な予感がした。


「えっと……アレクかおじいちゃんが無理を言いました?」

「…………いや、あれは歓迎の証だ……多分」


 そう言ってクライヴがさりげなく視線をそらす。これは間違いない。どちらかがまだ何かしたに違いない。


「すみません……二人には注意しておきます」


 どうせクライヴに変な言いがかりをつけて飲ませたのだろう。結婚の噂は嘘だというのに。特にアレクが無理強いをしていそうだ。


 そんな事を思うティナだが、本当の所は祖父の方がクライヴを酔い潰した犯人だったりもする。それをティナが知るよしはない。


「あっ、私は今日ノルド村に戻る予定ですが、クライヴ様はまだ数日滞在しますよね?」

「俺もティナと一緒に──」

「仕事はちゃんとしましょうね」


 仕事を放り投げそうなクライヴを笑顔で牽制すれば、分かりやすいくらいしょんぼりされた。久々にぺしょんと垂れた耳と尻尾の幻覚が見える。


 こんな状態のクライヴを置いて帰るのは気が引けるが、ティナがいつまでも砦にいてもすることがない。


「私は皆に挨拶したら先に戻りますね」

「一人でか? 誰か護衛を……いや、俺が──」

「クライヴ様は仕事に専念して下さい」


 もうこの犬は、隙あらば脱走を試みる。心配してくれるのは有難いがきちんと仕事をしてほしい。


「村と砦は小さい頃から一人でも往き来してるので大丈夫です」

「いつ何があるかなんて分からないだろ。ティナは目を離すと危なっかしいからな」

「うっ……その節はご迷惑をおかけしまして……」


 誘拐された時の事を持ち出されると反論出来ない。とんだ勘違いから誘拐されたとは言え、クライヴに心配をかけたのは事実なのだ。


「えっと、アレクがちゃんと護衛をつけてくれるので大丈夫です。女性だけど小隊長を務めるほどの方なんです。私も小さい頃から良くして頂いて……ですから大丈夫ですよ」

「女性……小隊長……あいつか」


 クライヴがぶつぶつと呟く。「あいつなら……まぁ盗賊が出ても何とかなるか」なんて言っている。こんな田舎でそんな物騒な事が起きるわけないだろうに。


「ウチで待っていますので、仕事頑張って下さい」

「ティナのためにも速攻で終わらせる。すぐ戻るからな」


 そう言うと、クライヴは当たり前のようにティナの髪をさらりと撫でた。ドキリとするも、髪を触られるくらいは大分慣れた。そう油断したのが悪かった。


 チュッという音と共に頬に感じる感触。これは──。


 あまりにも自然な流れすぎて、ティナですら何が起こったのかすぐに理解出来なかった。咄嗟に頬を押さえるも、時すでに遅しだ。


「なっ……! ク、クライヴ様っ!」

「仕事を頑張るご褒美にこのくらいは許されると思うんだ」


 クライヴが無駄にキリッとして言い切る。確かに仕事を頑張れとは言ったが、頬にキスをしていいなんて一言も言っていない。


 頬に残る唇の感触がやけに熱く感じる。真っ赤になったティナは、しばらくその場から動く事が出来なかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る