第71話 辺境視察
「ふわぁ……よく寝た」
グッと腕を伸ばしたティナは、寝起きの擦れた声で小さく呟いた。時刻は朝の六時半。外は太陽が昇り明るくなりつつあった。
「むふふ……おかわりぃ……」
むにゃむにゃと聞こえてきた寝言は隣ですやすやと眠るエイダだ。獣化したトラ姿の時は早起きだったが、人化した途端にお寝坊さんに変わってしまった。いったいその違いは何なのか。
エイダを起こさないようにベッドから起き上がる。今日の天気を確認しようとカーテンを少し捲ったところで、庭先に大きなヒグマがいるのを見つけた。
ヒグマは、のそりのそりと歩きながら念入りに木の匂いを嗅いでいる。そのまま観察していると、すくっと立ち上がった。
──何度見ても迫力があるなぁ。
ヒグマの爪とぎ――正確には縄張りを示すマーキングのようなものだが、彼の場合は爪とぎなのだ。あのヒグマは野生ではないのだから。
「ダン、おさんぽ?」
ヒグマの観察に夢中になっていると、ひょこっとエイダが割り込んできた。
いったいいつの間に起きたのか。そして、いつの間にここまで来たのか。トラの忍び足、恐るべし。
「おはよう、エイダちゃん」
「おはよー」
「あのクマがダンさんだってよく分かったね」
そう、悠然と庭を闊歩するのはヒグマ獣人のダンだ。彼はティナが怖がると思って、今まで獣化する事を避けていた。だが、ティナが怖がることがないと分かると、こうしてヒグマ姿を見せてくれるようになった。
「ダン、いつもあそんでくれる。すぐわかる!」
どうやら仲良しだからすぐわかると言いたいらしい。ドヤ顔をしているが、キレイな金髪が寝癖でボサボサだ。
一度カーテンを閉めたティナは、
「エイダちゃんはダンさんと仲良しだもんね」
「たかいたかいすき! きょうもしてもらう!」
むふふ、とエイダが楽しそうに笑う。ダンの高い高いはエイダが高く舞うので、見ている側はハラハラする。まぁ、本人が楽しそうなのでよしとしよう。
ダンは子供が好きらしく、手が空くとエイダと遊んでくれる。人化したエイダは、さらにパワフルになったので、体力も力もあるダンは、エイダにとってよき遊び相手のようだ。
「顔を洗って着替える頃には、ダンさんも食堂に来てるかもね」
「いっしょにごはんたべる!」
嬉しそうな声を上げるが、その理由は別にある。心優しいダンは、エイダに自分の食べ物を分けてあげるのだ。それに味を占めたエイダは、ダンと一緒にご飯を食べようとする。
――私がちゃんと見てないと、ダンさんのご飯全部なくなっちゃうんだよね……。
ティナは苦笑しながら朝の支度を整えるのだった。
◆◆◆◆◆◆
食事が終わったティナは、執務室で仕事をしていた。
いつもならティナのあとを付いてくるエイダは、ダンと庭で遊ぶと言い出したため別行動をしている。ティナ離れしつつあるのは成長の証でもあるが、それはそれで少し寂しくも感じる。
外から聞こえる楽しそうな声を聞きながら、黙々と手紙と書類を仕分けていく。この作業も大分慣れたものだ。
だが、ティナにはものすごく気になる事があった。
レナードとクライヴの雰囲気がおかしいのだ。いや、どちらかといえばクライヴの様子がおかしい。レナードを避けているような、警戒しているような。一定の距離を空けている気がする。
「……あの、何かあったのでしょうか?」
思い切って二人に尋ねてみる。すると、二人同時に仕事の手が止まった。
「ティナ……俺は昨夜死を覚悟した」
「はい?」
クライヴが遠い目をしながら虚空を眺める。
あんなに強いクライヴが死を覚悟するなど、何があったのだろうか。
「も、もしかして、何か事件ですかっ!? ケガはしていませんか?」
「ああ、凶悪な奴に──」
「誰が凶悪ですか?」
突如ヒヤリとした空気が漂い出す。窓が開いているのかと思ったが閉じられている。
不思議に思っていると、レナードと目が合い、ニコリと穏やかに微笑まれた。相変わらず涼やかで優しげな美男子だ。
「隊長しかいないだろ。あれは完全に視線だけで人を殺せる勢いだったぞ」
「失礼ですね。私は人殺しはしませんよ」
「はっ!? 殺気を放ちながら剣を抜いてきたじゃないか」
「お前達が長々と居座るからです。一時間は付き合ったのだから十分でしょう」
「飲み会で一時間って短いだろっ」
何やら言い合いを始めてしまった。
話しから察するに二人は昨夜会っていたのだろう。そして飲み会をしていたと。だが、飲み会からなぜ死を覚悟するような事態になったのか。
首を傾げていると、クライヴがこちらを向いた。
「ティナ、隊長はエセ紳士だから気を付けろよ。こう見えて腹の中は真っ黒に淀んでるんだからな」
「え……あ、あの」
話しに引っ張り込まれたティナは、眉を八の字にして困惑した。
レナードが悪い人には到底思えない。どう見ても品行方正の優しい好青年だ。
「レナード隊長は優しい方だと思いますが……」
「なっ! 俺のティナが既に騙されてるっ!」
「ティナ嬢、ありがとうございます」
爽やかに微笑むレナードは、どこからどう見ても好青年だ。時々口調が荒くなることもあるが、武官ならそういう事もあるのだろう。
というか、いつクライヴのモノになったのだろうか。あまりにもナチュラル過ぎてスルーしてしまった。
ティナとしては、レナードだけでなく特務隊の全員が優しいと思っている。もちろん、ここでオーバーなリアクションをしているクライヴも含めてだ。普段口にしてこなかったが、こういう機会に言葉にしてみるのもいいかもしれない。
「特務隊の方はみんな優しいと思います。不便なことはないかなど気遣ってくれますし」
本心でそう言えば、クライヴが片手で顔を覆ってしまった。突然どうしたのだろうか。
「俺の番い、マジ天使……! 世界一可愛いっ!」
恥ずかしすぎるからやめてほしい。胡乱な視線を向けていると、レナードも同じように冷めた目でクライヴを見ていた。
「……ティナ嬢、バカ犬は放っておきましょうか」
「はい……」
乙女のように頬を染めて悶絶するクライヴを無視して、レナードとティナは仕事を再開させた。
手紙の仕分け――これは城内で出された手紙の仕分けだ。警備隊から手紙のほかにも、いろいろな部署からの手紙が届く。個人宛なら本人に渡し、特務隊宛なら開封して中に目を通す。それで急ぎならレナードに回すのだ。
そんな作業をしていると、宛名の横に「重要書類」と赤く記載された手紙を見つけた。
隊宛の手紙だったので、封を開けて目を通すと、『辺境視察について』と書かれてあった。視察先は『例年通り』としか記載されていないが、書類の最後には『いつも通り秋の実施を求む』とある。
現在の季節は初秋。木々が色づき始め、朝晩は少し冷え始めた頃だ。
「あの……レナード隊長、少しよろしいですか」
「はい。どうかしましたか」
「これなのですが、急ぎでしょうか?」
レナードへと書類を渡す。いつの間にか正気に戻ったクライヴも手紙を覗き込んだ。
「あー……毎年恒例のヤツか。すっかり忘れてたな」
「……これはマズいですね」
二人は眉間に軽くシワを寄せた。どうやら大事な案件を忘れていたらしい。
「まぁ、今から向かっても間に合うでしょう」
「今年はどっちが行くんだ?」
「クライヴしかいないでしょう? 去年は私が行きましたし」
「その前は二年続けて俺が行っただろう」
口論染みた会話から察すると、どちらも行きたくないようだ。辺境視察とあったから、隊長か副隊長が行くことになっているのだろう。
それにしても辺境とはどこのことなのか。一般的には、この国でただ一つの辺境伯家がある北を指すのだが……。
「あそこに行くと手合わせだの宴会だのって、いちいち疲れるんだよ。なんだってあそこの連中は、ああも血の気が多いのか……」
「それは私も同感です。出来る限り行きたくないです」
「それならいっそレオノーラあたりに──あれ、そういや……ここって例の場所に近いんじゃないか?」
そう言うなりクライヴが地図を持ち出し、机上へ広げた。近くにいたティナも興味本位で地図を覗き込む。
「おや、本当ですね。辺境視察のついでに訪れれば一石二鳥ではないですか」
「だよな。確か……ノルド村だっけか」
「…………えっ!?」
クライヴの指は、よく知った村を指し示していた。
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