第64話 特訓開始

「うぐぐぐぐっ!」

「エイダちゃん、頑張って!」


 ティナのベッドの上では、一生懸命に踏んばる小さなトラが一匹。


 言っておくが、決していきんでいる訳ではない。絶賛人化じんか訓練の真っ最中である。


「そこまで力む必要はないわよ。っていうか、ちゃんと息はしなさい」


 先生はサーバルキャット獣人のレオノーラだ。夜にこうして訓練をするようになったのは、ここ最近のこと。レオノーラがティナの部屋を訪れ、一時間ほど指導をしてくれる。


 人化訓練を始めるきっかけは、ほんのちょっとした出来事であった。それは、ティナがエイダの秋服を買ってきた時のこと──。


『じゃーん! 重ね着風チェックのワンピース! 人化したエイダちゃんが着たら絶対可愛いと思って買っちゃった』


 そう言ってティナは一目惚れで衝動買いした幼児服をエイダに見せた。オレンジ色のチェックが秋らしくて、とても可愛らしいデザインのワンピースだ。


 エイダの服は特務隊の経費からいくつか購入している。いつ人化してもいいようにと、レナードが配慮してくれたのだ。本当は必要ないのだが、あまりの可愛さにティナが自費で買ってきた。


 エイダはまだ人化できないにもかかわらず、その日はトラ姿のエイダに服を合わせてみては、可愛い可愛いとずっと言っていた。褒められて得意気な顔をするエイダも最高に可愛かった。


 そして、翌日の朝食の席にその出来事は起こった。


 食堂に入るといつもは真っ先に「おにくー」と朝ご飯をねだるエイダだったが、この日は朝ご飯を後回しにしてレオノーラの元へ行ったのだ。そして、おもむろにこう言った。


『じんかのしかたおしえて』


 これにはティナも驚いた。今まで人見知りを発揮して、自分から近寄ることも話しかけることもしなかったエイダがそう言ったのだ。レオノーラも驚いて、肉を食べる手が止まっていたほどだ。


 こうしてエイダの人化訓練が始まったのだが、なぜレオノーラを選んだのかというと「う?」と首を傾げられてしまった。そういえば、あの時は食堂にレオノーラしかいなかった気がする。


「自分が人の姿になったのを強く頭に思い浮かべるの」

「ふぬぬぬぬぬっ!」

「イメージよ! こう、ブワッと変身する感じ!」


 レオノーラは感覚型らしく、中々にふわっとした指導だった。実を言うと、初日から進歩らしい進歩はない。


 そもそも獣人族の変化は、成長と共に自然と身につくものらしい。こうして教えるということ自体あまりしないそうだ。


「ふぐっ……っ!」


 踏ん張り続けたエイダが突如パタリと倒れる。もはや見慣れた光景に、ティナとレオノーラは黙って顔を見合せた。


「まずは力みすぎない事から教えた方が良さそうね……」

「毎回酸欠になるまで踏ん張るのは困りものですね……」


 人化訓練は、毎回エイダの酸欠と共に終了となるのだ。文字通り力一杯頑張ったエイダは、疲れ果ててハカハカと呼吸をしていた。


 ティナは頑張ったエイダの頭を撫でてから、事前に準備していたお菓子を広げ始めた。ポットには程よい温度のコーヒーもある。エイダ用のジュースも準備はバッチリだ。訓練の後は、こうしてちょっとしたお茶会をするのが恒例なのだ。


「エイダちゃん、お疲れ様。まずはジュースを飲もうか。ゆっくりだよ?」

「じゅーす!」

「レオノーラさんはコーヒーですね。はい、どうぞ」

「いつもありがとう」


 ネコ科のレオノーラは、熱い飲み物が苦手だ。それに合わせてちゃんとぬるめで準備済みである。


 ちなみに同じくネコ科のエイダは、食欲が勝り過ぎて熱い料理でも躊躇なく口にする。その後、悶絶しているが毎回懲りずにがっついている。こちらも指導が必要かもしれない。


「エイダくらいの年齢なら無理して訓練しなくてもいいのに」

「クライヴ様にも言われました。成長すれば自然と覚えるから大丈夫だって」

「や! じんかする!」


 レオノーラとティナの話しをしっかり聞いていたエイダが、声高く反論した。それから、前脚でビシッと例のワンピースを指差す。


「あれ! きるの! それでおでかけする!」

「うーん、でも急いで訓練しなくてもいいんだよ、人化したらいっぱい一緒におでかけ出来るんだから」

「やー! いますぐおでかけしたい!」

「頑張るのはいい事よ。でもエイダの場合は、まず力まない事から始めましょうか」


 こてんと首を傾げたエイダに、レオノーラとティナはまたも顔を見合わせた。どうやら本人は、力みすぎて息を止めている自覚がないらしい。


「でも、人化出来てすぐは出かけない方がいいわよ」

「えっ? 何かあるんですか?」

「急に獣化しちゃったり、半分獣化しちゃったりするのよ」

「半分獣化、ですか?」

「耳や尻尾が出たりするの」


 人の姿に獣の耳や尻尾──何だそれは。絶対可愛いではないか。


 エイダならトラの耳にしましまの尻尾。まだたどたどしい言葉ながら、元気に走り寄ってくる姿。うん、ものすごく可愛い。


 可愛いらしい想像にうっかりトリップしていると、遠慮がちなレオノーラの声が聞こえてきた。


「……子リスちゃん、エイダの半獣姿なら可愛いけど、大人だと微妙だからね」


 ティナがエイダの半獣姿を想像していたのがバレていたらしい。レオノーラの言葉に、ティナは新たな想像をしてしまった。


 きりりと凛々しい顔立ちにピンと立った獣耳。アッシュグレーの毛並みが美しい、ふわふわでボリューミーな尻尾。


「…………」

「……子リスちゃん、副隊長が可哀想だからやめてあげて」

「あ、はい……」


 なぜ分かったのだろう。先程といい、レオノーラの勘の良さに脱帽する。


「大人になれば半獣化する事はなくなるわ。半獣化は変化が未熟と捉えられるから、わざわざする必要も無いしね」


 レオノーラがフォローするように説明してくるが、ティナとしては見られないとなると余計見たくなる。クライヴにお願いしたら見せてくれるだろうか。


──あっ、喜んでやってくれそう……。


 断られる想像が全く出来ない。快く快諾した上に、耳と尻尾まで触らせてくれそうだ。


 そこまで想像して、ふと気付いた。自分の中で、日に日にクライヴが犬化していく気がする。


 先日もそうだ。フィズとアルヴィンの結婚報告の際に、クライヴがセクハラ発言をし、番いを辞退したいと言ったあと。しばらく反省してもらおうと、ティナはクライヴを軽く無視していた。


 そうしたら翌日の朝、ティナの部屋の前でオオカミが項垂れたまま待っていたのだ。こちらの反応を窺うように上目遣いで見上げてくる始末。あんなに悲愴な姿を見せられては、許すしかなかった。


 千切れんばかりに尻尾を振って喜ぶクライヴは、もうどこから見ても完全に犬であった。こんなだから『飼い主と犬』とか言われてしまうのだ。


「ねぇ、子リスちゃんは今でも副隊長の番いを辞退したい?」

「えっ?」

「ただの興味本位よ。ほら、副隊長って結構モテるじゃない。子リスちゃんは他の子と違うなぁって思って」

「う……そ、それは、結婚とかすぐには決められないですし……」


 クライヴとのお付き合いを考えるということは、その先も想定しなければいけない。番い以外を愛さない獣人族にとって、受け入れられたイコール結婚と捉えてしまうからだ。人族のように、性格が合わないから別れましょうとはいかない。


──クライヴ様がいい人だっていうのは分かったけど……結婚となると……。


 正直そこまでは想像できない。結婚は未知の世界だからか、どうしても慎重になってしまうのだ。


「クライヴ様の想いが真剣だからこそ、ちゃんと考えたいんです」

「人族は真面目ね。私達なんて直感で生きてるようなものよ。ほら、フィズの例が分かりやすいでしょう?」


 電撃結婚の裏に隠された色仕掛け。行動的というか何というか。


「あっ、副隊長はフィズみたいな事はしないから安心して」

「……一応そこは安心してます」


 出会って数秒で唇を奪われたんですけど、とは言わないでおいた。まぁ、確かに手を出してくる素振りはないので、クライヴとて常識は弁えているのだろう。多分。


「あら、エイダが眠そうね」

「え? あっ、本当だ」


 すっかりレオノーラと話し込んでしまい、エイダが静かになっている事に気付かなかった。いつの間にか菓子とジュースを完食したエイダは、眠そうに目をしょぼしょぼさせていた。


「じゃ、そろそろ私はおいとまするわ」

「はい、御指導ありがとうございました」


 エイダの代わりに礼を述べると、レオノーラはヒラヒラ手を振りながら去っていた。

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