第42話 ウォルフォード邸
「ティナ。ほら、あーん」
「…………」
目の前には、蕩けんばかりの笑みでスプーンを差し出してくる人物が一人。
いったいなぜこんな事になったのか。反論は認められず、ティナは大人しく差し出されたスプーンを口にした。
こんな状況、誰だって戸惑うだろう。ティナは今、クライヴの膝にちょこんと横抱きにされ、甲斐甲斐しく世話をされていた。
◆◆◆◆◆
遡ること数刻前。目が覚めると、見た事もない豪華な部屋でふかふかの布団に寝かせられていた。
むくりと体を起こし、ここがどこだか辺りを見回してみる。するとタイミングよくノックする音が聞こえてきた。条件反射で返事をするば、果実水を持ったクライヴが入室してくる。そして、居場所を尋ねたティナへ、当たり前のようにこう言った。
「ここ? 我が家だが?」
はて、我が家? クライヴ様の家? という事は……四家のウォルフォード邸ーー!!
言葉にならない絶叫は、クライヴの満面の笑みによって肯定された。
獣人族には人族と同じように貴族という身分がある。それは獣人貴族と呼ばれ、たった四家しかない。その内の一つが、ウォルフォード家──クライヴの実家だ。本人は貴族である事を何とも思っていないようだが、庶民のティナからすればお偉いさんもお偉いさんだ。何せ次期当主様でもあらせられる。
場違いな状況にあわあわ慌てるティナだったが、クライヴから事の顛末を話すと言われ背を正した。その前に果実水で乾いた喉を潤すよう促される。言われるがままにグラスに口をつければ、柑橘類の爽やかな香りが鼻に抜け、ほんの少しだけ心が和らいだ。
クライヴの話によると、犯人暴行──いや、犯人捕縛の後、ティナは意識を失ってしまったらしい。誘拐されて極度の緊張状態だった上に、飲まず食わずで蒸し暑い幌馬車の中に閉じ込められていたせいで熱中症になりかけていたそうだ。
「奴らは王都で悪質な薬を売り捌いていた犯罪組織でな。警備隊と特務隊で行方を追っていたんだ。どうやらティナのことは獣人族と勘違いして誘拐したらしい」
なるほど、どこかで私が特務隊で働いているのを聞いて勘違いしたのか。美男美女揃いの獣人族に間違えられるとは……犯人の手際がお粗末過ぎる。
「ティナが倒れた後、警備隊とレオノーラ達も到着したんだ。後処理は任せて俺達は一足先に馬で戻らせてもらった。早くティナを休ませたかったしな」
「その節は大変なご迷惑をおかけしまして……」
「ティナが謝る事じゃないさ。もっと俺が配慮すべきだった」
謝ろうとしたティナをクライヴが遮るように言葉を被せる。そして、ティナのこめかみへとそっと手を伸ばす。怪我をしていた場所は、既に治療済みでガーゼが貼られていた。
「手首も痣になってしまったな」
クライヴの視線がティナの手へと落とされた。両手を縛られていたせいで、ティナの手首には赤く鬱血したような痕が残ってしまっていた。
「大丈夫です。しばらくすれば治りますよ」
「そういう問題でもないだろ」
痛ましそうに痕を見てくるクライヴに申し訳なさが湧き上がる。クライヴが悪いわけではないのに、なぜそうも責任を感じているのか。
顔を上げたクライヴは何かを言おうとしては口を噤んでいた。そして、おそるおそるという感じで口を開いた。
「ティナ……その……抱きしめてもいいか?」
不安げに揺れるイエローゴールドの瞳が真っ直ぐに見つめてくる。不謹慎にもドキリと胸が高鳴り、視線を逸らすように思わず俯いてしまった。
普段ならダメだと即答するところだが、何となく言いにくい。助けて貰ったのだから、これくらいは許容範囲だろう。そう納得させたティナはコクリと頷いて返事を返す。
それを確認してからクライヴが壊れ物でも扱うかのようにそっとティナを抱きしめた。
「ティナを失うかと思うと怖かった」
「大丈夫です。助けに来てくれてありがとうございました」
「…………」
抱きしめられているので、クライヴがどんな表情をしているかは分からない。しかし、深い後悔が伝わってくる。
微動だにしないクライヴにティナは言葉を続けた。
「颯爽と助けに来て下さって、とてもかっこよかったです」
「…………」
「えっと……クライヴ様はすごく強いんですね」
「……大切な番いすら守れてないんだぞ?」
ようやく返事が返ってくるも、その声色はまだ暗い。
「怪我の事ですか? これは馬車の揺れでぶつけただけです。手当して頂いたのですぐ治りますよ」
「だが……」
そこまで話した時、クライヴが勢いよく顔を上げた。あまりの至近距離にドキリと心臓が跳ね上がる。
「決めた! ティナが回復するまで俺が世話をする!」
「へっ……?」
「もとよりウチで療養してもらう事になってるからちょうどいい」
「な、何ですかそれ!?」
初耳だ。療養も何も、ティナは重病でも何でもない。元気になってくれたのは嬉しいが、そんな気遣いは無用である。
「いえ、あの……わ、私は家に帰りたいんですが……」
「俺に世話されるのは嫌か?」
「う、うぐっ……」
人化しているのに、へにゃんとした耳と尻尾の幻覚が見える。断らねばと思うのに捨てられた子犬のような目をされると突っぱねる事が出来ない。
「ティナ……」
「うぐぐぐっ……わ、分かりましたから離れて下さいっ!」
葛藤空しくあっさり敗北したティナは、クライヴから距離を取るように顔を逸らした。
「よし。じゃ、早速」
「ふぇ? きゃっ……!」
何が早速なのかと思いきや、流れるような動きで抱き上げられた。そのまま豪華なソファへと移動させられる。
抱き上げられた上に、膝抱きにされたティナは、あまりの密着度に顔を赤くする。
「クライヴ様っ! お、おろして下さい!」
「ティナの食事をここへ」
「ちょっ、聞いてますかっ!」
ベルでメイドを呼びつけたクライヴは、ティナの意見などまるっと無視して話しを進める。無理矢理下りようとしてもがっちりホールドされてビクともしない。
そこでティナは、今更ながら自分が見た事のない寝間着を着ている事に気が付いた。もちろん着替えた記憶などあるはずがない。
「というか、いつのまに着替えて……えっ……ま、まさか……」
「残念ながらそれはウチのメイドだ。俺がしてもよかったんだがな」
「よ、よくないですっ!」
「何なら一緒に風呂に入るか?」
「~~っ! 入りませんっ!!」
先程の落ち込みぶりは何だったのかというほど、クライヴは饒舌でご機嫌だ。ティナが真っ赤になって反論するのを楽しんでいる。
オオカミは計算高いというが、まさか先程のは演技だったのだろうか。いや、流石にそれはないと思いたい。
ワーワー言い合いをしている間に、先程のメイドがカートを押して戻ってきた。ティナ達の様子を見ても、何も言わずテキパキと準備をしていくのが非常にいたたまれない。
「熱中症で倒れたからな。一応胃に優しい粥にしてもらった。味は保証するぞ」
ふわりと漂う美味しそうな匂いにティナはピタリと動きを止めた。言われてみるとお腹が空いている。それに、貴族の屋敷に務める料理人の食事ならぜひとも食べてみたい。
メイドが小皿に粥を取り分けてくれる。そのまま渡してくれるのかと思いきや、なぜかクライヴへと渡す。あれ、と思う間に一礼して部屋を去っていってしまった。
ポカンとするティナを尻目に、クライヴはさも当たり前かのように、熱々の粥をふーふーと冷まし始めた。まさか世話をするとは――。
「こんなもんか。ほら、あーん」
「ひぇ! じ、自分で食べれますっ!」
「あんまり暴れるとこぼすぞ?」
「で、ですから、自分で食べます」
「これが嫌なら口移しにするぞ?」
「ひいぃ! い、いただきますっ!」
笑顔で恐ろしい提案をされ、ティナは慌てて出された粥を口に含んだ。ハフハフしながら味わうも、間近で見つめられて味を感じるどころではない。
「俺は口移しでも構わなかったんだがな。ほら、もう一度あーん」
「…………」
クライヴのことだからヘタに断れば本気で口移しをしてきそうだ。そう悟ったティナは、大人しく給仕を受け入れることにした。
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