第39話 ティナと子トラ

 あの後、男から水の入った皮袋とリンゴを一つ与えられた。今は再び幌を下ろされ、荷馬車の中は薄暗くなっている。


──もうっ! こんな状況でどうやって飲めっていうのよ!


 手は未だ縛られたまま。起き上がれもしない状態で、どうやって飲食しろというのか。生かす気があるのかないのか……とにかく腹立たしい。


 幸いにも荷馬車はまだ停車している。走行中では揺れが激しくてどうにも出来なかったが、芋虫のような動きで少しずつズリズリと這いつくばってみる。何とかそのまま体を起こすことに成功した。蒸し暑い中で体を動かしたため汗だくだ。


 膝立ちでちびちび移動して、ようやく水とリンゴを手にする。それらを持って向かったのは荷馬車の奥だ。


「子トラちゃん、お水だよ」


 小声でそう声をかけるも子トラは横たわったまま動かない。僅かに耳がこちらを向いたので意識はあるようだ。


 噛みつかれるのを覚悟で、縛られたままの手を伸ばす。子トラの体へそっと触れると、かなり体温が上がっていた。


──大変! 熱中症になってるのかも!


 脱水症状になれば意識を失ってしまう。そのまま命を失うことだってあるのだ。


「子トラちゃん、ごめんね。ちょっと引っ張るよ」


 子トラがいる場所は狭くて入れない。水を飲ませるためには、子トラの後ろ足を引っ張って引きずり出すしか方法がなかった。


 可哀想だが致し方ない。ティナは子トラの後ろ足を掴むと、ゆっくり慎重に引っ張った。子トラは暴れはしなかったが、しっぽがペシッ、ペシッと床を叩いている。無理矢理引きずり出したので、お怒りのようだ。


 また隙間に戻ってしまう前に少しでも水を飲ませねば。縛られた両手と口を使い、急いで皮袋の紐を解く。水音が聞こえたのか、子トラの耳が僅かに動いた。


 まず、ティナが毒身として指で一口舐めてみる。変な味はしない。ぬるいけどもちゃんとした水だ。


「ほら、お水だよ」


 まずは無理はさせずに濡らした指を口元に持っていく。子トラの鼻がヒクヒク動くが舐める様子はない。やむを得ずに口元をちょんちょんと触り軽く濡らしてみた。するとペロンと舐めてくれた。


 ちょんちょん、ペロンという工程を何回も繰り返す。これっぽっちでは喉が潤わないので出来れば自力で飲んで欲しい。ティナは一度皮袋を閉じて横へ置いた。


「ごめんね、体を起こすよ。お水いっぱい飲もうね」


 優しく話しかけながら横になったままの子トラをうつ伏せにするように向きを変える。子トラはされるがままで大人しい。


「ほら、お水だよ。ゆっくり飲んでね」


 再度紐を解いて皮袋を開けると、子トラの口元に置いた。なるべく飲みやすいように少しだけ傾けてあげる。本当は手を器代わりにしてあげたいが、両手を縛られているので注ぐことが出来ない。子トラには辛いかもしれないが、自力で飲んで貰うしかない。


 子トラは最初こそ皮袋をジッと見ていたが、やがて我慢出来ないとばかりに舌を出した。最初は遠慮がちに一舐め。それが段々と一心不乱に水を飲み始めた。


 その様子にホッと胸をなで下ろす。自力で水が飲めるなら、まだ重症ではない。


「リンゴも食べる?」


 リンゴを持ち上げて見せると子トラが顔を上げた。まん丸の瞳はリンゴを凝視している。鼻がヒクヒク動いているので興味はあるようだ。


「このままだと食べにくいかな。ちょっと待って……はい」


 熱中症手前の状態では齧りつく体力がないのかもしれない。そう思ったティナは、リンゴを小さく噛みちぎった。一口サイズになったリンゴを再度子トラの口元に差し出す。


 ふんふんふんふん。


 子トラは警戒するように念入りに匂いを嗅ぎ始めた。手のひらにヒゲが当たってくすぐったい。


 匂いで異常がないと分かったのか、子トラがペロッと一舐めする。それからおそるおそるリンゴの欠片を口にした。しゃくしゃくという小気味よい咀嚼音の後、ゴクンと飲み込む音が聞こえる。


「美味しい?」


 そう尋ねると、もっと欲しそうにリンゴを凝視してきた。素直で可愛らしい反応に、つい笑みがもれる。


 またリンゴを囓って欠片を差し出すと、今度はためらいもなく口にしてくれた。先程とは違い、すぐに飲み込むとおかわりと言わんばかりに見つめてきた。


「喉に詰まったら大変だよ。全部食べていいからゆっくり食べようね」


 こんな状況だが子トラが微笑ましくて、束の間心が癒される。


 時々水をあげたりしながら、リンゴを囓っては子トラに与えてと繰り返していった。キレイに完食した子トラは、物足りなそうに芯になったリンゴをペロペロ舐め続けている。ぐったりしていた時から比べれば、大分元気を取り戻している。


 そんな時、ぐぅ~という音が鳴り響く。


 ティナは慌てて自分のお腹を押さえた。子トラが不思議そうに首を傾げて見つめてくる。


「え、えっと……」


 夜ご飯を食べていないティナもお腹はペコペコだった。理性では我慢出来ても体は正直なのだ。


 子トラはティナをじっと見つめた後、夢中になって舐めていたリンゴの芯を見つめた。その後、飲み干して空になった皮袋へも視線を向ける。


「…………グゥ」


 全部食べちゃった、と謝るような小さな鳴き声。どこかしょぼんとした顔で見つめてくる様子は、まるでこの状況が分かっているかのようであった。


「大丈夫だよ。子トラちゃんは優しいね」


 ニコリと笑いかけるも子トラはしょんぼりしたままだ。耳もしっぽもへにゃんと垂れている。


「えーと……それじゃ、次は半分こにしてもいい?」


 次が貰えるかは分からない。それでもそう提案すると、子トラはピンとしっぽを伸ばした。そして、先程よりも元気に「ガゥ」と返事を返してくれた。心なしか表情も明るくなっている。


「ふふ、ありがとう」


 一人と一匹で笑みを交わし合う。まさか、誘拐された先でこんな可愛らしい友人が出来るとは思わなかった。


 ほんわかしていると、外から大きな笑い声が聞こえてきた。馬を休ませるためか、誘拐犯達も休憩しているらしい。


 子トラがその声にビクリと体を揺らす。可哀想に、今までよほど怖い思いをしてきたのだろう。


「大丈夫。きっと助けが来るよ」

「……グゥ」

「獣人族って知ってる? すごく強いんだよ」

「……」

「嗅覚がいいから匂いを辿って近くまで来てるかも。聴覚もいいからこの会話も聞こえてるかもしれないよ」


 元気づけるために明るく言えば、子トラは周りの音を聞こうとするかのように耳をパタパタと動かし始めた。


 やがて、荷馬車の外を見るかのように一点を見つめ出した。ティナもそちらを見るが人族の耳では、犯人達の会話くらいしか聞き取れない。


「何か聞こえるの?」

「……」


 そう尋ねると、子トラがティナのお腹をじっと見つめてきた。


 ……ええ、またお腹の虫が鳴きましたとも。そこは反応しないで欲しかった。子トラの無言の視線がいたたまれない。


 それはそうと、先程よりも子トラがそばに寄ってきている気がする。


──犬とか猫って伏せの体勢なのに、いつの間にか移動してる時があるよね。


 あれは本当に謎だ。だるまさんが転んだをしているかの如く、いつの間にか近付いてくるのだ。匍匐前進をしているのか、はたまた素早く立って移動しているのか。犬猫あるあるは、トラにも共通しているようだ。


 頼りにされいるとまでは思わないが、心を許してくれているようで嬉しい。子トラの頭を撫でてあげると、嬉しそうに目を細めていた。


「少し休む? 木の床は痛いだろうからこっちにおいで」


 少しとはいえ、お腹が膨れれば眠くなってくるだろう。まだ幼いなら余計にそうだ。


 ティナはポンポンと自分の膝の上を叩いてみた。すると子トラはピンとしっぽを伸ばした。まん丸のお目々がキラキラしている。


──これは……膝に乗りたいって事でいいのかな?


 しばらく待っていると、子トラは膝の上によじ登ってきた。「じゃ、お邪魔しまーす」みたいにいそいそとした態度が大変愛らしい。


「……むふー」


 ティナが観察しているうちに子トラは膝の上に乗り終えていた。登頂完了、とばかりに満足気に鼻を鳴らす。そしてそのままコロンと丸くなった。


 サイズとしては、キットギツネのリュカよりも大きいくらいだ。重みもそこそこある。縛られている手を下ろして子トラが落ちないようにしてあげると、むふんとご機嫌な鼻息が返ってきた。


 やがて子トラはすぴすぴと可愛らしい寝息をたて始めるのであった。

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