第36話 今は会いたくない

 もうじき仕事も終わるかという時間。ティナは最後の仕事として執務室の後片付けをしていた。


 この部屋の主である隊長のレナードは、午後から警備隊へと出向いていて不在だ。クライヴを含めて他の者も出払っている。ここ最近、特務隊の皆は何かと忙しそうにしていた。


──よし、あとは倉庫から備品を補充すれば今日は終わり。これならクライヴ様が戻る前に帰れそうね。


 ティナがクライヴを避けようとする原因は、ついこの間の出来事のせいだ。 


 クライヴによる指舐め――もとい消毒事件。あれ以来、クライヴと話す度にどうにも落ち着かない気持ちになる。恥ずかしくて顔を合わせられない。


 さらに追い打ちをかけたのが、あの出来事が隊員達へ知れ渡ってしまったことだ。


 まず一番最初にやって来たのは、ニマニマ顔のレオノーラだった。


「子リスちゃん、どこぞのオオカミに舐められたんですって?」


 何があったのか根掘り葉掘り聞かれたのだが、口に出すのも恥ずかしくて非常にツラかった。しかも、その間中レオノーラはずっと楽しそうにしているという鬼畜っぷり。


 二人目にやって来たのは、鋭い目をさらにつり上げてやってきたルークだ。ティナが玄関の掃き掃除をしていた時に、オオワシの姿で文句を言いに来た。


「小娘ぇ! また副隊長のお心を煩わせただとっ!」


 オオワシの姿で滑空してきたので結構怖かった。捕食される小動物とはこんな気持ちなのかと思ったほどだ。ある意味、貴重な体験をした。


 三人目は、たまたま夕方に起きてきたテオだ。食堂の手伝いをしに行こうかという時に出くわした。


「番いちゃん、前に教えたやん。獣人族はめっちゃ嫉妬深いんよ。舐められただけで済んで良かったやん」


 トラフズクの姿でテクテク付いてきながらこれである。


──ええ、ええ、分かってますよ。私が悪いってね!


 クライヴのあの行動は嫉妬から来るものだ。彼らは独占欲がとにかく強い。それは理解している。


 でも、だからといって昔付き合った男性のことまで気にするだろうか。今更消毒なんてされても時効だと思う。それなのに、手を舐め指を咥え――。


 そこまで考えたティナは、ボンっという音が聞こえてきそうな勢いで顔を赤くした。クライヴの舌の感触と熱のこもった眼差し。それらが鮮明に思い起こされる。


──む、むむむ無理っ! 何で男性なのにあんなに色気がすごいのよっ! 恥ずかしいのに目が離せなかったじゃない!


 自分だけに向けられる甘い言葉や蕩けんばかりの笑顔。激しい独占欲までもがティナの心をかき乱す。


──うぅ……これが逃げられないって事なのかな。


 頭を悩ませているうちに倉庫に着いてしまったから驚きだ。


 気を取り直して、必要な備品を持ってきたカゴへと入れていく。インク、書類の纏め紐、紙――そこまで重くはないが両手で抱えないと持っていけなそうだ。


 カゴを抱えたティナは、倉庫を後にした。


 それにしても、一体誰があの指舐め事件をバラしたのか。ティナはあの場にいた者の顔を思い浮かべた。どう考えても一人しかいない。 


──バラしたのは絶対キャロルさんだよね。


 「イェーイ!」とか言ってそうなチャラい白ウサギが目に浮かぶ。ちょっと腹が立ったので脳内から蹴り飛ばしてやった。


 キャロルに限らず特務隊の人達は楽しい事が大好きだ。面白い話題となるとすぐ食い付いてくる。それと同時に飽きるのも早い。本能の赴くままに自由に生きている感じが実に清々しい。


「あっ、ティナ!」


 自分の名前を呼ぶ声に、ティナの心臓がドキリと跳ね上がる。そこには現在会いたくない人ナンバーワンのクライヴがいた。


「執務室の後片付けか? 偉い偉い」

「う……は、はい……」


 両手が塞がったティナの頭をクライヴがよしよしと撫でてくる。こんなスキンシップですら、顔に熱が集まってくるので厄介だ。バレないように俯いておく。


「隊長はまだ戻ってこないから片付けが終わったらあがりでいいぞ。……ティナ?」

「ひゃ、ひゃい!」


 俯いてしまったティナを不思議に思い、クライヴが顔を覗き込んできた。イエローゴールドの瞳が突然目の前に迫り、ティナは一気に心拍数が上がるのを感じた。


「具合でも悪いのか? 心なしか顔が赤い気もするが?」

「い、い、いえ! えと……あ、あの……動いたのでちょっと暑いなぁと」


 我ながら苦しい説明だと思ったが、夏本番の今なら不自然ではない。


「そうか? 倒れないよう気を付けるんだぞ」

「は、はい」


 心の底から心配をしてくれるクライヴにまたも胸がざわついた。


 それと同時にクライヴの喉元に視線が向く。暑いからかシャツを少しはだけさせていて、男らしい太い首が見えて妙にセクシーだ。


──う、うわぁ……って何考えてるの! これじゃ変態みたいじゃない!


 ティナが一人であわあわしているがクライヴは気付いていない。気付かれて問い詰められても困るので非常にありがたい。


「そんじゃ、俺も隊長のとこに戻るから。暗くなる前に帰るんだぞ」

「は、はい。お仕事頑張って下さい」


 ティナの労いの言葉にクライヴが笑顔で返す。そのまま去りゆく背中を見送った。


 気を取り直してティナは、執務室へと入り、倉庫から持ってきた備品を補充していく。無心に体を動かすうちに動悸も治まっていった。


 後片付けを終え、一応食堂へと立ち寄る。キャロルへ勤務終了の旨を伝えると「お疲れー。また明日~」という返事が返ってくる。手を振って別れると、いつものように通用門へと向かう。簡単なチェックをされた後、城門の外へと出た。


 季節はすっかり夏。いつもなら夕焼けが美しいこの時間も、日が長い今はまだ明るかった。


──今日はご飯作るの面倒だなぁ。屋台で買って帰ろうかな。


 普段はキチンと自炊するのだが、今日はそんな気がおきない。勤務終わりにクライヴと会ったからかもしれない。クライヴには悪いが心が落ち着くまでお迎えもストップしてほしい。


 ティナは夕食を買うべく屋台街へと足を向けた。


 屋台街は多くの人で賑わっていた。一仕事終えて一杯飲もうとする者、ティナのように夕食を買いに来た者。人ごみを縫うように屋台を覗いて歩く。


 悩んだ末にチキンの甘辛サンドと野菜たっぷりのサラダを購入した。暑い季節はピリ辛が食べたくなる。


 夕飯が入った紙袋を抱えて、ティナは帰宅の途についた。屋台街でじっくり選んでしまったせいで、空はもう暗くなっている。比較的治安が良いとしても、進む足は自然と早足になる。


 ティナの住む家は少し裏道に入った所にある。明るく賑やかな屋台街と比べると人通りはない。ご近所さんはもう家の中で夕食を取っているのだろう。


──あれ、荷馬車? 何でこんな所に?


 ようやく家が見えてきたと思ったら、見慣れないものが目に入った。


 この道はそこまで大きくなく、荷馬車なんて通れば人が通れなくなる。そもそも、こんな裏道の住宅街を荷馬車が通る事などない。


──この道を真っ直ぐ行けば王都を出る門には近いけど……。


 慣れない商人が近道で通ろうとしたのかもしれない。前にもそんな事があったので、あまり気にしないで荷馬車の横を通り過ぎた。


 そして、家の鍵を取り出そうとした時だった。突然背後から何者かに羽交い締めにされる。


「きゃ──っ!」


 驚いて出た悲鳴を塞ぐように、布のようなもので口を強く押さえつけられる。その布からはツンとした強烈な匂いがした。


──やだっ……な……に……。


 そこでティナの意識は途切れてしまった。

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