第17話 至福のブラッシングタイム
ランチを食堂で済ませたティナは隊舎の玄関へと来ていた。手に持っている籠には、様々な形状のブラシが入っている。これから獣化したクライヴのブラッシングをするのだ。
「今日は少し日射しが強いなぁ……」
空を見上げれば、初夏から夏本番へと変わりゆく太陽が燦燦とティナを照らしていた。時折吹き抜ける風もどこか生温かい。
そんな時、上から大きな何かが降ってきた。驚く暇もなく、その大きな何かはティナの真横にタシッと見事に着地を決めた。
「ティナ! 悪い、待たせた!」
「ク、クライヴ様っ!?」
なんと目の前に降りてきたのは
「な、何で玄関から来ないのですか!? えっ…上…飛び降り……えぇっ!?」
「驚くティナも可愛いな」
隊舎を見上げてもバルコニーがあるだけだ。どこかから飛び降りたとして考えられない。脚力が優れていると言っても、やることが無茶苦茶過ぎる。
そんなクライヴはと言うと、驚くティナを満足気に愛でていた。ちなみに飛び降りたのは、クライヴが隊舎へ泊まる時に使う部屋だ。二階なので獣人族からすれば余裕の高さである。
「さ、時間がもったいないし行こうか。ちょうどいい場所があるんだ」
クライヴに連れられてやってきたのは、鍛錬場とは反対側の場所であった。草ボーボー……いや、自然溢れる鍛錬場とは違い、こちらは草丈も短く切り揃えられている。座って休むには、ちょうど良さそうであった。
「こんな所があったなんて……」
「ここはたまに手入れしてるんだ。春なんて昼寝すると気持ちいいぞ」
オオカミ姿のクライヴは、タシタシと地面を踏んでみせた。散歩を楽しむ犬のようで大変愛らしい。
クライヴの話によると獣化した隊員が日向ぼっこを楽しんだりもするそうだ。確かに芝生のように手入れされていて季節によっては気持ち良さそうだ。
「今日は暑いから木陰に行こう。ティナの白い肌が焼けたら大変だ」
「……はい」
気を遣ってくれるのはありがたいが、正直日焼けなど気にしていない。むしろ体温の高い犬――ではなくオオカミの方が大変なのではないだろうか。あまりツッコむとクライヴの口説き文句が炸裂しそうなので大人しく従う事にした。
二人で木の根元へ移動する。枝が大きく広がっている木なので木陰でも十分な広さがあった。
「この辺でいいか。ところで、その籠の中身は……ブラシか?」
クライヴがお座りしながら興味津々とばかりにティナの持つ籠の匂いを嗅いだ。フンフンと鼻をひくつかせる仕草は完全に犬である。
そんなクライヴを微笑ましく思いながら籠の中身を傾けて見せた。
「はい。コーム、スリッカー、獣毛……取り揃えはバッチリです」
「すごいな。なにか動物を飼ってたのか?」
「いえ、ウチで動物は飼えなかったんです。その…いつか特務隊に務めたらここにいる子をブラッシングしてあげたくて……あっ、クライヴ様を動物扱いしている訳じゃないですよ!」
「大丈夫だ、気にしてない。むしろティナの初めてになれるのは嬉しい」
ふわりふわりとボリューミーな尻尾を揺らすクライヴだが、語弊が凄まじい。わざとなのかボケなのかが分からない。とりあえずティナは聞かなかった事にした。
「えーと……それでは、軽く毛並みをほぐす所から始めますね」
「ああ、思う存分触ってくれ」
籠の中から選んだのはピンがくの字になっているスリッカーブラシだ。これだけでも大中小とサイズ違いで取り揃えてある。
まずは、痛くないかどうか背中へ軽く当ててみた。硬質な毛ながらもアンダーコートがあるからかふわりとしている。
「痛くないですか?」
「大丈夫だ。ちょうど生え替わり時期だから助かる」
「えっ? 獣人族でも換毛期があるんですか?」
「一応あるぞ。人化してると何の変化もないのに、獣化した途端に抜けまくるんだ。俺達でさえ原理がさっぱり分からん」
オオカミ姿なのに器用に眉根を寄せるクライヴに思わずクスリと笑ってしまった。
「では、暑くなる前に今日はしっかりブラッシングしますね。任せて下さい!」
軽く梳かしただけでもブラシには毛がもっさりだ。これはやりがいがある。ティナは慣れた手つきでブラシを動かした。
元々毛並みは良かったが梳かせば梳かすほど艶やかになっていく。特に胸毛の飾り毛は念入りに梳かした。コームとスリッカーを使い分け、ふっかふかにしてやった。
「すごい抜け毛……いつもはどうされてるんですか?」
「いつもは地面に転がって適当にやりすごしてる。それでも毛が飛ぶからと文句は言われるがな」
その場面を想像して笑ってしまった。地面に寝転ぶのも微笑ましいが、文句を言われる姿も何だか笑えてくる。
「他の奴らもその辺で転がってることが多いな。ブラッシング中は無防備になるから他人にされるのを嫌がるからな」
「えっ? ……も、もしかして今も無理をされてますか?」
もしやティナに気を遣ってブラッシングさせてくれたのではないか。思わずブラシを動かす手が止まる。
「ティナになら触られても平気だ。ブラッシングは番いだけの特権だからな」
「……いえ、番いは辞退したのですが……」
「口説くのは自由だろ? このもふもふを触り放題なんてお得だと思わないか?」
ふふん、とクライヴが自慢気に鼻を鳴らす。ボリューミーな尻尾を見せつけるように左右に揺らし誘惑してくる。
「ず、ずるいです。私が動物好きだと知って……」
「ティナはもふもふ触り放題。俺もティナと仲良くなれて一石二鳥じゃないか」
「さ、さすがはオオカミ……計算高い」
抗えない魅力を前にティナは屈するしかなかった。オオカミをブラッシング出来るなんて二度とない。どうせなら開き直って満喫してやる。
そう思いながらも勝ち誇った顔をするクライヴを見ると、何となく仕返しがしたくなった。目の前のクライヴは人化していた時よりもオオカミの姿だからか親しみやすい。悪戯心に火が付いたティナは、ピンと立った耳裏にコームを滑らせた。
「ティナ……耳はくすぐったいんだが……」
「すぐ終わります。耳の後ろは毛玉になりやすいんですよー」
「うぅ……ざわざわする……」
案の定クライヴは、くすぐったそうに耳をパタパタと動かした。仕返しなのでわざとコームを逆さに梳かす。首を振りたそうにしながらも我慢するクライヴがとても可愛く見えた。
そんな時、頭上にバサバサッと羽音が響いた。釣られるように見上げると、鍛錬場でも見かけたオオワシが枝に止まる所であった。
「あっ、よく鍛錬場の木にいるオオワシ……」
羽を広げるところは初めて見た。やはりオオワシなだけありかなり大きい。そして優雅でかっこいい。ついついブラッシングの手を止め見上げてしまう。
すると、隣でクライヴが立ち上がる気配がした。それと同時に低い唸り声が聞こえてくる。
「グルルルッ……」
驚いてクライヴの方を見ると牙を剥き出しでオオワシを見上げていた。明らかにオオワシを威嚇している。
「クライヴ様?」
「グルル……ガウッ!!」
腹の底に響くような低くて重い一吼え。肉食獣であるオオカミの威嚇は中々の迫力であった。
そんな迫力満点の一吼えを受け、オオワシは逃げるように飛び去っていった。それを見届けたクライヴは、ようやく唸るのをやめた。そして、チラリとティナの様子を伺うと、伏せをして顎を前脚に乗せペタリと身を低くしてしまった。
「クライヴ様? どうしたんですか?」
「……すまん…ティナを怖がらせてしまった…」
先程の勇ましさはどこへやら、耳は伏せられ、尻尾もすっかり下がっている。どうやらティナがクライヴの一吼えに身を震わせた事を悔いているらしい。
「えぇと……驚いただけで怖がってはいませんよ」
「本当か?」
「はい。ところで急に咆えてどうしたんですか?」
「……あいつがティナとの時間を邪魔するから」
叱られた犬のように身を伏せたままばつの悪そうにクライヴが答えた。野生の動物に文句を言っても仕方ないと思うが、あまりの落ち込みようにそこは黙っておいた。
「そんなにブラッシングが好きなんですか? まだ仕上げがあるのでそう落ち込まないで下さい」
「…………」
なぜかクライヴがさらに小さくなってしまった。すっかり犬にしか思えなくなったティナは、クライヴの頭をわしゃわしゃ撫でた。
「ブラッシングくらいいつでもしますよ。私がふわっふわっのサラッサラッにしてみせます」
そう言うと、ようやくクライヴの尻尾が上がる。耳裏を掻いてやると気持ち良さそうに目を細めてくれた。
はた目では犬と飼い主にしか見えない。それでもこのブラッシングタイムは、双方にとって満足できるひとときとなったのであった。
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