第2話 妖界
外に出ると、森の中だった。辺り一面、うっそうと木々が生茂っている。
幸助は、木の洞の中にいたようだ。振り向くと、周囲の木々と比べて一際太く大きな木が、伸び伸びと枝葉を広げていた。
「あ、あの! 時雨さん」
男の名を呼んでみる。しかし、彼は振り向きもせず、ただ足早に先を急ぐ。
突然、ガサガサッと、頭上で音がした。
「ひっ」
思わず声が漏れる。黒い影が、木々の間を過ぎ去って行った。きっと鳥だ、落ち着けと、幸助は自分に言い聞かせる。夕暮れの森は薄暗く、どこか不気味だ。
しばらく進むと、木々が途切れ、開けた場所に出た。大きな鉄の門があり、その先に、古びた洋館が建っている。白い壁に、グレーの屋根。年季は入っているが、美しく立派な建物だ。
「我が家だ」
時雨がようやく口を開いた。そして門を入り、きれいに整えられた庭を抜けて、玄関扉に手を掛ける。ギイッと、音を立ててドアが開いた。
「すごい・・・・・・」
邸内へ足を踏み入れるや、幸助は感嘆の声を上げた。
ホールは広く、吹き抜けになっており、天井からはシャンデリアが下がっている。正面にある階段は、踊り場で左右に分かれていて、その先に伸びる廊下に沿って、いくつかの扉が並んでいた。
すると、ホール左手の廊下から、こちらに向かってパタパタと駆けて来る足音がした。
姿を見せたのは、四、五歳くらいの少女。クリっとした大きな瞳の、とても可愛らしい子だ。
「ん?」
少女の様子に、幸助は目を見開いた。
頭にフサフサとした、犬のような黒い耳が。そしてお尻に、同じく黒い尻尾が付いていたからだ。子供用のコスプレ衣装か何かだろうか。
幸助の姿を見るなり、少女はピタッと足を止めた。その場に固まり、身につけた黒いワンピースの端を、キュッと握る。
「姪の楓だ。少々、人見知りが激しい」
時雨の説明を受け、幸助は中腰になって楓に目線を合わせた。
「こんにちは」
挨拶してみたが、楓は瞳をウルウルさせ、今にも泣きそうになる。
「そ、そうだ! 良かったら、これどうぞ」
幸助は慌てて鞄から花のシールを取り出し、楓に差し出す。先日、百均で一目惚れして買ったものだ。恐る恐る受け取ると、楓はパッと目を輝かせた。
「お花可愛い。ありがと」
小さな声でお礼を言った。耳と尻尾が、嬉しそうに左右にパタパタと揺れている。作り物にしては、やけにリアルな動きだ。まじまじ観察していると、楓は時雨の後ろに隠れてしまった。
「急に子守を頼んで悪かった」
突然、時雨が言った。誰に言っているのだろうと、幸助は首を傾げる。
「いいえ、とんでもございません」
どこからか返答があった。すると、楓のフサフサとした両耳の間から、一匹のリスがヒョコッと顔を出す。
「では、次の子守先が控えておりますので、私はこれにて」
リスはペコリとお辞儀し、近くの窓枠へピョンと跳び移ると、爪先で器用に窓を開けて帰って行った。
「リ、リスが、喋って――」
幸助は唖然として、時雨を見やる。
「今のは一体、何ですか!? それに、楓ちゃんの耳と尻尾って――」
「あのリスは妖。楓もまた、人狼という妖だ。まだ幼く妖力が安定しない為、完全には人型を保てない」
「はい?」
「ここは妖界。我々、妖たちの住まう場所であり、人間界とは別世界だ」
時雨は淡々と、とんでもないことを口にした。
「あ、妖界って! 突然、そんなことを言われても――」
信じられない。だけど、そうでもなければ、これまでに起きた一連の出来事について、説明が付かない。
おや、待てよ。幸助は、はたと気が付いた。
「我々ということは、時雨さんも?」
「あぁ、人狼だ」
時雨が頷くと同時に、ビキッビキッと、骨がきしむような音が鳴り始める。そして見る間に、その顔が狼に変わった。
赤い瞳。鋭い牙。窓から差し込む夕陽に、漆黒の毛が鈍く光る。
「ひっ」
幸助は、声を上げてその場にへたり込んだ。恐怖のあまり、全身が震え出す。
「安心しろ。とって喰ったりはしない」
そんなことを言われても、怖いものは怖い。震えが止まらず、幸助は身動きが取れない。すると、それまで時雨の背後に隠れていた楓が、そっと近付いてきた。
「しーちゃん、怖くないよ」
そう言って、幸助の頭を撫でてくれる。しーちゃんとは、時雨のことだろう。その小さな手の感触に、幸助の体から、僅かながら力が抜けた。
「まだ、名を聞いていなかったな」
尋ねた時雨は、既に人の姿に戻っていた。
「つ、椿、幸助」
「幸助。先程も言ったが、力を貸して欲しい」
時雨が、幸助に手を差し伸べる。恐る恐る掴むと、そっと手を握り返し、助け起こしてくれた。
「力を貸すって、どういうことですか?」
「こちらへ」
幸助を促し、時雨はホール右手側の扉を開いた。
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