第一章
第一幕 わたくしのママになっていただきます
第1話
エルシィ・サックスは、聖女ではなかった。
生まれながらに聖痕がある。
そうもて囃されたのは、彼女が四歳の時だ。
大工であった父と、花売りの母の間に生まれた彼女は、胸元に不思議な痣がある。なんの変哲もないただの痣であったのだが、四歳の時、その痣が天上に咲くと言われる花の形に開花したのだ。
はじめにそうだと言ったのは、友人の母だった。
次に賛同したのは、近所の噂好きな婦人達だった。
そして賛同者は次々に出始め、ついには王都にある大聖堂の司教にまで、その話は登って行ったのだ。
父母とエルシィは、困惑しきりである。
三人からすればただの痣。花の形に開花したというが、どう見ても成長によって、皮膚が伸びたとしか言いようがなかった。
だいたい、エルシィは普通の幼女である。
例えば才能あるものだけが使える、魔法や魔術という超常現象があるが、エルシィはどちらもからっきしであった。
親子の困惑を置き去りにして、ただただ、話が大きくなっていく。
ついには謁見した司教までが、これは聖痕だと声高らかに宣言してしまったのだ。
聖女が現れたという非現実は、瞬く間に王都を中心とした、近隣諸国に広がっていく。
目ざとく、否、耳ざとく聞きつけた王家の対応は俊足であった。
エルシィは実父母と引き離され、王の養子となり、蝶よ花よと育てられる事になる。
彼女は驚きすぎて、状況に全くついていけなかった。
しかし泣く暇もないまま英才教育を施され、そこでようやく聖女とはなんぞや、という疑問だけは解消となる。
聖女とは昔、厄災から世界を救いに導いた神の
幻想生物とは、厄災に対抗する
そんな聖女が、自分なのだという。
エルシィからしても、父母からしても、どう考えても間違いでしかなかった。
そうしてエルシィは十二歳になり、世界中を旅していた大司教が帰国した事でようやく、聖女としての力を発揮する事になった。
その時の彼女は、本人の意思とは関係ないまま第一王子と婚約させられ、これまた本人の意思を無視されたまま、大神殿に連行されており。
柔らかいオリーブ色の髪を、されたくもない編み込みにされて、豪華すぎて目が眩みそうなドレスで、大神殿の女神像の前に立たされていた。
驚いた顔のまま固まるエルシィに、大司教は目を瞬かせて、立派な顎鬚を片手で撫でる。
「……ほぉん? お嬢さんが聖女とな?」
「違います」
「であろうなぁ。わっはっは! ……傑作じゃ。誰じゃ、こんなか弱き乙女の人生を、めちゃくちゃにしおった不届きものは!!」
大司教の怒りは、怒髪天をつく勢いであった。
その場に集まっていた王家も神官も、なんなら国民も諸外国もてんやわんやの大騒ぎである。ついには裁判すら始まる勢いで、互いに互いを糾弾し始める始末だった。
エルシィや父母は、初めから一貫して伝えていたのだ。
聖女などではないのだと。
「聖痕か聖痕でないのかも分からんのか、この【自主規制】! 【自主規制】! 【自主規制】!!」
大司教トミーは、文字にするのも憚るほどの罵声を飛ばし、
老人がそんなに怒っては、血圧に悪い……! と悲鳴を上げかけたエルシィだが、トミーは優しく声音を和らげ頭を下げる。
「お嬢さん、我が神殿の愚か者どもが、あいすまなかった。残念じゃが、お主は聖女ではない」
「知ってます」
「であろうなぁ。わっはっは!」
「あの、お母さんとお父さんの元に、帰りたいのですが」
「よかろう。ワシの権限で、お嬢さんの生活を取り戻してしんぜよう」
トミーの一言に、エルシィはようやく、変な緊張感から解放されて泣いたのだった。
とんとん拍子でエルシィは、実父母の住む田舎の小屋に戻ってきた。
貴族生活が苦痛で仕方がなかったエルシィは、ようやく安心して食事をし、大きな声をあげて笑い、さして面白くもなかった聖女騒動に、終わりを告げる事になる。
大混乱に陥った王都は、王家の責任を追及するクーデターなども起き、未曾有の大騒ぎになっていた。
だが辺境の田舎で暮らすサックス親子には、まったく興味も関心もない。トミーのおかげで生活も保証されている事に加え、親子の取り引き相手は王都より距離の近い隣国なのだ。いざとなれば隣国に移住すれば良いくらいの認識であった。
さて、そんな大混乱など風の噂。エルシィは十六歳になった。
母譲りで自慢のオリーブ色の髪、父譲りで金と青のオッドアイ。その容姿は道ゆく誰もが振り返る、女神のような美しさだった。
少女の面影から美しい女へ成長してからも、彼女の日課は売りに出す草花の手入れである。
鼻歌の調子を外しながら、植物の肥料を作っていたエルシィは、沿道に馬車が止まる音がして顔を上げた。
お偉い様が視察だろうかと、特に気にせず作業を進めていたエルシィの耳に、鈴を転がすような声が聞こえて動きを止める。
「エルシィ・サックスさま、でしょうか?」
視線を向ければ陶器のように白い肌の、月光色の腰まで届く長髪をした、十歳くらいの少女が佇んでいた。
甘く麗しいハニーイエローの瞳に、エルシィは目を瞬かせて、エプロンに付着した土を軽く払った。
「は、はぁ。そうですが」
「ああよかった。お会いできなかったら、どうしようかと」
屈強な騎士に囲まれた少女は、その身姿に相応しい、美しい声で小さく笑う。
そして上質な布で織られた緑のドレスを持ち上げると、王族相手でも行わないような深く長い辞儀で、エルシィに向かって頭を下げた。
「お初にお目にかかります。わたくしは『月光の聖女』、ルヴィナ・ベル・ピアノンと申します。……あなたをお母様としにきました」
「お母さまとしにきました」
意味を考えても意味が分からない単語を、年甲斐もなく呆けた顔で復唱する。
ルヴィナは美の女神を赤面するほど、朗らかでいて多幸感あふれる顔で笑って見せた。
「はい。わたくしのママになっていただきます」
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