第64話 またね
32歳の冴えないサラリーマンであった彼は、異世界に転生した際に何故か12歳の美少女に生まれ変わっていた。
カルラと言う名の少女剣士と手合わせしたエルナ。彼女を二度打ち破ったその夜、エルナは再び彼女と対峙する。
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木の高さは大人三人分ほど。良く晴れた日には木と木の間にロープを張り、多数の洗濯物を干す事もあるのだが、生憎と今は太陽ではなく月が照らす夜半であった。
空に雲はなく、月の光は一本の木の下で一心不乱に剣を振るう少女の姿を照らし出していた。収まりの悪い金髪を頭の後ろで強引にまとめたその少女は、名をカルララリア・ディ・フェルディアス——カルラと言う。
彼女は木の枝に数本の縄を吊るし、その先には短刀ほどの長さの木片を結わえてあった。
カルラの振るう木剣が吊り下げられた木片を打ち払うと、別の木片も乾いた音を立てて揺れ始める。すると今度はそこに向けてカルラは連続して剣を振るった。
エルナはその光景を目にした時、「彼女は何をしているのだろうか」と意図が汲み取れずに疑問を覚えた。
もちろんこれが剣の修練である事くらいは理解している。しかしその意図——修練の目的についてはエルナにはまるで見当が付かなかったのである。
興味を覚えたエルナはもう少し近くで見物しようと歩を進め、その間にカルラは再び剣を構えると木の枝にぶら下げた木片めがけて振るい始めた。
最初の一太刀で木片を右に打ち払うと、それに引っ張られる形で揺れる別の木片を返す一振りで左下に打ち払う。そうして次から次へと剣を振るっては上下左右に揺れる無数の木片を打ち据えていく。その光景を間近で見たエルナはようやく、これが何を意図した修練なのかを理解した。
そして、その上で――
「――遅い」
と断じた。
しばらくしてカルラが手を止めたのを見計らい、エルナは更に彼女に近付く。
上がってしまった息を整える事に集中していた所為か、カルラはエルナがすぐ近くまで歩み寄るまでその存在に気付かなかった。
「な! 何でここにいるの!?」
驚きと羞恥に声を震わせるカルラ。一方でエルナは彼女を驚かせたことを詫びもせず、木の枝に吊るされた木片を一つ手に取る。
「……それ、どうする気よ」
カルラはエルナが自分よりずっと強い事を、昼間に実感させられたばかりだ。
だからこそエルナが自分の修練を見て何を思うのかが不安で仕方ない――と、訝しんだ顔が物語っている。
「構えて」
何を? と尋ねる間もなく、エルナは手にした木片をカルラに向けて投げつけた。
文字通り自分に向けて飛んできた木片を、カルラは反射的に剣を構えて防ぐ。
カンッ!と甲高い音を立てて木片は宙を舞い、やがて元の位置に戻っていった。
「い、いきなり何をするのよ!」
「それじゃあ遅い。速く剣を振るいたいなら――行くよ」
真意を見抜かれた事に驚くカルラに、エルナは次から次に吊り下げられていた木片を投じていく。その勢いはカルラが生命の危機すら覚えるほどで、上下左右から矢のように飛んでくる木片をカルラは必死で打ち払った。
いつもの修練の様に技の型や体の所作を意識する暇などない。一撃でも防ぎ損ねたら打ち身や痣どころでは済まないだろう――そうと分かってしまうからこそ、カルラは遮二無二剣を振るいながら体勢を整え、知覚を総動員して襲来する攻撃を捉え続けなければならなかった。
時間にしてたった数分——エルナが手を止めると同時に、カルラはその場に膝をついたかと思うとその場に崩れ落ちた。
心臓は爆発しそうな勢いで早鐘を打ち、酸欠状態に陥った体は犬のような息遣いで必死に酸素を取りこもうとする。木剣を握る手は絶え間ない衝撃を受けてすっかり痺れてしまっていた。
「——こ、んなの——まともじゃ——ない——」
息も絶え絶えなカルラの抗議を、エルナは「……?」と良く分かっていない感じで受け流す。
これはエルナがかつての
「あなたの剣はふわふわしてる、速くしたいならもっと速く動いて」
「ふわ——⁉ ……ああ、そうよ! 分かってるわよそんなこと!」
エルナの指摘が腹に据えかねたのか、はたまた図星だったのか。カルラは地面に横たわると自棄を起こしたかのように叫んだ。
「どれだけ正しく剣を振るっても! 型通り体を動かしても! 私の剣は皆に軽くあしらわれてしまう。だから、だから――」
「……それは力が」
「分かってるって言ってるでしょ! 私は女なんだから!」
聞き飽きた正論に
「……ごめんなさい。あなたは……私より年下なのにアークル師やジャスワン師に敬われ、振るう剣だってあんな
昼間の道場にてエルナが振るった剣を見た瞬間、カルラは自分の足下が崩れ落ちていくかのような錯覚に襲われた。
エルナの剣はただ速いだけではない。その一撃がとてつもなく重い事は、実際にその剣を受けてみたからこそ痛感している。
腕や上半身だけではなく全身の力を剣に乗せて放つからこそ、エルナの剣は圧倒的な体格や
「…………」
エルナはカルラの言葉を黙って受け止めていた。思うところがあったからではない。この場を去るタイミングを完全に逸していたからである。
(……どうしよう、この人、私にまだ何か話したいことがあるみたい……)
はっきりと口にはしなかったが、その素振りからカルラがエルナを引き留めようとしている事は明白だった。
エルナにしてみれば全ては他人事でしかなく、カルラの愚痴を聞かされたところで同情とか共感とか憐憫の情は微塵も湧いてこない。
かと言って「鬱陶しい」と見捨てるほど薄情でもないエルナは少しだけ悩んだ末、話だけなら聞いてあげるかとカルラの隣りに腰を下ろした。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
しかし訪れたのは気まずいだけの沈黙だった。
カルラはそれ以上何も語らなかったが、エルナに何かを期待している事は時々恨めしそうな視線を寄越す事からも明白であった。
一方で当のエルナはカルラに対して言いたい事があるわけでもなく、聞き役に努めようとしたら相手が何も話してくれないものだから、ただただ困ってしまう。
カルラの方が口を開いたのは、それから四十を数えた後の話だった。
「……弟は体が弱いの。騎士になって家を継ぐ事なんてとても無理だから、私の結婚相手に家も騎士も継いでもらおうって話になったわ」
代々帝国騎士として
カルラの母親は喜び、弟も姉の縁談を祝い、父は義理の息子になる青年が如何にできた人物なのかをカルラに説いた。しかしカルラだけは——素直に喜ぶことができずにいた。
彼女の許嫁となった子爵家の三男は家柄や血筋を鼻にかける事もない、気さくで親しみやすい好青年であった。カルラだけでなく体の弱い弟の事も常に気遣い、婚約者と言うよりは二人の兄として振る舞う姿にカルラは——どうしてか自分自身を否定されたような気持ちを抱いてしまう。
弟の為、家の為、父と母の為に私は何でもするつもりだった。
でも、みんなを笑顔にしたのは私ではなく顔も知らなかった他人だった。
それが無性に——悔しかった。
カルラは縁談を承諾せず、母の嘆きも父の怒りも弟の困惑も——そして許嫁の寛容にも背を向けて、自ら家を継ぐと宣言した。
銀鷲帝国において女性の帝国騎士は珍しくはあったが皆無ではない。
その事実を盾にカルラは縁談を断って、剣を修める為にと古都の道場に住み込むようになる。
それがカルラがエルナに語り聞かせた
「……ねぇ、あなたはどうなの?」
語り終えた後、カルラはエルナに尋ねかけた。あなたの事も教えてほしいと。
しかしエルナは答えに窮してしまう。
語るべき過去を持たない——と言うわけではなく、そもそも同年代の友人はおろか他の同性と世間話の一つもロクにした事がないエルナは、そもそも何を話せばよいのかさっぱり分からなかったのである。
カルラが自分の事を知りたがっているのは分かる。分かるが何を語れば良いのかが分からない。好きな食べ物について話せばよいのだろうか。それとも過去に経験した物事を語れば良いのだろうか。或いは他の——
(どうしようカイ、ミカゲ……)
心の中でこの場にはいない者達に助けを求めるエルナ。こんな時、あの二人ならばどうしただろうかと必死に記憶を探り出す。
櫂は——ダメだ。常識は知らないくせに変なところで知識豊富だし口も良く回るが、そもそも他人を
ミカゲは——そうだ、確か一度だけ彼女が呆れながら話してくれた事がある。あれは確か——
『あのね“人狼”? 相手の心を開くには『共感』が大事なの。自分もあなたと同じ気持ちですよ、同じところがありますよ——と言ってもらえると、大抵の人は喜ぶものなのよ』
それは三人で異国の町を練り歩いてた時、お節介な老婆に話しかけられても会話が続かないエルナを見かねて、頭に猫耳を生やした少女が忠告した際の記憶だった。
ふいに蘇った記憶に、今は遠く離れた彼女へと感謝を捧げながら、エルナはこれから語るべき言葉を選出する。
それは——彼女の過去の記憶であった。
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エルナが生を受けたのは帝国南西部の小さな港町である。
両親の名も顔もエルナは知らない。物心ついた時には彼女はもう一人だった。
ただし両親ともども同じ色の髪と肌を持つ最下層の人間である事は、エルナが置かれていた環境からも確かだった。
身寄りのない賤民の子は同じ下層の人間達の共有物であり、一個のパンと塩の味しかしないスープの為に荷役や船員たちの衣服の洗濯を行い、使えない者はその命ごと見捨てられた。
エルナもまたそうした子供たちの一人であり、幼い彼女が見聞きする世界はパンの欠片一つを巡って争い合う痩せっぽっちの子供たちと、いつも怒鳴りつけては鞭や拳を振り下ろす大人たちしかいなかった。
エルナが生まれて片手の指の数より生き抜いたある日。
彼女はいつも通り大人に命じられて重い荷物を遠く離れた倉庫へと運び、感謝と労いの代わりに侮蔑と害意を投げつけられた後、痛む足を引きずるようにして河口沿いの貧民窟へと向かっていた。
しかし――彼女がようやく辿り着いた時、そこには何もなかった。
河口の片隅にこびりつくように建てられたあばら屋も、係留されていた無数の小舟も、それらを繋ぐ木製の足場も、そこで息を潜めるようにして暮らしていたみすぼらしい貧民たちも——全ては焼け焦げた瓦礫に変貌していた。
誰かが面白半分に付けた火が燃え広がったとも、周囲の住民への加害を口実に貴族の私兵に焼き払われたとも、或いは縄張りを巡る他の貧民集団との対立とも言われたが、詳細は今も明らかになっていない。
黒い髪の賤民が子供たちごと火に焼かれたところで、町に住む大半の人間は心を痛めることもないからだ。大っぴらに口には出さないが「汚らしい奴らがいなくなって清々した」と喜んでいたとしても不思議ではない。
この国においてエルナのような黒い髪の賤民は、色は違えと同じ臣民だと法が説いても、多くの人々はそれを認めようとしなかったのである。
故郷も家も失ったエルナはただ途方に暮れ、ただそこに立ち尽くしていた。
生まれてからずっと誰かや何かの道具としてしか扱われなかった少女は、誰かの言いなりになることでしか日々の糧を得る方法を知らなかった。
焦げた木と鉄と血の匂いに包まれたまま、焼失した
背後から何かが——とてつもなく恐ろしい何かが近付いてくる。
そう感じたエルナはとっさにその場に落ちていた棒状の瓦礫を握りしめ、後ろを振り向くと同時に突き出していた。
直後——乾いた音を立てて突き出した棒は宙を舞い、エルナの小さな体は赤いブーツで文字通り蹴り飛ばされた。
「――ふム、連中の生き残りではなかったカ。我らの気配に気付いたからはもしヤ、と思っタが……」
地面に激突して気を失ったエルナに歩み寄ったそれは、大きく裂けた口から牙を覗かせると、後ろから着いてきた青年に流暢ではあるが、言葉の端々に異質な響きが混じる
「シグトゥス、こいつを試セ。使い物になるナラ、人狼の名を授けよウ——」
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「――それから私は、局長とシグ
まだ話の途中であったが、カルラは渋い顔をして「それ以上は話さなくて良い」と首を横に振るう。
エルナは素直に従い、自らの過去について語る口を閉じた。
「その局長って間違いなくルフス卿よね? 本物の人狼の……一体どんな過去を送ってきたのよ、あなた……」
悲惨な生い立ちも去ることながら、帝国臣民にとって畏怖の象徴たる人狼——帝都保安局局長兼
端的に言うと、話が重すぎて聞いているだけでしんどくなってしまったのである。
「……つまり、あなたの剣はルフス卿や他の人狼——って人達に習ったのね」
「うん、多分そう」
平然とした顔で頷いたエルナを見て、カルラは深く——深く嘆息した。
同じ年頃の剣士として何か参考になればと軽い気持ちで訊いてみたが、これは全く参考にならない。住む世界が違うと言えばそれまでだが、それ以上に異なっていたのは剣に対する姿勢——いやその生き方であった。
「騎士として認められる」為に剣を修めようとする自分に対し、エルナの剣にはそもそも動機や目的といったものが存在しない。
猟犬が生きる為にその牙を磨き上げるように、エルナはただ生きる為に剣を振るってきたのだ。
強さや弱さではなく、生きるか死ぬかの分水嶺で生き抜くために。
「…………ありがとう、あなたのこと聞かせてくれて」
「別に。続きも聞く?」
「いや、それは良い」
これ以上足を突っ込むと陽の光が当たる世界に戻ってこれなくなさそうだから——と内心で呟き、カルラは視線をそっと自分の掌に移す。
「嗚呼そうか、私は自分で選びたかったんだ……」
その時、意図せず棚の奥から喪失したと思っていた物が見つかった時のように、カルラは長年探し求めていた「答え」に巡り合った。
はっきり言ってエルナのような生き方や、その過酷な半生が磨き上げた剣の腕も自分には不要だとカルラは感じた。
自分が恵まれた境遇にいるのは否定のしようがなく、例え剣の道を捨てたところで自分にはもう一つの生き方を選ぶ事ができるだろう。
そんな人間の振るう剣が、剣を振るい続ける事でしか生きていけない者達に届くはずもない。性別でも才覚でも能力でもない——ただただ生き方の違いが、振るう剣に顕れていたのだろう。
それなのに自分は——
「――それが恥ずかしかったんだ」
「……そう」
「うん、きっとそう」
自分の隣りに座る、理解も共感も叶わない世界で生きてきた女の子——その髪を眺めながら、カルラは胸の前でくるりと円を描く。
それは天に座する偉大なる存在に感謝を捧げる、祈りの所作であった。
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二日後——古都ロンディアスの西門に設けられた駅の前にエルナは立っていた。
草色の外套の下に手首から足首までを覆う暗褐色のシャツとズボンを着て、腰には研ぎ直した直剣の他に銀貨や携帯用の食料が詰まった袋を下げている。
背には旅に必要な荷物を詰め込んだ鞄を背負い、フードに包まれた黒い髪は汚れを洗い落とした上に塗られた香油で本来の艶を取り戻していた。
「エルナ殿、どうかご無事で」
見送るアークルに頭を下げたあと、エルナは胸元に吊り下げた薄い金属板に手を伸ばす。それは古都の西門を通過し、大回廊と呼ばれる天然自然のトンネルを通って銀鷲帝国の辺境——ランスカーク地方への移動を認可する通行許可証であった。
エルナが門下生たちに稽古をつけてくれたお礼にとアークルとジャスワンは許可証を手配しただけでなく、衣服や旅に必要な道具を一式をそろえてくれたのである。
謝礼こそ簡素であったが、エルナは心からこの厚意に感謝していた。
「うん、じゃあ」
そっと手を上げて別れを告げると、人と馬と荷物で込み合う駅に向けてエルナは歩み出す。
隋分と遅れてしまったが、これでようやく先行する櫂に追いつく事ができる。だからただの一刻だって無駄にはできない——と思いながら、エルナは足を止め、もう一度見送りに来てくれた人たちに向き直った。
古都の正統アルマリカ道場を取り仕切る剣士アークル・エイスゴート。
エルナと手合わせをしたアークルの高弟たち。
そして――収まりの悪い金髪を後ろで強引にまとめあげた少女、カルララリア・ディ・フェルディアス。
旅立つ自分を見送りに来てくれた人達にエルナはもう一度だけ——フードを脱いで頭を下げた。
「またねエルナ、今度は私が勝つから!」
なんと身の程知らずな——と苦笑する他の門下生たち。しかしカルラの目は真っすぐにエルナに向けらけている。
「うん、またね——カーラ」
今度こそ自分に向けられた
小さくなっていくその背中を見送りながら、カルラはそっと呟く。
「……………私の名前、間違えているんだけど」
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