第62話 剣聖の弟子たち
32歳の冴えないサラリーマンであった彼は、異世界に転生した際に何故か12歳の美少女に生まれ変わっていた。
櫂を追って
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正統アルマリカ流は「嘆きの剣聖」と呼ばれた剣士アルマリカが興した流派であり、伝統的な騎士剣術をベースにアルマリカが独自に編み出した無数の剣技を弟子たちが韻文詩として遺し、更にその弟子たちが書物としてまとめた事で帝国全土に広まったのである。
戦乱の時代が過去のものになっても術技としての剣は廃れることはなく、貴族や騎士が修める武術として、或いは血筋や家柄に恵まれなかった者達の立身出世の道具として正統アルマリカ流は隆盛を極め、そして古都ロンディアスの道場は正統アルマリカ流の総本山として帝国全土にその名を鳴り響かせていた。
その道場を実質的に取り仕切るのは、アークル・エイスゴートとジャスワン・カバリの二人の剣士である。
彼らは身分こそ低く帝国騎士ですらないが、現銀鷲帝国剣術指南役ステイシア・フォン・ホムラ伯爵の弟子であり正統アルマリカ流の免許皆伝者という肩書は、下級貴族をも上回る権威を彼らに与えていた。
更に老齢でホムラ伯爵が隠居の身になると、二人は銀鷲帝国剣術指南役代理として帝都に招かれるようになり、実施的には古都ロンディアスの顔役の一人として知られるまでになった。
剣による立身出世――それを体現した二人が自分より遥かに小さな、それも黒髪の少女と共に道場に戻ってきたものだから、当然のように道場に集う門下生たちは騒然となった。
哀れな子犬を拾ってきただけなら兎も角、黒髪の賤民を客としてもてなすようにと道場の人間に命じた時には誰もが一度は耳を疑ったほどである。
しかしアークルとジャスワンはもちろん、当の黒髪の賤民——エルナは周囲の反応などどこ吹く風で二人の招待に応じ、今はふっくらと焼き上がったパンに橙色のスプレッドをたっぷり塗りたくり、薄切りにした塩漬け肉を上に乗せて豪快に頬張っていた。
アークルとジャスワンは謙遜ではなく粗食で申し訳ないと詫びたが、今のエルナにとっては久しぶりの暖かな食事であり、不満などただの一片も存在しなかった。
「美味しい」
「うむ、それは重畳でござる。実はそのスプレッド、私が作ったものでしてな?」
エルナのシンプルな称賛に破顔するアークル。
岩壁にも喩えられる巨漢が実は料理好きなのだと知れば、思わず吹き出してしまう者は老若男女を問わないのだが……
「そう」
当のエルナは淡々と応じるだけで、場を和ませる定番の持ちネタを滑らせてしまったアークルは照れ臭そうに頭を掻いていた。
「時にエルナ殿は、何ゆえ古都に参られたか」
その隣でタイミングを見計らっていたジャスワンが口を開いた。ちょうどパンを食べ終えたエルナはグラスに継がれた果実茶を一口飲んだ後、
「カイを探している」
と答えた。するとジャスワンは「カイ?」と聞き慣れない名に首を傾げる。それを見たエルナは説明を続けた。
「小さくて
櫂自身がそれを聞いたら「いやいや違いますよ」と否定するところだろうが、生憎と彼(女)は既に古都を離れているので、修正も弁明も叶わない。
「菫色……もしかして先日の武闘大会に赤狼の公女様と共に在った少女か?」
「うん、そう」
エルナが頷くと二人は得心が行ったと頷き合う。そして今度はアークルが口を開いた。
「生憎と我らが出会う事は叶わなかったが、菫色の髪をした美しい少女の話は聞き及んでいる。つい先日、町の
「多分、カイだと思う。それで――まだ古都にいるの?」
「……いや、西門の駅で見かけたという話も聞いた。だとすれば恐らくはもう古都を離れたと見るべきだ」
ジャスワンが少しだけ申し訳なさそうに指摘すると、エルナは「そっか」とだけ答えて再び果実茶のグラスに口を付けた。
櫂が既に古都を離れて西のランスカーク地方に旅立っていた事を予想していた為に、エルナは特に驚きも落胆もしなかったが、だとすれば余計にこの先に進む事が困難になってしまった。
ランスカーク地方に向かう唯一の経路、大回廊に入る為の通行証はどうすれば手に入るのか、今のエルナにはとんと思いつかない。
「それでエルナ殿は、これからどうなされる?」
それでもアークルの問いかけにエルナは「追いかける」と即答した。
だがエルナがその手段を有していない事を、アークルとジャスワンは既に察していた。仮に心を読まずとも、黒髪の賤民には正式な通行証など滅多に交付されないのが世の常識だ。
その証拠に食事を振る舞われた後もエルナは道場に留まっていた。これからどうしようかと途方に暮れたまま。
「――時にエルナ殿、貴殿はどこで剣を修められたのでござる?」
するとアークルが突然別の話題を切り出した。いや互いに剣を腰に
エルナは少しだけ考え込んだのちに、こう答えた。
「……帝都保安局。シグトゥス・ヴォルフに剣を習った」
「シグトゥス――“
エルナは無言で首を横に振った。今の自分は姓を持たぬただのエルナでしかなく、『ヴォルフ』という家名は最早過去のものになっていた。
「そうでござったか。しかしあの男が師事したとなれば納得ですな。
アークルとシグトゥスは丁寧に頭を下げ、エルナが咄嗟に放った正統アルマリカ流の奥義と、それを体得したエルナ自身を称賛する。
彼らが賤民たるエルナを賓客としてもてなした理由は、
「恥ずかしながら我らは門下生こそ多いものの、奥義の習得に至った者は我らを除けば誰一人いないのが現状。同じ剣聖の弟子として情けのうござる」
アークルがわざとらしく嘆息したのは謙遜ではなく、その事を真剣に悩んでいたからに他ならない。ジャスワンも同意だとばかりに頷くが、エルナにとっては彼らが何故他人の剣の腕前を比較してあい、その他人が至らぬ事を恥じるのかが良く分からなかった。
しかし興味はないのでそのまま聞き流す。
「――しかしこれも何かの縁。いや御柱の主の思し召しやもしれぬ。
エルナ殿、我らの門下生たちに稽古をつけてやっていただけないだろうか?」
「――――え?」
アークルの突然の頼みにエルナは初めて感情を露わにする。驚き、戸惑い、あと「めんどくさい」という正直な気持ち。
それでも自分に振る舞われた食事がその前金であった事は、エルナもすぐに察していた。更にそれだけではなく――
「もちろんお手を煩わせる手前、相応の謝礼は致す。滞在する間の寝床と食事は元より――西方への通行証も我らが調達しよう」
追い打ちをかけるかの如くにジャスワンが交渉の切り札を切った。
大回廊に入るための通行証――それは今のエルナにとって喉から手が出るほど欲しいものだったのである。
エルナは果実茶が注がれたグラスを手に一度だけ
「わかった。お願いする」
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半円状の天井を備えた剣術道場では、その日も二十人を超える門下生が稽古に励んでいた。
武勇を知られた騎士も、名のある貴族の子弟も、腕っぷしが自慢の庶民であっても、この空間における序列は家柄でも血筋でもなくその手で振るう剣のみで決まる。
そこに免許皆伝者のアークルとジャスワンが姿を現すと師範代の高弟は素早く剣を収め、門下生たちも後に続いて同じように敬意を表した。
しかしその眼の多くは、この空間においても明らかに異質な黒髪の少女――エルナに注がれていた。
「皆、鍛錬に励んで結構結構。さて、こちらは東より参られた同門の徒であるエルナ殿だ。今日は特別にお前達に稽古をつけてくださる事になった」
アークルがそう言ってエルナを紹介すると、居並ぶ門下生たちから驚きと戸惑いの声が漏れる。
まだ十代前半の、それも賤民の少女が栄えある正統アルマリカ流の門下生たちに稽古を「つけてあげる」だと? 冗談か侮辱にしか思えない発言が、誰もがその剣技のみならず人格に敬意を払うアークルの口から語られた事で、門下生たちはこの事態をどう受け止めて良いのか分からずにいた。
すると、一人の青年が「ではご指南いただきたい」と名乗り出た。
赤い顎髭を生やした長身の男性で、その実力はアークルやジャスワンに次ぐとも称される騎士ザインであった。
「ザインか。よろしい、では存分に胸を借りるとよい」
アークルは二つ返事で応じ、エルナもまた構わないと首を縦に振った。
そうして道場の一角、整備された地面を四角く囲った場所で、エルナはザインと対峙した。
二人はこの時、ともに全身をくまなく覆う修練用の胴着の上に革製の胴当てを着けていたが、手にした木剣を見比べるとザインの長剣に比べ、エルナの木剣はショートソードに近く刀身はより短くなっている。
これでは体格で劣るエルナがますます不利になってしまうようにも見えるが……だとしても、ザインが剣を構える動きに嘲りと油断は一切見受けられない。
一方、エルナは特に構えを取る事もなく、ぼんやり立ち尽くしたまま、木剣をぶら下げるように握っている。
そして師範代の男性が試合開始を告げた、その直後だった。
前方に沈み込むようにエルナが体を傾ける――それとほぼ同時にザインの足下から放たれた雷光が彼を襲う。
そう雷光――そうとしか呼べないほど疾く苛烈な斬り上げだった。ザインの膝ほどの低位置から一気に肉薄したエルナが剣を振り上げたのである。
その狙いはザインが長剣を構える両手。あまりにも速く苛烈な一閃をザインはかろうじて防ぐ事に成功した。
「――ぐっ!」
しかし、呻きと共にザインの姿勢が崩れていた。
それでも彼は後ろに倒れ込みそうになる体を右足で強引に支え、下から攻めてくるであろうエルナに向けて、素早く長剣を構え直した。
エルナの木剣がザインの首筋にそっと置かれたのは、正にその直後であった。エルナは何時の間にか背後に回り込み、無防備な首筋に剣を置いたのである。
ここに勝敗は決した。誰もが一瞬の攻防とその結果訪れた勝敗の呆気なさに呑まれ、言葉を発せずにいた。
アークルとジャスワンも目を見開き、エルナが見せた雷光の如き剣さばきに無言の称賛を送る。
「そ、それまで」
慌てて我に返った師範代が模擬試合の終了を告げた。
あっさりと勝利したエルナはいつも通り、何の感情も伺えない顔をして道場を眺め回していたが、賤民のそれも年端もゆかない少女に完敗したザインは、未だにこの結果を受け入れることができないのか、呆然と自分の手元を眺めていた。
節くれ立ち、無数のタコが岩肌のように隆起した己が掌。
それが僅かに痺れている事に気付いたザインは、そうして初めて――己が敗因を悟った。
「ジャスワン、エルナ殿の剣だが――」
「ああ、あんな重い剣を初手で浴びたらたまったものではないな。
一撃で崩され、二撃で仕留められる。シグトゥスだけではない、あの剛剣は間違いなく人狼ウォルフ殿のそれだ」
走り込む勢いを乗せて、少女の細腕から放たれる崩しの一撃。その意図を一度で見抜いたのはアークルとジャスワンだけだった。
何故、黒い髪をした年端もいかぬ賤民が、道場主に敬われながら神聖なる道場に足を踏み入れたのか。
その理由を凄まじい剣技と共に思い知らされた門下生たちが二の足を踏む中、たった一人――臆することなく手合いに名乗りを上げる者がいた。
「――どうかご指南いただきたい!
わたしはカルラ、カルララリア・ディ・フェルディアス!」
それは収まりの悪い金色の髪を頭の後ろで無理矢理まとめ上げた――十代の少女であった。
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