第61話 無空剣
32歳の冴えないサラリーマンであった彼は、異世界に転生した際に何故か12歳の美少女に生まれ変わっていた。
帝都の地下牢獄に収監されていたエルナ。兄弟子からの
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帝都イーグレの地下牢獄を脱獄したエルナは、櫂と同じように地下水道を経て帝都を脱出し、
とは言え、その歩みは櫂に比べるとずっと遅い。
いざとなればその魔眼で他者を魅了できる櫂と違い、罪人であるエルナは昼は人目に付かない獣道を進み、夜は闇に紛れながら街道を進むしかなかったのである。
関所が撤廃されたとは言え、交通の要所たる宿場町の出入口は衛兵による検問が敷かれていた。従ってエルナは宿に泊まる事も出来ず、野宿か民家の物置や納屋を借りて雨露をしのぎながら西へと西へと歩を進める。
その結果、櫂たちの倍の日数を費やして、エルナは古都ロンディアスに辿り着いたのである。
ちなみに櫂と同行するベルタは既に古都を離れてランスカーク地方に到着していたのだが、エルナは櫂が向かう先を既に知っていたので、人探しに日数を費やす事もなくそのまま櫂の後を追うつもりでいた。
しかし、古都でエルナは一つの問題に直面する。
櫂が先に降り立ったランスカーク地方は、陸路では「大回廊」と呼ばれる天然自然のトンネルが唯一の交路であった。
取り立てて厳しい検問が行われている訳ではないが、通れる道がたった一本しかないのだから、通行証を持たない者や身元不明の人間は必然的に裏道や回避策を採る事が出来ず、悉く通行を阻まれてしまうのである。
帝都保安局
かくしてエルナは今、古都で足止めを喰らっていたのである。
古都の一角、大衆向けの酒場や食堂が軒を並べる通りの片隅――文字通り日陰の路地に腰を下ろし、エルナは干し肉と根菜と豆を煮込んだ
それは帝国西部で古くから食され、一般庶民にとっては多少値が張るものの馴染みの深い料理である。それでもエルナにとっては久しぶりのまともな食事であり、人目に付かないのを良い事に指先に付着した餡をぺろりと舐め取る。
かつての同僚が差し入れてくれた路銀はまだ残っていたが、それでもエルナには飲食店で暖かい食事を注文できない理由があった。それはエルナが肩まで伸ばした黒い髪――銀鷲帝国においてそれは「賤しき者」の象徴でもある。
壁を一枚隔てた大衆酒場でジョッキを掲げる労働者たちの中にも、大衆食堂で大皿に盛られた料理を分け合う庶民たちの中にも、誰一人としてエルナと同じ色の髪をした者は存在しない。
彼らの多くは庶民の目にすら届かぬ場所で、粗末な衣服を着せられて薄いパンと塩スープを啜りながら、過酷な労働に従事している。
仮に彼ら彼女らが店に足を踏み入れようものなら、提供されるのは嫌悪の視線と拒絶の怒号に他ならない。そして黒い髪の人間が外に追い出された後には店主が客に頭を下げて詫びるのだ。「気分を害して申しわけない」と。
エルナがこれまで堂々と帝都を始めとして街の通りを歩いたり店に出入りする事ができたのは、単に櫂と一緒だったからに他ならない。
一目でそうだと分かる高貴な少女が引き連れた番犬――一部の物好きを除いて、帝国の人間はエルナをそのように認知していたと言っても過言ではない。
だからこそエルナは今も頭と肩がすっぽり隠れる外套をまとい、それが顔を
とは言え――エルナにとって己の境遇に対する恨みつらみは存在しない。物心ついた時から彼女にとっての世界や他者とはどこまでも尊大かつ冷酷であり、櫂や“人狼”たちは極めて稀な例外であったのだから。
「……そうでもない、か」
しかし、この半年でエルナは何人もの例外と出会う事ができた。
一人は異国の同業者。口では本意でないと
一人は数百万もの臣民の上に立つ公女様。その宝石のような瞳には慈悲も哀憫も侮蔑もなく、ただただ自分に対する粘っこい欲望だけがあった。
一人は猫背で常に背筋がしゃんとしていない魔導師。他にもあと――つい数ヶ月前に出会っては別れた人達の顔が思い出と共に蘇る。
これまで共に過ごした‟
「……また、会いたいな」
ぽつりと漏らした一言は、誰の耳にも届くことはなく喧騒の中に消えていく。
そんな時、エルナの耳は突如発生した周囲の異変を聴き取った。
最初に聞こえてきたのは威嚇と狂奔の叫び声。まだ若い男のものだろうか、物騒な言葉を並べ立てて誰かを威嚇しているようだ。
すると呼応するようにと怒りの籠った恫喝と嘲笑が湧き起こり、やがてエルナの鼻は血の気を沸騰させた雄が放つ獣臭を嗅ぎつける。
闘争だ――そう確信したエルナは薄暗い路地に身をひそめながら、日の当たる通りに視線を向けた。
道行く庶民は悲鳴を挙げてその場から退避し、向かい合った店の従業員や店主は「よそでやれ」と怒号を飛ばしている。
しかし彼らの視線の先にある複数の若者達は、互いに睨み合ったまま、周囲には目をくれようともしない。
エルナは彼らが何処の誰であるのか全く知らなかったが、糊の利いた衣服に均整の取れた肉体を包む者達が貴族で、対照的な色褪せた衣服から無数の傷と荒事で引き締まった腕や胸を露出させた者達が
そして――これがどこの街にもよくある若者同士の抗争であることも。
「ぶっ殺してやらぁ!」
「ほざけ野良犬ども!」
互いを威嚇し合う若者たちが乱闘を開始するには数分とかからなかった。
殴り合い、蹴飛ばし合い、衣服や髪を掴んでは、それが千切れる事も厭わずに相手に暴力を見舞う。
吹き飛ばされた若者が店先に置かれていた桶や看板をひっくり返し、仕返しにとそれらを相手に叩きつけたかと思えば、揉み合ったまま店内になだれ込み、料理や酒ごとテーブルをひっくり返しては脇目もふらずに殴り合う。
すると折角の憩いを邪魔された男達が怒り狂い、無礼な若者達を殴り飛ばした。
報いを受けた若者はしかし更に目を血走らせて、自分に牙を剥いた顔も知らない雄の顔面に報復の拳を叩き込む。
かくして乱闘はその規模を増し、周囲はたちまち狂騒に包まれた。
エルナは我関せずとその場を立ち去ろうとしたが、運悪く路地裏から出てきた若者たちの集団と鉢合わせてしまう。
どちらかの集団に加勢するのだろうか。しかし自分には関係ないと、エルナは道端に身を寄せて彼らをやり過ごそうとした。しかし如何にも破落戸と言った風情の男が顔を隠したエルナに興味を惹かれ、断りもなくフードに手をかける。
「あ、何だ黒犬か」
それはエルナの様に黒い髪を持つ臣民への蔑称であった。
エルナはすぐに相手の手を払い、フードを被り直すが、相手が自分よりも若い女性だと知って破落戸は加虐的な笑みを浮かべる。
「おい、こっちに来い」
その眼に称えられた欲望の色は定かではない。しかしエルナにとってその視線は突き付けられた刃にも等しい脅威であった。
彼女は自分に伸ばされた腕を掴むとそのまま軽く身を捻る。たったそれだけで倍以上の重さを有する破落戸の体はふわりと浮き上がり、彼はそのまま硬い地面に叩きつけられた。
無様な声を上げて苦悶する破落戸を尻目に、エルナは彼らがやって来た路地の奥へと足を向ける。しかし――
「おい、何があった!?」
更に路地の奥から別の男達が駆け寄って来る。
退路を断たれたエルナは素早く
彼方此方で殴り合う若者たちはその中を走り抜けようとするエルナには目もくれない。しかし中には視界に飛び込んで来た彼女に向けて衝動的に腕を振り上げる者もいた。
その度にエルナは力任せの攻撃を回避すると、腕か脚を掴んで身を捻る。
すると狂乱に呑まれた若者は良くて転倒、悪くて投げ飛ばされて宙を舞う。
身分に関係なく、数人の若者をそうして無力化したエルナは通りを横断し、店と店の狭間にぽっかり口を開けた路地に飛び込もうとした。
「――――!?」
その直前、エルナは突然足を止めた。そして眼前に建つ貴族の若者の挙動に目を凝らす。
彼は懐から銀色の短い杖を取り出すと、その切っ先をエルナに向けたのである。
彼の目的はエルナではなく、その背後で倒れた仲間を引き起こそうとする破落戸たちであり、
よしんば認識していたとしても、彼はエルナを巻き添えにしても憎い奴らに一矢報いる事を躊躇いはしなかったであろう。何故ならここまでの立ち合いでエルナの頭部を覆っていたフードは落ち、黒い髪が露わになっていたのだから。
「野良犬どもが、死ねよぉ!」
貴族の若者が突き付けた銀色の短い杖。その先で筒状の隙間に込められた
彼は黄玉を媒介として土の精霊を使役する魔術――「
その証拠に彼が杖とは別の手に握り込んでいた小石がふわりと浮き上がり、足元の土砂は小石に引き寄せられて肥大化していく。
エルナはその秘術を知っていた。
「黄玉の魔術」のひとつ‟
しかし頭に血が上った若い貴族にそんな分別がつくとはエルナには到底思えない。
このままでは自分も秘術に巻き込まれてしまう。されども回避は困難——そう悟ったエルナは無意識に腰に履いた長剣に手を伸ばした。
今や何の後ろ盾も持たないエルナが振るう剣は、相手がどこの誰であろうと罪人の暴虐として咎められてしまう。例え相手が自分が死んでも構わないと魔術を行使しようとする者であったとしても、黒い髪の賤民が貴族に剣を向ければそれだけで処刑は免れない。
それでも――私は、こんなところで立ち止まっていられない!
「――絶技」
どれだけの一閃であろうと手にした長剣では、秘術を行使する杖を叩き落とす事は叶わない。
どれだけの俊足であろうと今からでは、撃ち出される土砂を回避する事はできない。
互いを隔てる距離は剣では遠く、足では逃れられない。
故に為すべきは、無身にて空を超え那由他の果ての根源を断つ剣のみ。
黒い髪の少女は刹那の狭間に呼吸を整え、鼓動を整え、全身の筋と神経に意識を巡らす。
其は、嘆きの剣聖が放つ
「――
果たしてこの場に在る、百に及ぶ目と意識と感覚器官のどれだけがその抜刀を知覚できたであろうか。
エルナが数瞬の間に放った虚空を凪ぐ一閃は、その瞬間に秘術を成さんとしていた若者が持つ杖を、精霊たちを使役していた術式を、世界を構成する理ごと断ち切り無へと還す。
「……ん? あれ?」
エルナが己の剣を鞘に戻した時、ようやく貴族の若者は自分が突き付けた銀色の杖が半分に断ち切られ、今正に放たんとしていた秘術が何事も成さずに消えてしまった事を知る。
何が起きたのか理解できずに首を捻る彼が大事な杖を壊してしまった事に気付いた瞬間、彼の頭をがしりを掴む者が現れた。
「そこまでだ、悪童ども!」
狂乱する空間そのものを打ち据えるような叱責に、狂奔する若者や野次馬たちまでぴたりと動きを止めてしまう。
声だけで他者を威圧したのは、体格の良い貴族や破落戸より更に頭一つ高い巨漢。それも二人であった。
その鍛え抜かれた肉体は丈の長い衣服でも隠しきる事が出来ず、対照的に知性と品位が感じられる穏やかな貌立ちにその場にいた者は悉く言葉を失い、振り上げていた拳を下ろしてしまう。
「嘘だろ……あれ“
巨漢の名を呟くと同時に破落戸たちは、先程までの威勢を見栄と共に投棄するかのようにその場から一人、また一人と逃げ出す。
「あ、あぁ……お許しください、ジャスワン師!」
一方で貴族の若者達は血の気の引いた顔でその場に
髪を短く刈り込んだアークルは目を合わせると頷き、二人は残された若者達には何も声をかける事はなく、この場に留まっていたもう一人の当事者の下へと近付いていく。
剣を収めたエルナが見上げる先で、二人の巨漢はゆっくりと膝を折り、誰もが同じ人とは見なさぬ賤しい少女に揃って
「――御見事で御座います。剣聖が
「我らもまた正統アルマリカ流を修めんとする者。同門の徒として此度の御無礼をお詫びいたします」
二人の巨漢が恭しく頭を垂れる姿に集まった野次馬たちが騒然とするなか、顔も知らない二人の男性に頭を下げられたエルナは少しだけ考え込んだあと、
「ん、それほどでもない」
とだけ応じた。
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