第60話 思ってたのと違う




 内匠櫂たくみ かい。12歳。

 32歳の冴えないサラリーマンであった彼は、異世界に転生した際に何故か12歳の美少女に生まれ変わっていた。

 櫂とベルタがランスカーク地方に降り立つ、その数日前。帝都イーグレの地下牢獄にて――


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 ただ石を敷き詰めただけの床を叩く、ブーツの靴底。

 その足音は低い天井と狭い壁に反響し合い、不快な湿気を帯びた空気を震わせた。

 陽の射さぬ地下空間にはところどころに燭台が置かれていたが、それでも数歩先は闇のうちにあり、鼠が立てる甲高い泣き声と性別どころか人がどうかも分からない呻き声だけが絶え間なく聞こえてくる。

 大の男でも一度は足が竦むであろう場所であっても、帝都保安局副局長兼特務衛士とくむえいしシグトゥス・ヴォルフの足取りは軽く、迷いもない。

 青みがかった銀色の髪と優美な立ち振る舞いから彼を騎士或いは貴族の出かと疑う者は多いが、彼は二代前に帝国に移り住んだ小作人の次男坊であり、家族を含めた親族は全員墓の下で眠っている。

 端正だが作為的と軽蔑される事の多い笑みを貼り付けたその貌は、彼が辿ってきた半生とは無縁のものではなかった。


 彼が目的の場所に到着したのは、この地下牢獄に足を踏み入れて半刻のそのまた半分ほど経過した時分であった。

 粘土質の土をくり抜いた粗末な牢屋には、錆びてなお堅固な鉄格子が備え付けられている。その奥に木製の寝台に腰を下ろす一人の少女の姿があった。

 

「――やぁエルナ。元気だったかい?」


 牢に繋がれた人間にかける言葉としては嫌み以外の何物でもないが、シグトゥスの表情に悪びれた様子はない。

 しかし彼に声をかけられた少女――黒い髪を肩まで伸ばし、色の濃い肌は華やかさとは無縁のように見える。しかし闇の裡においても左右で色の異なる瞳オッドアイは星の如くに輝き、その顔立ちを醜いと嗤う者は先ずいないであろう――は、「うん」と素直に返答していた。

 少女は名をエルナと言う。

 数日前に捕縛された時のまま黒いシャツとタイトな革製のズボンを身に着けていたが、全身に帯びていた短剣と佩いていた長剣はもちろん没収されている。


「何の用?」


「もちろん、エルナの様子を見に来たんじゃないか」


 しれっと語るシグトゥスであったが、抵抗するエルナを無力化して帝都守備隊に身柄を引き渡したのは他ならぬ彼自身であった。

 普通の人間ならば「どの口でそれを言うのか」と皮肉の一つでも返しただろうが、エルナは「そう」と答えただけで口を閉ざしてしまう。怒っているのではない。関心がないのである。


「寒いのか暑いのかよく分からない場所だから風邪でも引いてないか心配だったけれど、その心配はなさそうだ。……ところでエルナ、その毛布と布団は何だい?」


 不自然なほど親しげに声をかけながら、シグトゥスはこの時初めてエルナが腰かけた寝台には薄い布団が敷かれ、足元には折りたたまれた毛布が置かれている事に気付いた。

 何れもこの牢獄には不釣り合いな代物だ。牢屋に持ち込む事はもちろん、看守に見つかれば没収される事は火を見るより明らかな贅沢品である。


「ベイレが持ってきた。寒いから使えって」


「……なるほど」


 “灼花しゃっかの双剣”などと呼ばれ、その刃で命を散らせた反逆者は自分よりも遥かに多いくせに、エルナには異常なほどに甘い女性剣士の顔を思い出し、シグトゥスと納得と共に嘆息する。


「じゃあ、その籠に入っている無数の布袋と本は――」


「これはマテオ。お腹空いたり食べたり暇なときに読めって」


 斧槍を片手で振り回す剛力の戦士がかつて司祭であった事を思い出しながら、シグトゥスは片手に潜ませていた小袋をそっと懐に押し込んだ。

 どうやら自分以外の“人狼”は既にエルナと面会していたらしい。過保護にも程があるだろうと呆れはするものの、こんな贅沢な差し入れが見逃された理由にもすぐに察しが付いた。

 看守の兵士たちはこれらの差し入れをエルナに対するせめてもの手向けとでも考えたのだろう。本人達にはまるでその気はないと言うのに。


「……まぁベイレが耐えきれずにひと暴れする前に来られたのは幸いだったかな」


 そう呟くとシグトゥスは懐から布に包まれた細長い物を取り出すと、それを鉄格子の隙間を通してエルナに手渡した。

 エルナが包みを解くと、そこには鞘に包まれた短剣が一振り。鞘や柄には優美な装飾が施されており、細くまっすぐな刃は護身用にしては些か頼りない印象を受ける。


「――これは?」


「見ての通りのものさ。これからの君には必要なものだろう」


 軽薄な笑みを貼り付けたままシグトゥスはそう答えた。その短剣は一言で言えば、自決に用いられる代物であった。

 エルナもその事を知っている筈だが、短剣を握る手はいささかも震えてはいない。


「エルナ、今日は君の顔を見に来たついでに伝えたい事が二つあるんだ。良い話とあまり良くない話のどちらから聞きたい?」


「話が長くならない方から」


「……さいですか」


 自分が何故この牢獄に足を運んだのか、その真意は手渡した短剣と先程の言葉からエルナにも伝わっている筈だとシグトゥスは信じていたかが、それでも平然としたエルナの態度には一周回って感服するしかない。

 大した度胸の持ち主なのか或いは自分の生死にすらさほど関心を抱いていないのか。シグトゥスはエルナの真意を図りかねていた。


「では簡潔に行こう、良い話からだ。エルナ、君が命を賭して逃がした容疑者――タクミ・カイは帝都を抜けて古都へと向かっている。同行者も一人確認された。魔導院のベルタ様だ」


「ベルタ……うん、知っている」


 エルナはそう言って頷いたが、シクドゥスはそれが嘘だと見抜いていた。

 顔はともかくとして名前はコロッと忘れているに違いない。長年エルナと兄妹のように過ごしてきた彼にはすぐ分かる。


「次にあまり良くない話だ。エルナ……君は三日後に処刑される。“人狼ヴォルフ”でなくなった君には墓もいみなも与えられない」


「――うん」


 思えばシグトゥスは自分の事を一度も妹扱いしなかった。

 “人狼”としての使命を捨てて櫂を逃がす事を選択した時から、エルナはこうなる事を覚悟していた。予想と違っていたのは自分の命を奪う刃を振るうのが誰かと言う事だけ。


「だからこそ君に聞きたい。エルナ――君はまだあの子に付いて行くつもりかい?」


「もちろん、私は櫂と共に行く」


 迷いもなく言い切ったエルナ。その瞳を輝かせる意思を確認したシグトゥスはそっと目を伏せた。

 

「ならば教えてくれないか。あの子がエルナにとって“人狼”の掟よりも大切な、その理由を――」


 再び視線を合わせ、シグトゥスはエルナに問いかける。菫色の髪をした少女は愛する妹エルナにとって如何なる存在なのかと――


「……理由? そんなのひとつしかない」


 ふ、とエルナの口元に浮かぶ微笑み。何故だかそれがシグトゥスにはひどく遠いものに感じられた。


「――カイは、私がいないとダメだから」


「………………………はい?」


 あれ? 何か思ってたのと違う答えが返ってきたのですが?

 本気で困惑するシグトゥスを他所に、エルナは僅かに胸を張って語り出す。


「カイは世間知らずだし無鉄砲だし、いつもよく分からない事ばかり言ってよく分からない事ばかりするから、危なっかしくて仕方ない」


「そ、そうなのかい……?」


「うん。私が付いてないと、カイはきっと危ない目に合う。だから


 ふふん、と誇らしそうに鼻息を鳴らすエルナ。その姿にシグトゥスは彼女の自称姉代わりの面影を重ねてしまう。ベイレもエルナを迎え入れた時、全く同じ事を言ってましたね……とそれほど遠くない過去を振り返りながら。


(これはあれかな? どうしようもないクズ男に何故か矢鱈と入れこむ女がいるのと同じような…?)


 そうであってほしくないという願いと、でもそうとしか考えられないという理性の狭間で葛藤しつつ、シグトゥスは頭を軽く振って強引に思考を切り替えた。


「――うん、君の気持ちはよく分かっ……ひとまず尊重しよう。

 であるならばエルナ――兄弟子としてひとつ、君に試練を課すよ」


 そう言うと、シグトゥスはずっと背負っていた麻の袋を床に下ろす。

 そして中から取り出したのはエルナが佩いていた両刃の直剣と、この世界では映し絵の板など呼称される異界のテクノロジーの産物――櫂のスマートフォンだった。

 その二つを鉄格子越しに受け取ったエルナはその時、初めて感情を込めた眼差しを兄弟子に向ける。


「正統アルマリカ流の奥義、ここでものにしろ。さもなくば三日後に死ぬ」


 「剣聖の絶技――シグにぃ、でも……」


「やるんだ。そうでなければこの先、お前は友を護れない」


 不安に揺れるエルナをその一言で切り捨てると、シグトゥスは再び麻の袋を背負い直した。いつの間にかその袋は中に何を詰めこんだように膨らんでいる。ちょうど目の前の少女と同じくらいの体積分だけ。


「それじゃあエルナ、達者でね」


 そう言い残してシグトゥスはエルナの前から立ち去った。最後までその顔には軽薄そうに見える笑みを貼り付けたまま。

 兄弟子だった存在の背中を見送ったあと、エルナはこの手に取り戻した櫂のスマートフォンを懐にしまい、鞘から愛剣を引き抜いた。

 良く砥がれてはいたが、ところどころで刃が欠けたままの粗末な直剣ロングソード

 それを構えたまま、エルナは牢の天井を見上げた。

 四方を粘土質の土に囲まれた地下牢にあって唯一、外界と通じている天窓。そこには当然鉄格子が嵌めこまれている。

 エルナの剣では断ち切る事など叶わない太さの鉄棒で組まれた格子は、どれだけ腕を伸ばしても剣の届かない高さに備え付けられていた。

 故に――その先は地上へと直接繋がっている。

 この牢に放り込まれた時からずっと、エルナは天窓こそが脱獄のための唯一の経路だと目を付けていた。もちろんそれは他の囚人も同じなのだが、鉄格子の堅牢さと物理的な高さが淡い期待を悉く阻んでいたのである。


 けれど――エルナは刃を寝かせるようにして剣を右に構えた。

 僅かに腰を落として深く息を吸い――ゆっくりと吐く。

 呼吸を整え、鼓動を整え、全身の筋と神経に意識を巡らす。

 嘆きの剣聖アルマリカが興した剣術の奥義。

 免許皆伝したシグトゥスならさて置き、彼に剣を習っただけのエルナはそんなもの一度として使った事はない。


 でも――理解わかる。


 兄弟子が振るう絶技。

 剣の聖に至る為の人知を超えたわざことわり

 言葉ではなく感覚したそれをエルナは再現する。

 術理だけでは至れない。体技だけでは振るえない。意気込みだけでは届かない。

 なれど、人には成せるだと剣の聖は体現してみせたのだ。

 奥義にして絶技。人の身で天地神冥を断ち斬るはじめの剣。

 そして――決して叶わない筈の兄弟子に届いていた幼き“人狼”の一太刀。


 「絶技――――無空剣むくうけん


 虚空を疾る一筋の剣、無を裂く一閃は果たして剣の聖の域に届いたのか。

 その結果は床に落ちた鉄格子だったものと、解体されて足場にされた寝台と、誰もいない牢だけが物語っていた。





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