第55話 さようならエルナ
32歳の冴えないサラリーマンであった彼は、異世界に転生した際に何故か12歳の美少女に生まれ変わっていた。
渋る櫂を逃がし、二の“人狼”シグトゥスと激突するエルナ。圧倒的な力量に追い詰められていく彼女を待っていたのは、別の“人狼”による不意打ちと敗北であった。
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エルナ・ヴォルフの体から力が抜けたのを確認すると、禿頭の巨漢マテオ・ヴォルフは彼女の首を圧迫していた手の力を緩め、脱力した少女の体を両手で抱え直す。
髪から装束まで黒尽くめなエルナの胸は小さく上下しており、少し乾燥した唇から漏れる吐息にマテオは少しだけ口元を綻ばせた。
すると次の瞬間、
「え、エルナぁぁぁぁぁぁぁ~~~~~~~~!」
彼の腕から気を失った少女を文字通り
「ご、ごめんねぇ~~~! ひどい事しちゃったお姉ちゃんを許してぇ~~~!」
猫に喩えられる釣り上がった目からわんわんと涙を流し、腕に抱えたエルナに詫びるベイレ。エルナは気を失っているだけなのだが、彼女からすれば妹同然の少女に剣を向けた事自体が罪過に相当するらしい。
『
しかし他の“人狼”にとっては、日常茶飯事と化すほど見慣れた姿であった。
「ベイレ殿、エルナは気を失っているだけだ、怪我だって一つも……」
取り乱すベイレを見かねてマテオはエルナの無事を強調するが、その顔は緊張に強張っている。
「当ったり前だこのハゲ! エルナに傷一つ負わせてたら、アタイが手前を
「す、すいません……」
自分より二回りも小さいベイレに叱責され、素直に頭を下げるマテオ。
その巨体が震えているのは単なる恐縮ではなく、彼女ならば本当にやりかねないどころか、自分よりも上位の“人狼”であるベイレには絶対に勝てないと骨身に染みていた所為もある。
「ううっ、ごめんねぇエルナぁ……もし後遺症が残ってしまった時はお姉ちゃんが一生面倒見るからねぇ~~~」
その発言をエルナが聞いたら、顔を真っ青にして千切れるくらい首を横に振っただろうが、幸いにも今の彼女は意識を失っていた。
「……いやいや、エルナを横合いから吹き飛ばしたのはベイレでしょう。マテオを責めるのはお門違いですよ」
そう反論したのは二人の近くまで歩み寄ってきたシグトゥス・ヴォルフで、彼が先程まで振るっていた
確かに彼の言う通り、エルナはベイレが放った無数の斬撃を受け止めた所為で吹き飛ばされ、石畳の上を転がされた挙句街灯に激突したので、怪我を負ったとすればそれは頸動脈を一時的に圧迫して意識を失わせたマテオより、ベイレの責任が大きいのは誰の目にも明らかだったのだが……
「あぁん? 本気でエルナの首を落とそうとした奴が何言ってやがります?
つか手前、エルナを無傷で無力化できないとかそれでもアルマリカ流免許皆伝か! 謝れ、剣聖とエルナに謝れ!」
逆にベイレの怒りに火を注いでしまう始末であった。
「無茶言わないでください! あの子を無傷で無力化とか無理に決まってます!
ほら見てくださいよ私の手首、骨に
そう言って自分の右手首を指すシグトゥス。開いた手が僅かに震えているのは雷光に例えられるエルナの剣閃を受け続けた所為である。
とは言え、シグトゥスの端正な顔には苦渋の色も滲んでいた。
ただの一度だけ剣を裁き損ねたことで、エルナを本気で仕留めなければ自分が斬られてしまうと言う状況に追い込まれた事を、彼は自分の落ち度であると感じていたのである。尤もそれ以上に妹弟子の成長を喜んでいたのだが。
「骨の一つや二つほっとけば治るわ! そんな事より可愛いエルナの肌に刀傷の一つでも付いたらアタイ、アタイ…………それもそれで良いか」
何やら邪な発想に到達したベイレからそっと目を逸らし、シグトゥスは叱られてしょんぼり肩を落とすマテオの肩を労わるように叩く。
「だが副長、エルナを無事に確保したとして、もう一人は放って良いのか?」
「あ、ああ、それはね――」
マテオの問いかけにシグトゥスは言葉を濁す。彼らの目的は最初から容疑者である櫂の確保ではなく、同僚であるエルナの捕縛であった。
だがその目的が自分達に下された命令とは異なる事を自覚している以上、下手な事は言えない――と、彼は闇の奥からこちらに向けて近付いてくる人影に目を向ける。
「構わン、我らは主命を果たしたのダ」
流暢ではあるが、言葉の端々に異質な響きが混じる
犬の遠吠えにも似た声色にはしかし、確かな知性と感情の響きが感じられた。
巨漢として知られるマテオよりも更に高い位置に二つの耳を立て、顎部ともども前に突き出た鼻の下には、鋭い牙を蓄えた大きな口がある。
何より天上の月を思わせる金色の瞳に、人は原始的な恐怖と危機を覚えるだろう。
青みがかった灰褐色の毛皮に覆われた頭部の下に、一部の隙もなくサーコートを着込んだ存在が、居並ぶ“人狼”たちの前にその姿を現した。
「――局長!」
無法の番犬たちがその姿を目にした途端、畏まって石畳に膝を着く。
彼らが無条件に膝を屈するのは、帝国広しといえど数えるほどしかいない。
志尊の冠を抱く帝国の主にしてその血縁者を除けば残るただ一人、帝都保安局局長兼
「みな無事で何よりダ」
ベイレに抱えられたエルナにも目を配り、ウォルフガング・フォン・ルフスはその大きな口から労いの言葉をかける。
異名ではなく本物の人狼ウォルフはベイレに歩み寄ると、彼女の腕に抱えられた最も小さな部下に膝を着き、汗で額に貼りついていた前髪を優しく拭う。獣面人身の異形ながらエルナに向ける眼差しは慈愛に溢れ、その姿に注がれる視線は敬愛以外の何物でもない。
「シグトゥス、ベイレ、マテオ、良くやっタ。男爵殿も喜ばれるだろウ」
「光栄の至りです局長、しかし――もう一人は放置して本当に宜しいのですか?
獲物をみすみす逃したとあっては保安局の名に泥を塗る事になります」
懸念を示すシグトゥスにウォルフは「心配は要らン」と首を横に振った。
「元より我らは帝国の
皇帝親衛騎士という帝国騎士の最高位にして、官位だけなら貴族と肩を並べる名誉職に就くウォルフが口にするには
帝国保安局を立ち上げ、子飼いの部下が“人狼”と呼ばれる要因にもなった
しかしそれは身寄りのない者達を使い捨てる為ではなく、正規のルートでは立身出世が叶わない実力者を鍛え上げ、実績を積ませるという目算も有していた。
その証拠に歴代の“人狼”たちは平民を中心とした新たなる国軍の指導役として、或いは皇帝直轄領の保安要員として登用されている。
しかし――
「つまるところ容疑者はその異質な力を以て逃亡を図リ、我ら保安局は逃亡を
ウォルフの説明に、ベイレは思わずエルナを抱える手に力を込めてしまう。
改めて言われるまでもなく内通者とはエルナの事であり、それを口実に敢えて櫂を取り逃す――それこそが帝国保安局に帝都守護職から下された真の命令であった。
ベイレにとって
他者はそれを見て彼女達を「血も涙もない獣」、「誇りを持たぬ走狗」と蔑むだろうが、一の人狼たるウォルフがそうした命を下すには相応の理由があり、それなくしては家族を手にかける事を命じはしないと、“人狼”であれば誰もがウォルフを信じているからだ。
だから――これはきっとエルナを想うが故の判断だとベイレは信じている。
それでも――彼女の中に残された人としての心は、剣を振るう時のように平静ではいられない。
「では局長、彼女は――」
シグトゥスの言葉にウォルフは「ああ」と頷く。
長兄にして誰よりも家族の身を案じる彼に、その続きを口にさせないために。
「帝国保安局特務衛士エルナ・ヴォルフは職務に背き容疑者の逃亡を幇助しタ。よって保安局からの除名をここに決定すル。後は――内務府が沙汰を下すだろウ」
かくてエルナは彼女自身が願った通り、櫂が帝都を逃げだす為の囮として見事に目的を果たした。
しかし櫂も彼女を捕縛した保安局の“人狼”たちも、誰一人としてこの結末を歓迎してはいない。エルナはこれから罪人として保安局から帝都守備隊に身柄を引き渡され、法の裁きを待つ事になるだろう。
しかしそうなれば最後、皇帝親衛騎士のウォルフとて裁きの結果には口を挟めなくなる。そして「ヴォルフ」の姓も後ろ盾も失った賤民の少女に下される罪状と罰が如何ほどに過酷か――それを承知の上でウォルフは告げた。
「さようならエルナ、我らが家族ヨ」
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そして、その後――
「あぁ~~空気が美味しいッ!」
帝都イーグレを囲む二重の城壁。その外周部には城壁の内側に住む事が叶わない者達や、帝都を訪れる旅人狙いの商人たちが街道に沿うようにして幾つかの町を形成している。
その内の一つ、帝都を二分する川に沿って走る西ウィンザー街道。
街道に沿って流れる川岸にひょっこり姿を現した少女は、清涼な空気を胸いっぱいに吸い込むと感極まった声を上げた。
月の光を浴びて輝く
何より夜更けの街道には全く似つかわしくない可憐な少女――櫂の姿に驚く者はしかし誰もいなかった。
「下水道ではないとは言えじめじめして
櫂が帝都を脱出する為に利用したのは、帝都の地下に網の目のように張り巡らされた地下水道であった。
かつては一種の用水路として用いられていた地下水道も、数十年前に起きた疫病の発生源となった事を機に使用されなくなり、その逸話故に浮浪者や下層の貧民が住み着く事もなくなったそこは、犯罪者が城門を介さずに帝都の内と外を行き来する隠し通路として利用されていたのである。
かつて他の“人狼”と共にそこに逃げこんだ者を狩っていたエルナだからこそ、その用途と構造をある程度把握していたのが、櫂には
「エルナ……私は先に行きます。ですから早く追いついてくださいね」
皮肉なことに櫂はエルナが囚われの身になった事を知らずにいたが、だとしても彼が道を引き返す事はなかっただろう。
酷薄と言えば酷薄だが、彼(女)はエルナがその境遇を脱して自分のもとに駆け付けてくれるのだと信じてもいる。今の自分が身勝手な上に楽観が過ぎるのは百も承知だが、それでも櫂は帝都に背を向けて歩み始めた。
「――?」
川岸から街道に上がり、灯りひとつない道を月の光を頼りに歩き出す櫂。そんな彼(女)が一度だけ足を止めて振り返る。
視線の先には月の光を反射して白々と浮かび上がる帝都の城壁がある。
ぽつぽつとした灯火以外は何も見えないほど離れた城門から、ふと自分に注がれる視線を感じたのだが、どれだけ目を凝らしても人影を捉える事はできなかった。
「気のせいでしょうか……」
そう零して再び櫂は歩き出した。
目的地はこの街道の遥か先にある帝国西部ランスカーク領。帝国本土とは険しい山脈で隔たれ、大回廊と呼ばれる巨大なトンネルでのみ結ばれたその地は、かつて櫂が滞在していた場所であると共に、この世界に転生した彼が目覚めた“はじまりの地”でもあった。
自らのルーツを探る為、第七の勇者は再び帝都を後にする。
その背中を見送るのは、全身を黒い外套で覆った無数の人影。外套から伸びる手足には金属製の蛇が巻き付く様な装身具を覗かせていた。
それを見た者は悪趣味だと眉を潜めるか、或いは身の危険を感じてすぐさまに逃げ出す事だろう。大陸広しと言えど、蛇を象った装身具を身にまとう者達はただひとつしか存在しない。
その名は『蛇帝の使徒』。
極北の地より来る、大陸最凶の暗殺者集団である。
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