第54話 二の人狼




 内匠櫂たくみ かい。12歳。

 32歳の冴えないサラリーマンであった彼は、異世界に転生した際に何故か12歳の美少女に生まれ変わっていた。

 居候先の屋敷に押しかけた兵士たちから逃げ出す櫂とエルナ。夜の帝都を駆け抜けて脱出を目論む二人の前に現れたのは、エルナの兄を自称する帝都保安局の人間――即ちエルナ以外の“人狼”であった。


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「わたしは絶対に――あの人に勝てない」


 そう言ってエルナ・ヴォルフは櫂の胸を強く押した。決して痛みを覚えるような力ではない。それでもエルナの行為はこれまでになく櫂の表情を強張らせる。

 彼女が何を考えて自分を突き放すような行いをしたのか。それが分からぬほど櫂は愚鈍でも傲慢でもなかった。


(でも……そんなの、嫌ですよ)


 声に出さずとも承服しがたい現状に対し、櫂は駄々を捏ねずにはいられなかった。

 エルナは自分を見捨てて一人で逃げ出せと櫂に伝えたのである。もちろんそんな提案を「致し方なし」と受け入れるつもりは櫂にはさらさらない。

 しかし自分達の行く手に断ち憚る一人の男性――夜の闇に溶け込むような藍色のジュストコールをまとい、腰から下はエルナと同じ黒いズボンとブーツを穿いた二十代後半から三十代くらいの青年。端正だが誠実さや善良さとは無縁の顔立ちには、軽薄で酷薄な笑みが貼りついていた。

 そんな彼を映す櫂の琥珀色の瞳は、彼(女)に何の可能性イメージも提示してはくれない。必殺を約束する赤い路も魅了を約束する金色の螺旋も、彼に向かってはただの一本も伸びていなかった。それは彼に櫂の“超能スキル”が通用しない証でもある。

 つまり、彼はとてつもなく強い。

 そのを実感すればするほど、自分はエルナを見捨てると言う最低の選択肢に手を伸ばさざるを得ない――櫂が二の足を踏む理由はそうした葛藤にあった。


「――カイ、わたしたち“人狼”の本懐は猟犬マン・ハント。狼は群れで動く」


「エルナがたとえを口にするなんて珍しいですね――ですが、ええ、そうなのですね」


 軽口を叩く櫂であったが、エルナからかけられた言葉の重みは彼(女)の逡巡を無慈悲に押し潰す。

 何故ならエルナは比喩など口にしていないと櫂は最初から気付いていた。その言葉は無駄と希望的観測を捨て去った現実を端的に表現したものに他ならない。即ち“人狼”は目の前に立ち憚る一人ではない。今この瞬間にも他の狼たちが自分達を狩ろうとしているのだと。

 エルナが櫂を突き放したのは悲壮なロマンチズムに酔ったわけでも、ましてや櫂を護衛する事を放棄したわけでもない。

 自分と言う存在が今の櫂と彼(女)を取り巻く危機的状況に於いて、護衛どころか足手まといにしかならないと至極冷静に判断したが故の決断だったのだ。


「エルナ、これを預けます」


 櫂はもう迷わなかった。その代わりにとエルナに自分のスマートフォンを手渡す。


「使い方は分かりますね? 写し絵の撮影と同じです。そして写し絵の中には私が向かう先が残してあります」


 だから必ず再会しよう――とは櫂は言わなかった。

 もしも口にすれば言葉の裏に隠した未練がエルナを――いや自分を躊躇わせてしまうと予感していたから。

 エルナが無言でスマートフォンを受け取ると同時に櫂は『加速』し、来た道を引き返す。その速度は瞬きの間に彼(女)を夜の闇が呑み込むほどで、エルナもそして二人の前に立ち憚った二の“人狼”も櫂の後を追おうとはしなかった。


「おや、すごい逃げ足だ。話に聞いていた以上だね」


 それどころか呑気に感嘆の声を漏らすのだが、だからと言ってエルナは櫂がこのまま無事に逃げおおせられるとは微塵も考えていない。

 二の“人狼”――帝都保安局副局長兼特務衛士とくむえいしシグトゥス・ヴォルフがこうして狩りの現場に姿を見せたと言う事は即ち、彼よりも下位の“人狼”たちは既に狩場に解き放たれている筈だ。

 狼は群れで獲物を狩る。取り囲み、じわじわと抵抗力を削ぎ、一斉に獲物に食らいついては地に引き倒す狩人たち。シグトゥスの役割は自分と言う味方を櫂から引き剥がし、他の狼たちに本命の獲物だけを追わせる事にあるのだろう。


「副局長、カイをどうする気?」


「さぁ? そんなのは上の連中が考える事さ。何だい何だいエルナがそんな事を口にするなんて――ああ、そんなにが心配なんだね」


「にいさんは嬉しいよ」と涙を拭うふりをするシグトゥス。

 だがそんな白々しい演技に心惑わされるエルナではない。あと櫂は友達ではなく自分が護る存在だと心の中で反論しながら、彼女の足は地面を蹴った。

 櫂には及ばないものの、並の武芸者であれば瞬きの間に肉薄を許す俊足。

 しかもエルナは小柄な体を地面に身を投げ出すかのように前傾させて走るため、相手が剣や槍を振り下ろす前に自分の剣を届かせる事ができる。

 エルナの剣技が雷光に例えられるのも、単に剣を振る速度が速いだけではない。

 武器を持つ人間にとって死角になりやすい低位置から切り込むが故に、その斬撃は閃光の如くにはや峻烈しゅんれつなのである。

 尤もそれを誰より良く知るのは、彼女に剣を振るう術を叩き込んだ上位の人狼たちなのだが。


「――!」


 刃金が小気味良い音を立てて、夜の街並みに鳴り響く。

 火花が散るまでもない。それだけ軽やかに柔らかにシグトゥスの湾刀サーベルがエルナの直剣を受け流した。

 加減を少しでも見誤れば良くて剣を弾き飛ばされ、運が悪ければ振り上げる一閃に剣を保持する手首か指を断たれるエルナの剛剣。

 それをいとも容易くさばいたシグトゥスに対して、エルナはすぐさま剣を引き戻して二撃目を放つ。しかし、それもシグトゥスは難なく受け流してしまった。

 二度も攻撃をいなされたエルナが素早く身を離すと同時に、数瞬前に彼女が立っていた場所を湾刀が切り裂く。

 もしもエルナが追撃を諦めなければ、彼女の首は胴体と切り離されたに違いない。その証拠に彼女の皮鎧には真一門の刀傷が新しく刻まれていた。


「また腕を上げたねエルナ、これなら僕もみんなも安心だ」


 相手の命を奪う事に何の躊躇いも抱いていない事は剣筋からも明々白々なのに、シグトゥスがエルナにかける言葉はどこまでも親身で空々しい。

 彼が振るう剣はこれまで抵抗する獲物の手足を切り飛ばし、その切っ先が貫いた心臓も断ち切った首も数えきれないと言うのに、彼は一度として獲物に唾を吐きかけるような真似はせず、残された家族への同情を口にした事は一度や二度ではない。

 他の人狼たちは「どの口でそれを言うのか」と呆れ果てていたが、エルナは未だにシグトゥスと言う男の本心が何処にあるのか掴めていない。少なくとも彼は自分の言葉に嘘はついていない。でも本心を素直に吐露してもいない。

 故に――シグトゥスが何を言おうがエルナは聞き流す事にしている。もちろん今のこの時であってもだ。


「しかし……分かっているのかいエルナ? 僕達が動いたと言う事はこれは正当な命令だ。君に課せられた任務よりも優先すべき事であると知らない筈はないだろう?」


「うん、でもわたしはカイを護る」


 命令の前に私情や己の命でさえ捨てる事を厭わない無法の番犬。

 それが帝都保安局の特務衛士“人狼”が畏怖される理由であり、人ではなく犬と蔑まれる彼らの誇りでもある。

 誰よりもその掟に忠実だったエルナは今、命よりも重い命令に背いて同僚に刃を向けていた。その事実にシグトゥスは深く――わざとらしく相手に聞かせるかのように嘆息する。


「そうか、にいさんは寂しいよエルナ」


「ごめんなさい」


 二人はその言葉を残し、再び剣を振るい合う。

 人気が絶えた夜の帝都。街灯がぼんやりと照らす石畳の上で踊るように刃鳴り散らすふたつの狼。

 一匹はまだ子供に数えられる体躯を限界まで駆動させ、走り込む勢いを刃に乗せた雷光を放つ。

 もう一匹は細身ながらも悠々とした体躯で迫り来る雷光を受け流し、返す刀で相手の勢いを削いでいく。

 互いの力関係は決して釣り合っていないが、それでも若い狼は果敢に挑み続けた。血気盛ん――と称えるにはあまりにも悲壮で無私の剣閃。それは命を捨てても相手に一矢報いようとする死兵の戦法であった。


「くっ――!」


 シグトゥスの口から思わず漏れた苦悶の声。

 それが果たして何に起因するものかは分からなかったが、その時エルナの耳は腹が立つほど優雅に鳴り響いていたシグトゥスの剣捌きが乱れる音を聞き、エルナの目は相殺し損ねた力が互いの刀身を激しく打ち合わせ、夜の闇に一瞬だけ咲いた火花を捉えていた。

 正直に言えば既に息は上がっており、限界を超えても休む事を許されない心臓は耳障りなほど速く、激しく脈打っている。剣を握る指は痺れて感覚も遠くなり、気を抜けば二本の脚はすぐにでも地面に膝を着いてしまいそうだ。

 けれども、この機を逃すほどエルナはまだ打ちのめされてはいなかった。

 例えこの命を失おうとも――いや、自分の命も未来など。 全力全霊でこじ開けた「勝利」と言う名の未来がそこにあると理解した時、心も体もその誘惑から逃れられなかった。


「――カイ、今行くから!」


 エルナの足が石畳みを蹴る。瞬時にして加速したその身は互いの距離を一息で縮め、走り込む勢いを乗せた剣は雷光と化す。

 だが――エルナの剣が届くその前にシグトゥスもまた己が間合いに相手を捉えていた。躊躇いなく振り下ろされる湾刀は例え雷光に下腹部を斬り裂かれようとも、間違いなく少女の細い首を斬り落とすだろう。

 渾身の力を込めて振るわれた剣が描く未来は、互いにもうどうしようもできない程に確定していた。

 力量に差はあれどその覚悟にいささかの差もない狼同士の闘いは、何をどう変えてもこの結末に収束したであろう。


 異なる二つの牙が、闇夜に閃くまでは。


「―――!」


 咄嗟に引き戻した剣に走る衝撃。

 エルナに降り注いだ無数の斬撃は辛うじて受け止めた彼女を吹き飛ばし、その勢いを殺せないままエルナは石畳に打ちつけられる。

 衝撃に息が詰まり、体勢を立て直す暇もなく小さな体は二転三転して、やがて街灯に激突してようやく止まった。


「……どう、して」


 全身に走る痛みよりもエルナを打ち据えたのは純粋な驚きであった。

 脱力した腕を支えるようにして身を起こしたエルナが見たのは、街灯の頼りない灯を反射して輝く赤みがかった金色の髪と、両手に構えた長さの異なる二振りの剣。

 そこから放たれる嵐のような無数の連撃を、エルナはよく知っていた。


「あらあらごめんなさーい、、ちょっと加減間違えちゃったかしら?」


 エルナを妹扱いする若き女性の声。

 雷光よりも疾く、切り裂いた血に咲き誇る灼花しゃっかの双剣――三の人狼・帝都保安局特務衛士ベイレ・ヴォルフがゆっくりとエルナに歩み寄っていく。

 そして――


「――う、あ」


 大きな手に首を掴まれたかと思うと、そのまま体を問答無用に引き上げられ喘ぐエルナ。

 右手からは剣が滑り落ち、全身に仕込んだ短刀に手を伸ばそうにも首を締めあげて気道を圧迫するその手がこれ以上の抵抗を許さない。

 視界に映るのは浅黒い肌をした禿頭の巨漢。顔の左半分に彫られた楔のような入れ墨にエルナは見覚えがあった。彼は四の人狼・帝都保安局特務衛士マテオ・ヴォルフに違いない。

 兵士が両手で構える斧槍ハルバードを片手で振り回しながら、もう片方の分厚い盾で鎧ごと標的を打ち据える剛力のつわもの。その手に掴まれたならば自分の首など抵抗する間もなく手折られる事だろう。


「エルナ、さらばだ」


 南国諸島の訛りが抜けきらない懐かしい声を聞きながら、エルナの意識は次第に遠ざかっていく。

 何故――他の人狼がこぞって自分に対峙したのか。

 何故――彼らはのか。

 その疑問を口にする間もなく、エルナは目を閉じる。

 人狼は決して自分より上位の人狼には勝てない。その言葉を身を以て証明した五の人狼は意識を失ったのだった。




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