第49話 麦茶だこれ
32歳の冴えないサラリーマンであった彼は、異世界に転生した際に何故か12歳の美少女に生まれ変わっていた。
秋を迎えた帝都イーグレで出会った桃色の髪の少女。
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帝都イーグレの下町。
都市労働者たちが住まう一角に、「
高く昇っていた陽が沈み始める頃、その灰鳥亭を三人の小さな客が訪れた。
一人は桃色の髪を肩口で切りそろえた美しい少女で、全身を包む白い衣は金の刺繍で縁取られている。
もう一人は髪から衣服まで黒で統一された肌の色が濃い少女で、革製の簡易な防具に長剣を佩いていた。
そして最後の一人はこれまた黒いスーツと短いスカートから、同じ色のタイツに包まれた細い脚を覗かせる少女で、その頭部は深い藍色のフードで覆われている。彼女は店の中でもフードを脱がなかったが、その下には
三人とも歳の頃は十代前半。間違ってもこんな大衆酒場に同伴者なしで訪れて良い存在ではない。
店主がどう声をかけて良いのか
「「マスター、生ふたつ!!」」
と紛れもない少女の声で陽気に告げた。
ちなみに「生」とはこの世界に於いても
やがて店主がおっかなびっくりで二つのジョッキと乾燥させた豆と果実を乗せた皿をテーブルに運ぶと、麦芽酒を注文した二人の少女は「ワーッハハハ」と豪快に笑いながらジョッキを打ち鳴らして乾杯した。
二人はジョッキの中身を一気に飲み干すと、
「「麦茶だこれ!」」
そう叫び、ケラケラと笑い合う。
その光景に店主だけでなく他の客も言葉を失い、唖然としていた。
年頃の娘だけで大衆酒場を訪れる事自体が非常識な上に、堂々と
しかしこの時、灰鳥亭を訪れた客も店主も破天荒に振る舞う二人の少女に度肝を抜かれはすれど、その姿を「はしたない」と非難する気にはなれなかった。
それほどまでに――二人の一挙一足は他人を魅了してやまない。
「――まぁ分かってはいましたが、やはり
フードを被った少女――内匠櫂が心底残念そうに呟くと、桃色の髪の少女――
「ボクもあちこち旅してきましたけれど、帝国は何処でも嫁入り前の女性に酒を飲ませないようにって禁じられているみたいっス。だからまぁ、こんなものが出回っているんスけど――」
勝己がそう言って飲み干したのは、アルコールを飛ばした
元々はみだりに飲酒してはならない宗教者の為に作られた代用品であったが、僅かな苦みとさっぱりした後味から、酒を飲めない人にも重宝されるようになった経緯を持つ飲み物だ。
ちなみに味は櫂や勝己の世界に存在していた麦茶そのものである。
「ふむふむ、この麦茶らしき飲み物は帝国全土に広まっているのですね。興味深い話ですが、今はそれよりも――君の事ですよ
櫂はジョッキを置くと勝己に向き直り、嬉しそうに顔を
「まさかまさか二人して同じ異世界に転生するだなんて、こんな偶然もあるものなんですねぇ」
「それはボクの台詞っスよ櫂センパイ。こうして
斯波勝己はかつて櫂と同じ会社、同じ部署に勤めていた二十代の男性だった。
櫂にとっては唯一親しくしていた同僚であり、また頼れる後輩でもあった。
「つか櫂センパイが交通事故で亡くなったと聞いて、マジでショックだったんスからね。具体的にはその日から有給取らせてもらったレベルで」
「それは――申し訳ありませんでした。いや私も死にたくて死んだわけじゃありませんが、そうですか……斯波くんは私の死を哀しんでくれたのですね」
勝己の言葉を受けて櫂は思わず胸の痛みを覚える。それは悔恨であり同時に感激の
元々友人も少なく社内でも目立たない存在であった櫂は、自分が死んだとしても親以外は大して哀しむ事もないだろうと達観していたのだが、まさか他にも自分の死を
「ちょっと待ってください。
「……まぁ、そうっスね。ボクの場合は気付いたら此処に生まれ変わっていたので、まぁ心臓の発作か何かで知らない間にポックリ
少なくとも天寿を全うしたわけではないと告げた勝己に、櫂は先程とは違う理由で胸を痛める。自分よりも若い人間が志半ばで命を落としたなど、前世の話とは言え聞いて気分が良いものではないのだから。
勝己は享年28歳。死因は心臓発作で、部屋に散らばっていたアルコール度数の高い酒とカフェイン飲料が原因ではないかと医師は診断した。
「……カイは死んだことあるの?」
すると、それまで黙って話を聞いていたエルナが珍しく口を挟んで来た。
彼女はテーブルには着かずに櫂のすぐ側に立ったまま護衛の務めを果たしていたのが、それでも問わずにはいられなかったらしい。
何せ目の前にいる二人は、己の「死」をまるで経験したかのように語り合っていたのだから。
「――あ、それはその……何と言えば良いのですかね……」
思い返せば彼(女)は誰にも自分がこの世界に転生した存在である事を伝えていなかったのだから、疑問に思われるのも至極当然の成り行きである。
「あれ? 櫂センパイ、そこの可愛い子ちゃんには話してなかったんスか?」
「ええ……何せ突拍子もない話ですからね。そもそも転生と言う概念自体を信じてもらえるのかも不明でしたし」
櫂はそう弁明するが本当の理由は別にある。
自分の身の上を正直に話したところで信じてもらえず、それどころか気が触れているのかと思われるのは心外であり、これまで共に旅をして信頼を築いてきた相手だからこそ「嫌われたくない」という恐れが櫂の中で重みを増していた。
「――まぁセンパイの問題っスからね。ボクはどちらとも言いませんが、隠し事は互いに気分が良くないっスよ?」
「ええ、斯波くんの言う通りです。――エルナ、その質問には『ある』と言うのが私の答えです。詳しい事は長くなりますが……」
「――ううん、別に良い」
エルナはそれ以上の説明は不要だと首を横に振った。そして何事もなかったかのように櫂の側に佇む。
その内心は櫂には計り知れなかったが、自分を気遣う事もなくいつものように護衛に務めるエルナの姿に、櫂は抱えていた恐れが軽くなったように感じられた。
「良い子っスね。TSした上に美少女剣士の護衛とか、櫂センパイも異世界ライフを堪能しているみたいですなぁ~」
「まぁそれなりに――と言いたいところですが、中々充実していますよ。他にも猫耳美少女と旅もしましたしね」
今は遠く離れてしまった旅の仲間――ミカゲ・アゲハの事を思い出し、櫂は誇らしげに薄い胸を張る。
しかし勝己は「ふふん」と得意げに笑い、
「連合の
まぁ仕事上の話っスけど」
自分からオチを付ける勝己であったが、見栄の張り合いに負けた櫂は「ま、負けました…」と
「何ですかその
「ええ、と言ってもボクは此処に生まれて直ぐに旅商人に売られて、一緒に各地を渡り歩いただけっスけどね。あ、でも薄い本みたいなイベントは無かったっスよ?
ほらボクのこの髪、綺麗だし稀少だからってむしろチヤホヤされたくらいなんスから」
そう言って勝己は自分の髪を指に巻き付ける。
鮮やかな桃色の髪は確かに櫂も初めて見るものであった。
「まだ幼い時分に司教様から『この子は
おかげで商売も上手くいったと育ての親から感謝されてるくらいなんスよ?」
「そうでしたか。まぁ君は昔から何でもそつなくこなす人でしたしね。単に崇められるだけでなく商売の手助けもしていたのでしょう?」
櫂はそう言って勝己を称えるが、褒められた当の本人は一瞬だけ真顔になると、そっと目を逸らした。
「……まぁ、そうっスね」
その反応を櫂は特に気にも留めず、まだ聞きたい事はあるのだと楽しそうに口を開く。
「斯波くんはまだ時間はありますか? 宜しければ君の旅の話をもっと聞きたいのですが……」
「それは構わないっスけど、でもボクばかり話すのはフェアじゃなくないですか? 次は櫂センパイの番っス。転生してからどんな半生を送ってきたのか――」
勝己の問いかけに櫂は思わず口を閉じ、言葉に詰まってしまう。
彼(女)は今更ながら気付いてしまったのだ。目の前にいるかつての同僚はその年齢の数だけこの世界における生い立ちが存在するのに、自分には生い立ち自体が存在していないと言う事に。
「櫂センパイ? もしかして、聞かないほうが良かったっスか?」
「い、いいえ――別に話したくないわけではありませんが……斯波くんになら話しても良いかもしれませんね。実は私、この世界に転生してからまだ一年も経っていないのです」
櫂の返答に勝己は首を傾げる。何を言ってるのか理解できないとばかりに。
「記憶喪失なのです。私がこの世界で目を醒ましたのはつい半年前で、帝都から離れた場所でスーツ姿のまま、見知らぬ場所に倒れていました」
恥ずかしそうに告白する櫂。しかしその言葉には一片の嘘も誇張もなかった。
そもそも彼(女)は前世でトラックに撥ねられて以降の記憶を何も有していなかったのだから。
「……マジっスか? ああいやお互い異世界転生の上にTSしているから、そんな境遇に合ってもおかしくはないっスけど……やっぱりセンパイは持っているんスね?」
「いや全然羨ましいものじゃありませんよ? おかげで私は何の身寄りもなく、その所為で貞操の危機――いえ厄介事にも巻き込まれましたし」
もしも自分が見目麗しい美少女に転生することなく、善良な騎士や貴族にも巡り合えなかったとしたら――今頃はどうなっていた事か。それを想像しかけて櫂は
「なるほど流石は稀代の美女カイ様っスね。生い立ちの時点でボクみたいな端役とは比べ物にならないと」
勝己のからかうような口ぶりに、櫂は溜息を吐いた。
どうやら自分の噂を同僚も既に聞き及んでいたらしい。二大大国の軍事衝突を回避させた謎の美女――という櫂からすれば黒歴史指定待ったなしの風聞を。
「からかわないでください、斯波くん。私だってああするしかなかったんです。
――しかし君の話を聞いてひとつ興味が湧きました。私はここに転生してから、どうやって生きていたのでしょう」
最初は気にも留めなかった。
自分の生い立ちを詐称する中で、自分と言う存在は「無」から生じたのではないかと考えるようになっていた。
しかし勝己とこうして出会い生い立ちを知る中で、櫂は今の自分を育んでくれた
だとすれば――自分は――
「男爵閣下の領地であるランスカーク地方。私はもう一度そこに戻らねばいけないのかもしれませんね」
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「じゃあ櫂センパイ、また会いましょう。ボクもしばらくは帝都にいまスから」
一時間ほど後、灰鳥亭を後にした櫂と勝己は店の前で別れる事になった。
再会を互いに誓い合うと、勝己は櫂に背を向けてその場から立ち去る。その背中を見送りながら櫂は心の中に生じた「次の目的」に想いを馳せていた。
「――カイ」
物思いに
「何ですかエルナ」
「――あいつには気を付けて。嫌なにおいがする」
警戒を露わにするエルナに櫂は驚きを隠せなかった。彼女が言っているのは間違いなく今さっき別れたばかりの勝己の事だろう。かつての同僚にして、別の世界でも再開して酒(ではないが)を
けれどもそれと同じくらい、櫂はエルナの実直さを信頼していた。
「多分杞憂だとは思いますが、気を付けるとしましょう。でも斯波くんは別に人を騙したりあくどい真似に手を染めるような人ではなかったですよ?」
「そうかもしれない。でも――あれは嘘を吐かない代わりに、大事なことは黙っている人間のにおい。わたし、ああいう人間を他にも知ってる」
珍しく釘を刺してくるエルナの言葉を胸に止めつつ、櫂もまたその場を後にする。
例えエルナの言う通り、勝己に
しかしその二日後――櫂は再び、この帝都から
それもただ一人で。
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