第36話 翠玉の魔術
32歳の冴えないサラリーマンであった彼は、異世界に転生した際に何故か12歳の美少女に生まれ変わっていた。
極北の地から武闘大会に参加したロイとハディン。彼らは手練れの帝国騎士二人組に次第に追い詰められていく。櫂も密かに応援するなか果たして勝敗の行方は――
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少年の名はハディン。姓はない。
両親は共に他界していたが、ハディンはその事実自体を知らないでいる。
母親は娼婦で、父親は誰なのか見当もつかない。
物心つく頃から稼ぎの悪い母親に代わり、男娼として貴族や有力者に買われていた一人息子はやがて母親とも縁遠くなり、今や親子の情も断ち切れた――とハディンはそう語る。
第二次性徴を迎える頃、ハディンは寵愛を受けていた貴族の金をちょろまかし、極北の地へと逃亡した。
その道中で自らに備わった特殊な体質――「
貧しい社会の底辺で生まれ育ちながら、人の善性を信じてやまない少年ロイ。
彼の資質を見抜いたハディンは、ある提案を持ちかける。
それは――
「合格だ少年、このワシが貴様を騎士見習いとして推薦しよう――」
帝国騎士モゥス・ディ・ガラタは、ロイに向けてそう約束した。
帝国屈指の大騎士団にして、大陸全土から実力者が集うビィス騎士団。その双翼から推薦を受けると言う事は、帝国騎士の称号を賜る未来が約束されただけでなく、実力を高く買われた何よりの証となるのだ。
ロイにとっては本願成就したも同然であり、その言葉に彼は喜ぶ――間も与えられず地面に叩きつけられた。他ならぬ推薦主によって。
「―――――ガハッ!!」
モゥスに投げ飛ばされたロイは、背中から闘技場の石舞台に叩きつけられる。
その衝撃で肺の空気が押し出され、ロイは一瞬呼吸を止められてしまう。
「歓迎するぞ少年、先ずは身の程を弁えてもらうとしよう」
加虐的な笑みを湛えるモゥス。とは言え彼は加虐嗜好の持ち主ではない。
大道場の師範代から成り上がった彼の騎士団での役目は、自らの力量を弁えない新入りに手痛い洗礼を与えて鼻っ柱を叩き折る教官役である。
そんなモゥスとロイの戦いは、観客から見ても勝敗は付いたも同然だった。
ロイは剣を落とされ、モゥスは手斧を収めて素手でロイと組み合っている。これはもう試合などではなく、敗者であり未熟な若者への仕置きであった。
その証拠にモゥスは試合中だと言うのに腕を組み、ロイがよろめきながら立ち上がるのを傲岸不遜に眺めている。
「ビィス騎士団の双翼“
「ふむ……物分かりが良いのは結構だが、音を上げるにはまだ早いぞ少年?」
「……かもしれない。でも、あいつがこうしろと言ったから、俺はただ従うだけだ」
「――?」
ロイの言う「あいつ」が共に出場したハディンである事は、モゥスにもすぐ察しが付いた。
だがこれまで一切の援護も介入もしなかった銀髪の美少年が、果たしてロイに何を指示したのか――モゥスはすぐにでも知る事になる。
「すまない騎士様、推薦は取り消してもらっても――構わない!」
ロイは落ちていた剣を拾い、そのままモゥスの前から逃げ出したのである。
予想外の行動に、モゥスは呆気に取られてしまう。
「――遅いぞロイ!」
「無茶言うな!」
ロイはモゥスの前から逃げ出したが、試合を放棄したわけではなかった。
彼はオースと対峙するハディンの下に駆け寄り、すわ一体二の各個撃破を狙うのかと思いきや――
「後は好きにやれ、ロイ!」
ロイと入れ替わるように、ハディンもこれまで戦っていたオースの前から逃げ出し、モゥスへと向かっていく。
二人の少年は一対一の戦いを諦めたわけではなかったが、名誉を重んじる騎士にとって敵前逃亡は騎士失格に値する恥であり、観覧試合の場で断りもなく対戦相手を変える事は相手に対する不敬そのものであった。
モゥスは
一方、オースは相手が変わっても表情ひとつ変えることなく、ロイに向けて槍を突き出す。帝国騎士の怒りを乗せたその一撃は、これまでオースが繰り出してきたどの攻撃よりも疾く、苛烈であった。
(――――渦巻け、精霊ども!)
(ハイナーーーー!)
走り込みながらハディンは精霊に働きかけ、自らの両手に空気の渦を生み出す。
指先や手袋に付着した翠玉の粉を媒介にして風の精霊を使役し、風――大気を操る秘術を「
かつては魔法のひとつに認定され、しかしその
ハディンが翠玉の魔術を修めたのは三年前。極北の地に住まう魔術師に指示し、すぐに一番弟子として頭角を現すようになった。
言語を持たない精霊の思念を、人間の言語に翻訳して意思疎通できる特殊体質「精霊通」が術技の習得を助けた一面もあるが、秘術を成す
尤も――それが原因で彼は師の元を去る事になるのだが。
それはさて置き、翠玉の魔術の大家は竜巻を呼び、大風を吹かせて幾千もの矢を払い、目に見えぬ刃で岩をも断ち斬ると言われている。
だがハディンに言わせれば、そんなものは費用対効果の低い浪費に他ならない。
そんな大道芸に高価な宝石を丸々費やすくらいならば、その削り滓でもっと効率的に精霊を使ってみせると、ハディンは独自のスタイルを生み出した。
それが翠玉の粉末を用いた、ハディンの秘術である。
「どうやら貴様にも仕置きがいるな!」
「ハッ――おっかねぇ!」
モゥスが振り下ろした手斧を、ハディンは素手で受け止めようとした。
だが直撃すれば彼の手は斧を止めるどころか、真っ二つに断たれてしまう。
だが――それは素手の場合の話。ハディンの手に発生した空気の渦はモゥスの一撃をハディンの肌に届かせることなく切っ先を逸らし、騎士の斬撃を受け流してしまった。
「―――⁉」
不可視の秘術にモゥスは意表を突かれ、バランスを崩しかける。
しかし歴戦の勇士たる彼はすぐさま体勢を立て直し、追撃を繰り出すだろう。
だから、ハディンが狙うのはその一瞬。モゥスが前に傾く体を力づくで立て直そうとする動きに合わせ、彼は別の手を下から掬い上げた。
(――昇れ!)
(ヨッシャー!)
これまでハディンの掌の上で渦を描いていた風の精霊たちは、使役者の命を受けて一斉に自らを解き放つ。
その動きは局地的な上昇気流、つまり小さな竜巻を生み出し、その勢いは大の大人を吹き飛ばすほどであった。
「――な?」
その時、観客の眼に宙を舞う騎士の姿が映る。
彼はのけ反りながら宙を舞うが、空中で体勢を立て直して見事に着地を果たす。
実質的なダメージは無いに等しい。だが、彼が着地したの石舞台の外であり、規約によりそれは敗北と見なされる。
線の細い、これまで拳の一つも振るわなかった少年が、筋骨隆々とした騎士を大きく投げ飛ばした――それが観客が目撃した一部始終であった。
呆然とするモゥスに向けて、ハディンはしてやったりと笑みを浮べ――そのまま舞台の上に崩れ落ちる。白く肌理細やかな肌には、大粒の汗が滲んでいた。
一方――ロイとオースの戦いも終局を迎えていた。
剣を構えて駆け寄るロイに向けて、オースはその長い手足を活かした刺突を放つ。
この時のロイはハディンの様な秘策も、逆転を導く思考も持ち合わせておらず、彼はただ自らの意思だけを頼りに、自分より遥かに格上の猛者に挑みかかった。
故に彼には、‟串刺しオース”の異名を持つ騎士の刺突をかわす手段も可能性も存在しない――筈だった。
偶然、ハディンが掌からこぼした翠玉の粉に引かれて集まった風の精霊が、風を切って疾る刺突に驚いて局地的な風の流れを起こし――その穂先を僅かに下方にズラしてしまったこと。
偶然、ロイが駆ける先に先の試合で出来た小さな窪みが存在しており、ロイがそれに足を取られまいと跳び上がったこと。
偶然、局所的に発生した人を吹き飛ばすほどの上昇気流の余波で、ロイがその脚力以上の跳躍を成したこと。
偶然と偶然と偶然と偶然とが一秒にも満たない短い時間に、誰も意図しなかった事態を結実させる。
「―――む⁉」
オースの眼に自ら突き出した槍の柄に飛び乗り、それを足場に再度跳躍する赤土色の髪の少年の姿が映る。
思考はその先の未来を予測し、回避を全身に命じるが、渾身の刺突を放ったオースの肉体には突然の命令に応じる余裕などなかった。
跳躍の勢いのままに体を回転させ、ロイが放つ剣は弧を描きながらオースの首元へ吸い込まれていく。
「――双方、それまで!」
司祭が試合の終わりを告げるまで、誰も何も言葉を発しなかった。
櫂ですら息を呑み、その光景に引き込まれていた。
双翼と称えられた帝国騎士の一人は石舞台へと歩み寄り、もう一人は首元に当てられた剣をそっと押し返す。
彼らの息はまるで乱れておらず、その身も無傷に等しい。
一方、騎士にあるまじき真似をしでかした少年二人は息も絶え絶えで、どちらも舞台に崩れ落ちたまま、立ち上がる事さえ出来ないほど疲弊していた。
モゥスは愉快極まりないと笑い声をあげながら石舞台に上がり、オースは四つ這いになって必死に息を整えるロイの身を引き起こす。
司祭は未だに驚きに顔を強張らせながら、この戦いを繰り広げた者達に近付くと、二人の勝者に向けて勝利を
「――勝者はロイとハディン! 御柱の主よ、彼らの健闘に祝福あれ!」
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