第14話 百パーの気持ちで

「あんたさ。本気でその友達のこと助けたいって思ってる?」


 助手席で安斉さんが言った。それまであるパートさんが不真面目すぎて腹が立つと一方的に愚痴っていた。ハイハイと聞いていただけに、急に話題が変わって戸惑う。


「当たり前じゃないスか。小学校ん時からの親友です。何とかしたいです」


 憮然として答える。ふーん、と関心なさそうに返答し、安斉さんは大きく伸びをした。丁度信号待ちで停車していたから、安斉さんに視線を向けていた。伸びと一緒に突き出された巨乳がそこに飛び込んでくる。


「羨ましいとか、こいつのせいで俺が損しているとか、そんなこと思ったりしないの」

 細いストライプが弧を描いているのをぼんやりと見つめながら、指された図星に言葉を失っていた。


「信号変わった」


 安斉さんの指が前を指した。俺は安斉さんの胸ばっか見ていたことに気付いて頬が熱くなった。二十も上のおばさんを女としてみる気は無いが、綺麗な形の胸は健全な男子の視線を奪うものなのだ。


「百パーは、求めないけど。百パーセントこいつが好きで、命をかけてでも俺が守るとか言う奴は、気持ちが悪い」


 安斉さんはそう言って、足を組んだ。カーキ色のチノパンは、安斉さんを年齢よりも幼く見せる。多分大学に紛れ込んでも違和感はないだろう。でも、若く見えるからって自分を大事に磨いている痕跡は見つからない。化粧っ気ないし、ショートヘアの形もありきたりだ。


「誰だって、目の前にいる相手に対して色んな感情を持ってる。それは絶対に混ざり合わなくて、刻一刻と色彩や濃度を変えるもの。でもほんの五分くらいの間、百パーセントその子のことを守りたいって気持ちを保てる自信がある?」


 路面の氷はタイヤの摩擦で僅かに溶け、滑る。前方の車との車間距離を測って車を走らせながら、生唾を飲んだ。飄々とした口調だが、とても重要なことを問われているのは肌感覚で分かる。


「なんで、そんなこと、聞くんスか」

 勿論修平のためなら何でもすると答えたかった。だが、即答するのは憚られた。もっとしっかりとした覚悟が必要なのだと、感じた。だから、答える前にワンクッション置いてみた。


「そんなに長い間対峙出来ないからね。勝負は五分以内で付けたい」

 安斉さんの答えは、俺が聞きたかったこととはちょっと焦点がずれている気がした。


「何の、勝負?」

 新たに生まれた疑問を問うと、安斉さんが肩を竦めた。


「悪いものからお友達を助けるための勝負だよ。まさかボクシングでもすると思った?」

「思わないスけど……それって……」

「除霊とか、お祓いとかそう言うイメージでいいよ」


 事も無げに安斉さんが言う。俺は一瞬頭が真っ白になった。前方の車が速度を落としたのに気付くのが遅れて、急いでブレーキを掛けた。停車する直前、タイヤがズズッと音を立てて滑った。車間距離を取ってなかったら追突してたかもしれない。


「安斉さんって、その……、霊感めっちゃある人、ですか?」

「そうだね」


 あっさり頷いてチラリと俺に視線を向けた。午後三時の日差しは夕方のふりをして、淡く安斉さんの頬を照らしている。


「一族が、そう言うやつなの。お婆ちゃんがイタコだったり、おじさんが霊媒師やってたり……。あの世とこの世の間にはどちらでもない場所ってもんがあるの。そこにいけるんだよ、うちらは」

「あの世と、この世……」


 心を現実に留めておくために、言葉を機械的に繰り返した。安斉さんは小さくあくびをした後、続けた。


「この世で生を受けたものは、死んだらあの世に行く。でも、この世に未練や恨みを残したり、自分が死んだと自覚できなかったりすると、あの世に上手く渡れなくて間の世界に留まってしまうの。いわゆる、幽霊って奴ね」

「はぁ……」


 オカルト映画とか、ドラマとかによくある設定じゃないかな。そう思ったら、安斉さんの言葉は現実味を失った。荒唐無稽だと笑い飛ばしたくなる。でも確かに修平はあの日、俺には見えないものを見て、おかしくなった。


 俺には修平を元に戻す術はない。差し出された安斉さんの手を、握るしかないのだ。


「この世とあの世とその間の世界には、簡単には通り抜けできない壁がある。でも、壁には所々穴が空いているの。その穴は時々大きくなって、この世の者がはまりこんじゃうことがある。その穴から顔を出した幽霊と出会ってしまうこともある。悪意ある幽霊が波長の合った人間を引きずり込もうとすることも、ある」


 安斉さんの声が一段低くなった。俺は、ゴクリと唾を飲む。


「友達は、結構やっかいなものに捕まってる。私はその世界のプロになれるほど力を持ってない。助けられるかどうかは、ビミョー」


 後ろからクラクションを鳴らされた。いつの間にか前方の車が発進して車体が遠くなっている。俺は慌ててクラッチを繋いだ。しかし手に上手く力が入らず、繋ぎ損なった。車体がガクンと揺れ、エンジンが馬鹿にしたように止まる。


「エンストする車、ひっさしぶりに見た」


 ケラケラ笑う安斉さんに一瞥を見舞い、大きく息を吐いてからもう一度クラッチを繋いだ。


「私は守護霊さんに手を貸すことしか出来ない。彼の守護霊は普通レベル。太刀打ちできないかも知れないなぁ。もしも拓が彼の事を本っ気で助けたいと思えたら、友情パワーで何とかなるかも」

「友情パワーって……」


 その安っぽくて嘘っぽい響に絶望感を抱く。ふふ、と安斉さんは笑った。


「純粋に願う力は、時々信じられないポテンシャルを発揮するんだよ。拓は全く霊感がないから、相手は拓を認識できない。だから、その子をこっちの世界にひっぱれる。相手に邪魔をされずにね」


 俺はもう一度、生唾を飲んだ。


「でも、百パー五分を維持する自信が無かったら、どっかのコンビニで待ってて。邪魔になるだけだから」

「邪魔って」


 急に迫られた極端な選択に戸惑う。安斉さんはふっと息を吐いた。


「名前を思い浮かべたらいけないんだよね。私は、その子の名前を知らないからいい。でも、拓は知ってる。その子の事を思う時、どうしても名前が浮んでしまう。……名前は、その人の存在そのものなの。相手は名前を呼ぶことで、お友達の存在を支配しようとしているはず。百パーの気持ちでその子を助けたいと願いつつ、名前は思い浮かべない。その芸当を果たして拓君ができるでしょーか?」


クイズ番組の司会者みたいなテンションで安斉さんが言う。

 俺は、修平の顔を思い浮かべた。やっぱり修平の名前を、心のどこかで呼んでいた。「修平」という言葉を伴わないで修平の事を考えるのは、至難の業だ。


「拓は、難しい子だからね」

 修平の顔を思い浮かべながら名前は思い浮かべない。それを試行錯誤していたら、安斉さんがそう言った。俺の頭から修平の顔も名前も消えて真っ白になる。


「人が良いから何でも引き受けちゃうじゃん。皆から感謝されるだけじゃ割に合わないと思うことも、結構あるだろうね。さっきのパートさんの尻拭いも一杯したはずなのに、一緒に悪口いわないでさぁ。モヤモヤを黙って処理できるほど大人でもない癖に。爆発させるほどの度胸もない癖に。結局複雑怪奇な色の感情を溜め込んじゃうんだよ」

バクバクと心臓が高鳴った。


小学生がぞんざいに扱い、卒業と共に捨ててしまう水彩絵の具みたいな自分。


濁りを清める事は出来ず、上書きも出来ない。自分でももて余してしまう胸の内を、初めて受け止めて貰えたと思った。


「そんな拓が大好きなんだろうね、お友達は」


『拓』

俺の名を呼んで笑う修平の顔が鮮明に思い浮かんだ。


『拓って居心地いいんだよな』

 やたらと先輩に扱かれた時とか、ポジション争いで疲れている時とか、しんどい時には必ず俺の所にやって来た。怪我をした後は毎日俺の部屋でどんよりしていた。


『拓は故郷ふるさとみたいなんだよな』

 いつだったかそんなこと言ってたな。照れ笑いを浮かべて。帰ってこいと、俺はその照れ笑いに叫んだ。そして、はっと気付く。


「帰ってこいって、言葉で唱え続ける。修平の顔を見ながら。それなら、名前を思い浮かべないですみそう」


「採用」


 パチンと安斉さんが指を鳴らした。俺はぐっと腹の底に力を入れた。車は石狩川に掛かる新しい橋を渡っていた。修理中の古い橋が眼下に見える。新しい橋は橋桁を高く作ったらしい。お陰で河やその向こうの街並みを一望することが出来た。


 俺は修平を救うんだ。


 斜陽に目を細めながら、何度も何度も心の中で繰り返した。

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