第8話 金色の猫が赤く染まっていく

 F10号の点描とか、マジやめて欲しい。

 油絵の具を点々と画面に置きながら、自然に眉根が寄って来る。


絵の具は混色をすると、お互いの色を奪い合って濁る。点描はその現象を起こさないよう、原色のままの絵の具を点々と画面に乗せ、人の網膜で混色させるのだ。


 面倒臭いし、極力絵の具を薄めるなと言われているから、めっちゃくちゃ絵の具代が嵩む。これを、F10号って何。五三〇×四五五だぞ、キャンバスの大きさ。画面でかいって。


 キレそうになっていたら、教室のドアを開けて修平が入ってきた。教官は窓際の机でウトウト舟を漕いでいる。遅刻にならなくて良かったなと親指を立てると、修平は口元を綻ばせて笑った。


 教室には二十人の生徒がそれぞれイーゼルを並べ、課題の絵に奮闘していた。遅刻してきた奴のことなど目もくれず、黙々と画面に点を打っている。ある意味、異様な風景だ。


 不規則に並ぶイーゼルをすり抜けるように、修平が身体を左右に揺らしながら歩いてくる。その歩き方に、違和感を覚えた。いつもよりも左右の動揺が大きく、足が上がっていない。時々爪先が地面をひっかいて、躓くんじゃないかとヒヤヒヤする。


 『だって、俺、走れないから……』と呟いた後、修平は眠った。異様なほど、深い眠りだった。アパートについても目を覚まさないので、抱えて部屋に上がり、ベッドに放り投げた。くそ重たかった、まじで。


 修平のアパートから自宅まで往復一時間分、俺の睡眠は短い。それでも、課題を終わらせなければならないから、眠い目を擦って授業に出た。大学の目と鼻の先に住んでるくせに遅刻とは。暢気で呆れる。


 修平は鼻歌を歌いながらイーゼルを広げ、キャンバスを乗せた。茶トラの猫がじっとこちらを見つめている。その瞳はエメラルド色のガラス玉のように澄んでいる。細かい点が、光と影や角膜と虹彩の揺らぎを再現している。実家の老猫そのままの眼差しが、こちらに全幅の信頼と迷い無い愛情を注いでいる。


 修平はよく実家の猫を「金色の猫」と呼ぶ。寝転んでいるコバルトブルーのクッションは、金色の毛並みを絶妙に引き立てている。


 コバルトブルーの油絵の具は、笑っちまうくらい高い。原料の鉱石が高いかららしい。修平はどうしてもこの色が良いのだと、期間限定の禁煙を誓ってコバルトブルーの絵の具を大人買いした。


 絵の具の木箱からパレットを取り出し、その高価な絵の具を絞り出していく。俺は思わず口を馬鹿みたいに開けた。修平はチューブ一本丸々、パレットに絞り出したのだ。口元にニヤニヤと笑みを浮かべているから、ふざけてやっているのかと思った。突っ込みを入れるべきかどうか迷っていると、俺には一瞥も向けず画面に点を打ち始めた。


 鼻歌を歌う。

 CVLTEの「garden.」。生きるのに疲れ、死を願いながら暗闇を彷徨う、みたいな歌詞の歌。修平はやたらこの歌を気に入っている。


 口元に笑みを浮かべ、陰鬱な歌詞を口ずさむ。


「なぁ、修平……。どした? めっちゃご機嫌に見えるけど……」

 潜めた声を掛けると、修平はこちらを見ずに奇声を上げるような声で笑った。皆が一斉にこちらを見る。驚いた目で、苦情を浮かべた目で、奇妙なものを見るような目で。


「ランナーズハイなんだよね-」

 ケタケタと笑いながら、修平が言う。


「ランナーズハイ?」


 だってお前、走れないじゃん。思わずそう言いそうになり、慌てて口を噤む。ふへへ、と修平は笑い、やっと俺を見た。


 目の焦点が、合っていない。俺は眉を寄せた。


「……酒でも、飲んできたのか?」

 だったら引っ張ってでも連れて帰らなければ。退学になっちまう。修平は馬鹿にしたように大袈裟に肩を竦めた。


「酒なんかいらねーよ。自己調達だ。エンドルフィン、ドックドク出てんだ。脳内麻薬だ、脳内麻薬」

 そう言って、人差し指で自分のこめかみを突く。黒目が、異様なほど中央に寄っている。背筋に寒気が走る。


 「あ、そうだ」と、修平が声を上げた。拙い大発見をした、子供のような声だ。


「いいこと思いついた-」


 そう言うと、床に置いていたブラックボスを飲み干した。そのペットボトルにテレピンを流し込む。

「お、おい……」


 この課題は、出来るだけ絵の具をテレピンで溶かさないようにと言われている。修平は舌なめずりをし、絵の具のケースからカドミウムレッドを取り出した。蓋を指先で捻り取り、床に投げ捨てる。チューブの口をペットボトルに差し込むと、ギュッと握った。深紅の絵の具がしぼり出され、パイプを加えたおじさんの向こうで透明の油が跳ねた。


 搾り取られてしわしわになったチューブを床に投げ捨てると、ペットボトルに蓋をし、バシャバシャと降り始める。身体をかがめるようにして、力一杯。ヘッド・バンキングしているみたいに、頭も一緒に上下する。


 執拗に、ペットボトルを振る。


 暫くして、修平は身体を伸ばした。額から汗が流れ、肩で息をしている。


 クラスの連中が手を止め、異様な光景を見つめている。その中で、修平は目線にペットボトルを翳した。


 五〇〇㎖のペットボトルは、血のように赤い液体で満たされている。


 修平は蓋を取り、キャンパスの上に液体を流した。

 金色の猫が、コバルトブルーのクッションが、赤い色に染まっていく。


 エメラルドグリーンの瞳も。


「昨日の雪原みたいじゃね?」

 そう言って、修平は声を上げて、笑った。


「俺あの人と走ったんだー。めっちゃめっちゃ気持ちよかったー!」


 フローリングの床に、赤い水たまりが出来ていくのを呆然と眺める。


 昨日の雪原?

 あの人と、走った?


 遠くを指さしていた修平の姿を、思い出していた。あの時、修平は一体何を見付けたのだろう。何を必死に、録画していたのだろう。俺には見えていないものが、修平には、見えていた……?


「また一緒に走りたいなぁ……」

 修平はうっとりと目を細めた。

 

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