第10話 現身の身体

 夢の中で俺は、誰かと手を繋いで走っている。夢の中の俺は、怪我をする前の足を持っている。力強く地面を蹴る足の指、脹ら脛、太もも。心拍数が上がり、血液が体中を駆け巡る。噴き出す汗が風に靡く。俺の身体も風と同化し、疾走する。


 前へ、前へ。どこまでも。


 手を繋いでいる相手は、嬉しそうな笑顔を見せている。けれど、具体的な顔かたちが分からない。


 嬉しそうに綻ぶ口元、こちらを真っ直ぐ見つめる二つの瞳。どちらも底なしの洞穴のように真っ黒なもだという印象しかない。身体も同様に、はっきりとした姿を思い浮かべることが出来ない。どんな背格好をしているのかも、どんな服を着ているのかも、判然としない。


 それでもいい。彼と手を繋いでいれば、俺はどこまででも走って行けるのだから。


 彼が何故走っているのかは知らない。どこへ向かっているのかと問うと、無言で空を見上げた。そこには、赤い満月が浮んでいた。


 彼はいつも、問いかける。


『君の名前は?』


 俺は、それに答えようとする。けれど、答えようとした途端、頭から自分の名前が消えてしまう。煙が風に姿を溶かしてしまうように。


 彼に名前を伝えたい。伝えなければならない。

 彼に名前を教えたら、きっともっと親しくなれる。もしかしたら、もっと長く一緒に走れるようになるかも知れない。


 夢から覚めるのが、段々と嫌になってきた。


 だって夢から覚めた身体は、走り続けていた疲労が残り、鉛のように重たい。爽快さを感じたのは初日だけだった。疲労は溜まる一方で、辛さがどんどん増していく。体中が痛み、軋み、起き上がるのも億劫だ。


 この、邪魔でしかない身体を捨てることが出来たら、俺はずっと走っていられるのに。


 そう思いながら、日中は漬物石みたいな身体を引き摺り、出来るだけ夢の世界に身を投じる。断片的な夢を重ねて何とかやり過ごし、長い夜を待つ。

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