私の隣の勿忘草

彩羅木蒼

第1話

 気が付くと私は訪れた事が無いオフィスで事務作業をしていた。

 辺りを見回してみると、観賞植物が所々にセンス良く配置された小洒落た室内が目に飛び込んで来る。

そのITベンチャー企業の様な先進的な雰囲気に私は気圧される。今私が働いているのは、地味で暗い前時代的な雰囲気の病院の事務室なはず。だから目の前に広がるオシャレな雰囲気の職場に強烈な違和感を覚えるはずなのだが、私は当たり前の様にその環境を受け入れていた。まるでこの職場に以前から働いているかの様に。

 だからなのか、私は帰ろうとせずにそのまま事務作業を再開させた。そもそも帰ろうとする発想が無かった。

しばらく作業をしていると、横から『絵梨佳えりか。忙しい所悪いんだけど、これ追加でやっておいてくれる?』と声が聴こえた。その声色に私は懐かしさと安心感を覚える。

しかし、誰の声なのかは分からない。分からないはずなのにどうして懐かしさを覚えるのだろう。

その声が向けられる方向からして、どうやら私に向かって話している様だ。

……絵梨佳? 名前で私の事を呼ぶのは一人の同期しかいないのだが、今私を呼ぶ声は別人だ。一体今私に呼び掛けているのは誰?

  そう思いながらも声のする方を見やると、そこには女性が立っていた。

 オフィスカジュアルに身を包んだ彼女は資料を私に向けて差し出している。しかし、なぜか肝心の顔がかすんで見えない。顔以外は普通に見えているのだが、顔だけが濃い霧がかかった様になって見えないのだ。

思わず「ヒエッ」と変な声が出そうになるが、なぜか声が出ない。顔だけが見えない状態なんて普通に考えておかしいだろう。そこで私は流石に帰りたくなったが、その意志に反して私は「あ、——さん、わかりましたよー」と言ってその書類に手を伸ばす。

何? その人の名前の所だけ聴こえない。っていうかなんで私はこの女性の名前を知っているの?

差し出された紙に手が触れそうになる瞬間、遠くから規則的なアラーム音が聞こえて来た。それと同時に視界が急速に暗くなって行く。完全に視界が閉ざされる間際、手を伸ばした先にいる女性の霧が少し晴れた様な気がした。



 「……ん、んんー」私は寝ぼけながら、ベッドの端でけたたましく鳴るアラームを止める。スマホのディスプレイには朝の7時30分と表示されている。今日は金曜日。今日さえ乗り切れば明日からは休みだ。

「くぅー! よっこいしょ!」

 私は重い体を何とか起こした。最近は残業が続いているから、寝ても疲れが取れた感じが全くしない。まだ25歳なのに寝起きから疲れているのはちょっと危険信号だ。

 毎日見ている転職サイトが頭にちらつきながらも、ようやくベッドから降りる事に成功した。

 洗面台に向かいながら私はさっきの夢について思い出す。普通は夢を見ても起きたら忘れている事が殆どだし、夢というのはリアリティの無いふわふわした物である。私もずっとそう思っていたのだけれど、あの夢を見てからはその認識がガラリと変わった。

 あの夢はその場の空気感までハッキリと分かる程にリアルなのだ。しかも全く知らない場所にも関わらず、夢の中の私はその場にいるのが当たり前という風に振舞っているから気味が悪い。ところで、資料を渡して来たあの人は誰なのだろう。夢の中の私はあの人の事を良く知っている様だった。

 まあ、悪夢ではないだけましか。私はそう思う様にしている。実害は無いし、何より夢の中のあの人に話しかけられる度に胸の中に広がる、まるでふかふかの毛布にくるまれている様な安心感が心地よいのだ。

 顔を洗い終えた私は朝食の準備に取り掛かる。

 準備と言ってもトースト一枚だけ。年頃の女としてこの朝食はどうなんだと自分でも思うけど、まあ面倒だから仕方ない。朝は手軽が一番だ。代わりにランチはちゃんと取るし。

 キッチンで立ったまま朝食をとっていると、付けていたTVが天気予報から朝の連続テレビ小説に変わった。とすると、今は8時だ。「やっば、急がなきゃ」私は残りのトーストを一気に頬張った。


 

 速攻で身支度を済ませた私は、玄関のドアを開けて外に出る。ドアを開けるとそこには綺麗に整えられた庭が広がっていて——というのが私の理想なのだが、実際は目の前に広がるのはマンションの廊下と壁。一軒家なんて建てられるお金なんてないから、私が住んでいるのは地方都市のマンションだ。ああ、一軒家に住みたい……。

 そんな事を思いつつ、エレベーターに向かって歩きだすと、丁度隣の部屋のドアが開いた。

 そうだ、私に隣人が出来たのだった。

 長らく空き部屋だった隣に、人が引っ越して来たのは昨日の夜。時間も遅かったからまだ顔も見ていない。

 ちゃんとした人だったらいいな……と思いながらも、挨拶のタイミングを逃していた私は来るべき挨拶の時に備え身構える。

 間を置かずに隣人が開いたドアから出てきた。私は思わず心の中で『おお』という感嘆かんたんの声を漏らす。

 部屋から出てきたのは女性だった。しかもかなりの美人。ざっと見170cmはありそうな長身に、暗めの落ち着いた赤色のミディアムショート。目鼻立ちはハッキリとしており、吸い寄せられる様な綺麗な肌をしている。細いフレームの眼鏡の奥に見える切れ長の目が知的で美しい。

 思わず見とれていると、その隣人は私に気づいた様子でこちらを見て来た。あっ、挨拶しなきゃ。私は発動しそうになるコミュ障をなんとか抑えつつも“おはようございます”を言う為に口を開く。その時、まるで人込みの中から友達を見つけたかの様に隣人の顔がパッと明るくなった。

 ——ん? 私はその脈絡のない隣人の表情に違和感を覚える。すると次の瞬間

「絵梨佳じゃん!!! 久し振りー!!!」と言って隣人は駆け寄って来た。

 え……待って意味が分からない。ちょっと待って……。


 


 一ミリも意味が分からない状況に私の思考はかき乱されて行く。ちょ、どういう事?

今日が初めましてですけど? って言うかまだ挨拶もしていない真っ赤っかの赤の他人ですけど? まあ確かに私は絵梨佳です。尾科おしな絵梨佳えりかです。けどあなたはいったい誰ですか!? ああ、ヤバい、なんだかふらついて来た。

 隣人は今の私の内面とは真逆の晴れやかな笑みを浮かべて近づいて来る。そして私の目の前まで来た隣人は私の手を取り、「絵梨佳、心配したんだよ」と言った。

「前の職場では失踪するみたいに突然辞めちゃうしスマホに電話しても出ないしチャットしても既読にならないし家に行っても誰もいないからほんっっっとに心配した!」

 堰を切った方にまくしたてた隣人は目を潤ませながら

「生きててよかった」と言った。

 

 ……は?


 私は今働いている職場でしか働いた事が無いし、失踪もどきな事もしてない。しかも家に行っても誰もいないってどういう事? 私は実家を出てからは今住んでいるアパートにずっと暮らしているし、実家を知っている人は誰もいないんだけど。

 何を言っているんだこの人は? 人違いをしているのか? どちらにせよ常軌を逸している。

 私はなぜか段々腹が立ってきた。なんで昨日引っ越して来た誰かも分からない隣人の壮大な人違いに朝っぱらから巻き込まれなくちゃいけないんだ? しかもあんたのパーソナルな部分に全く関係が無い私を巻き込むなよ。赤の他人の内面の話なんて普通聞きたくないだろ。そもそも人違いである事にいい加減気づけよ!

 そんな私の気持ちを知るよしもない隣人は険しい表情をしている私を見て、更に勘違いを重ねる。

「どうしたの?具合でも悪いの?」

 心配そうにその綺麗な顔で覗き込んで来る。

 その言葉を聞いた瞬間。私の理性を何とか保っていたものが紙切れ様に吹き飛んで行くのを感じた。ダメ。もう限界。

「——さっきっから何なんですか一体!!!!」

ダメだ止まりそうにない。

「ええそうですよ私は絵梨佳です。尾科おしな絵梨佳えりかです。けどね、私はあなたの事なんて全然知りません! 大体私の表情を見ればわかるでしょ、いい加減人違いだって気づいてよ!!!」

「こんな朝っぱらから赤の他人の内面に引きずり込まれる身にもなって下さいよ!!! いいですか、私はあなたの事なんて知りません!」

 普段の私からは考えられない物言いに自分でも驚いてしまう。

 流石にここまでハッキリと言えば人違いだと気づいただろうと思い、隣人の顔を見た。すると、隣人は驚きと悲しみが入り混じった表情をしていた。右目から一筋の涙が頬を伝っている。これはこの人がさっき目に溜めていた涙ではない。今流した涙だ。

 なんでそんな顔をする? 顔を真っ赤にして謝られる様子を想像していた私はその予想外な隣人の表情に思わず面食らう。

 なんだか逆に悪いことをしてしまった様な気がして来た。

でも、迷惑しているのは私の方だと思い直し、「と、とにかく! 私は仕事に行かなきゃいけないので失礼します!」と言って隣人の手を振りほどき、私はエレベーターに向かって歩き出した。背後では「絵梨佳……」と寂しげな声が聞こえたが、私は聞こえないふりをする。

 直ぐにでもその場を離れたかった私は、階段を駆け下りる事も考えたが、丁度エレベーターが私のいる階に止まっていたから急いでボタンを押して乗り込んだ。1階のボタンを押し、エレベーターの扉が閉まっていく。完全に閉まる直前に見えたその人の後ろ姿には、悲しみと虚無感が漂っていた。——本当に意味が分からない。



 マンションを出た私は、歩きながら先程の意味が分からない状況をどうにか整理しようと試みる。

 まず明白なのは、私はあの人の事を全く知らないのに、向こうは私の事を知っている様だという事。この事から考えられるのは、あの人が盛大な人違いをしているという事では無いだろうか。

 だってもうそれしか考えられない。しかし、不思議なのはあの人が人違いをしているという事を自覚していない様に感じられる事だ。それどころか私の態度を拒絶と受け取っている様子も訳が分からない。一体何だというのだ。

 だが一つ気になっているのはあの人からどこか懐かしさを覚えるという事。今日初めて顔を見たのになぜそんな事を思うのだろう。



 その日は全く仕事が手につかなかった。大きなミスこそ無かったものの、私は食品生産ラインの全自動ロボットの様に機械的に仕事をこなしていた。

 仕事を全て終えた私は、これからどうしようかと考える。今日は残業が無い。定時に帰れるなんて滅多にない事だから、いつもなら小躍りしたくなる程嬉しいのだが、今日に限ってはそうは言えない。早く帰ればあの隣人に遭遇する確率が高くなってしまう。

 そこで私は、事務所内で席が近いやなぎ凛花りかの方を見やる。

凛花とは良く昼休みに一緒にランチに行ったり、仕事終わりに飲みに行ったりする仲だ。色々な話をする。

 凛花も帰り支度を初めていた。残業は無さそうな様子だったから、私は凛花を飲みに誘う事を決めた。少しでも帰宅を遅くして、あの隣人と遭遇する可能性を減らしたいのと、何より凛花に今日あった出来事を聞いて欲しかった。

「凛花―、この後空いてる?」

「ん?空いているけど、どうした?」

凛花が落ち着いた少し低めの声で答える。凛花は私と同い年だけれど、『人生何週目ですか?』と思わず尋ねたくなる程落ち着いているし博識な子だ。凛花と話しているといつも新たな発見があって面白い。

「いやー今日は私達早く帰れるじゃん。だから一緒に飲みに行きたいなーと思って」

「ああ、そういう事か。うん、全然良いよ。飲みに行こう。私も丁度飲みに行きたいと思っていた所だったからね」

「やった!」

私は小さくガッツポーズをする。

「今回はどこに行こうか」

「そうだなー、行くとしたらこの辺の居酒屋かな」

 私はスマホを取り出し、地図アプリで周辺のお店を検索していく。

「でもこの時間に開いてるのって大体いつも同じ店だね。決めずに行き当たりばったりで入るのもいいかも」

「じゃあ私の姉がやっているジャズ喫茶はどうかな」

それを聞いた私はスマホから顔を上げて凛花を見る。

「あれ、お姉さんのお店って夜7時くらいには閉まってなかったっけ」

「いや、それが最近夜営業を始めた様でね。今日は夜12時まで営業しているみたいなんだ」

「へえ、夜営業の時は流石に開店時間を遅らせてるの?」

「少しね、確か昼の12時からかな」

「え! 殆ど変わってなくない!? 大丈夫? ——って私が言うことではないけど」

「夜までやる時は途中2時間くらい昼休憩で店を閉めるから、案外大丈夫っぽいね」

そう言ってから凛花は急に心配そうな顔つきになり小さな声で言う。

「まあ姉貴無理しないと良いんだけどな……」

「やっぱり心配?」

「ああ、いや、前姉貴仕事の帰り道にいきなり倒れた事があってね、その時は流(る)花(か)さんが直ぐ見つけてくれてそのまま救急車も呼んでくれたから大丈夫だったけれど、流石にびっくりしたよ」

 初めて聞いた。

「そんな事あったの!? その、お姉さんの体調はもう大丈夫なの?」

「ああ、すっかり元通りだよ。まあ流花さんも一緒にいるし、その点は安心かな」

そういうと凛花はすっと立ち上がり、「よし、そろそろ行こうか」と言った。

 凛花のお姉さん、やなぎ蓮香れんかさんは夏美なつみ流花るかさんという女性と共にジャズ喫茶をやっている。私も好きで良く休みの日などに通っているのだが、ジャズ喫茶にしては閉店時間が早めだったから、仕事の日は時間が無く、行くことが出来なかったのだ。だから平日に行くことは諦めていたのだが、まさか夜営業もしているとは。仕事がある日にも立ち寄れるのは嬉しい。

 私は凛花と一緒にそのジャズ喫茶に向かった。その道中、私は凛花と他愛もない話をしながら歩いていた。今日は金曜の夜という事もあり、仕事帰りのサラリーマンやOLがとても多い。みんなとても楽しそうだ。

「ん、もうすぐ着くね」

凛花が落ち着いた声で言う。

 確かにジャズ喫茶はもう目と鼻の先の距離だった。

 夜に行くのは今日が初めてだから、夜のジャズ喫茶はどんな様子なのかがとても気になる。

 楽しみな気持ちが風船の様にどんどん膨らんでいく。

 その時、ふと視界の隅に電柱が映った。いたって普通の電柱。普通なら気にも留めない存在。しかし、私はその電柱から目を離すことが出来なかった。なぜ?ただの電柱なのになぜこんなにも目が離せないの?

 その時だった。電柱の上から一筋の赤い液体が落ちて来た。

 最初はペンキか何かかと思ったが、電柱を塗装中の様子は全くない。

 その液体は赤黒く、ドロッとしており、まるで血液の様だった。

 瞬く間に電柱が真っ赤に染まり、地面も血だまりの様に赤く染まって行く。

 私はその異様な光景に対するあまりの恐怖に、声も出せずただ全身を震わせる事しか出来なかった。 

「絵梨佳!」

 凛花の声にハッと我に返る。急いで電柱を見ると、そこにはただいつも通りの無機質な電柱があった。

 さっきのは何だったのだ?幻覚?それにしてはリアル過ぎる。

「大丈夫?いきなり真っ青な顔して震えだすから心配したよ……。名前読んでも反応しないし。具合悪い?今日は帰ろうか?」

 そこには心配そうにこちらを見る凛花の顔があった。ああ、心配させてしまっている。

「いいや、大丈夫。もう大丈夫だから。行こ? 心配させてごめんね」

 少しの間『本当に?』と言わんばかりの顔で私の事を見ていた凛花だったけど、「ん、絵梨佳がそういうなら……行こうか」と言ってくれた。

 そうして私達は再度ジャズ喫茶に向けて歩きだした。



 夜間の店内は喫茶店の雰囲気をまとっている昼間とは違い、どちらかというとバーの様な感じだった。間接照明がとても良い雰囲気を醸し出している。

 私と凛花は窓際の席に座った。このお店は、店内が横長の長方形型になっていて、まず店内に入ると右手に蓮香れんかさんと流花るかさんがいるカウンター席とお会計のスペースがある。そして左手にはずらっと客席が並んでいて、その一番奥の壁際に大きなスピーカーがある。私達が座ったのは、そのスピーカーとカウンター席の丁度中間辺りの位置だ。

 私達が席に座り、少しすると店員さんが注文を取りに来た。

 注文を取りに来たのは蓮香さんだった。妹の凛花とは顔つきがとても良く似ているのだが、話すと大分印象が違う。

「あー絵梨佳ちゃん、来てくれたんだね」

「来ましたよー、夜の店内めっちゃ良い雰囲気ですね。なんだかとても大人って感じで好きです」

「ありがとう。照明とてもこだわったからうれしいな」

 ほんわかした話し方をする蓮香さんがいると、その場の空気が一気にリラックスしたものになる。私はこの空気感が好きだ。

「けどね、この間接照明の配置とか、照明の明るさとかは凛花のアドバイスもあってこうなったんだよ」

 私は驚いて凛花の方を見た、凛花がインテリアコーディネートの様な事を出来るとは知らなかったからだ。

 凛花は少し恥ずかしそうにしながら「いやー、少し興味があったからやっただけだよ」と答えた。

 いや、それにしてもこの店内の雰囲気を出せるのはかなりのセンスが無いと無理だろう。

「ところでお二人さん、ご注文は決まりましたかね?」

 そうだ。話すのに夢中になって注文をしていなかった。

 私と凛花はそれぞれ注文をし、蓮香さんはカウンターに戻っていった。

 その後、私達は他愛もない話をして過ごしていた。最近観たドラマの話やプライベートの事など色々な話を。

 しばらく話した後、私は今日の朝に起きたあの意味不明な出来事について凛花に話そうと口を開いた。出来るだけ深刻な雰囲気にならない様意識しながら。

「そういえばさ、今日の朝、仕事に来る前にね、意味わかんない事があったの」

それを聞いた凛花は怪訝けげんそうな顔をしながら「意味の分からないことって?」と尋ねて来る。

「私の隣ずっと空室だったでしょ」

「ああ、うんそうだね。『角部屋だし隣もいなくて快適だ』って前に言ってたもんね」

「それがね、昨日引っ越して来た人がいるの」

「うん」

「私は初めて見る人だったし、だからもちろんお互い“初めまして“のはずなんだけど……」

 私はそこまで話すと今朝の異様な状況を思い出し、言葉に詰まってしまう。

「絵梨花?」

「ああ、うん。えっとね、朝出勤する時にその人とちょうど鉢合わせたんだよね。まだ挨拶も出来ていなかったし挨拶しようとしたら、その隣人が私の事を知っていたの」

「……え?」

 凛花が『どういう事?』と言わんばかりの顔をしている。

「絵梨花がその人の事を知らないのに?」

「全然知らない。見たこともないの。なのにその人は『絵梨花じゃん!』って私の名前を呼んだ後に駆け寄ってきて……。しかもなんか『生きててよかった』って言って涙を浮かべて1人で感動してるし……。意味が分からなかった」

「本当に絵梨花はその人の事を知らないんだよね」

凛花は念を押す様に聞いてくる。

「全然知らないよ。今日が初めましてだし。——ただ、なぜかあの人に対して懐かしさを感じたの」

私は凛花の目を真っ直ぐに見て言う。

「これって、凛花はどう思う?」

 凛花は考え込んでいた。流石に博識な凛花とはいえ、この全く意味の分からない現象を説明するのは難しいのではないかと思った。私から相談して置いてなんだけど。

 少ししてから凛花が口を開いた。

「さっき絵梨佳が言った『あの人に対して懐かしさを感じた』っていう所をもう少し詳しく聞かせてくれないかな」

 凛花は続ける。

「絵梨佳も気付いていると思うけど、“懐かしいと感じる”のは以前にその対象と何かしらの関わりがある場合にしかそう感じないと思うんだ。私も懐かしいと感じるのは以前に通っていた学校だとか、過去に聞いた音楽だとか——」

 そこで一旦言葉を切った凛花は目の前のテーブルにあるグラスを手にとり、残りのウイスキーをあおった。

「だからね、絵梨佳はその人の事を本当に何も知らない?例えば……偶然に、その場の流れでその人に親切をしてあげた事が以前にあるとか」

「どういう事?」

「本当に小さな親切。例えば近所のスーパーでセルフレジに並んでいる時に列を譲ってあげたとか、電車やバスとかの公共交通機関で席を譲ってあげたとか」

「いいや全く、というか最近そういう機会全然なかったし、あの人はかなり美人だったから一度見たら覚えてると思う」

凛花の質問の意図が分からない。

「どうしてそんな事聞くの?」

 凛花は少し逡巡しゅんじゅんする様子を見せた後、口を開いた。

「私がね、絵梨佳からの話を聞いた時に真っ先に浮かんだのは、その人は倒錯とうさくしたストーカーなんじゃ無いかという事」

——ストーカー?あの人が?まあ確かに普通ではないけれども……。

「そ、それはちょっと飛躍し過ぎじゃない?確かに普通ではないとは思ったけど……。そんなストーカーされる覚えもないし、相手は女性で私も女性だし……」

「いや、性別は関係ないと思う。同性間のストーカーもあり得るからね。その、あまり不安にさせる様な事を言いたくは無いんだけど、絵梨佳がその人の事を全く知らないのならストーカーという事もあり得るとは思って」

 凛花は話を続ける。

「これは最悪のケースね。けど、もしその人がストーカーだったとしたら、その人が言った『生きててよかった』という言葉が説明つかないんだよね。そもそももしストーカーだとしたらそんな事言わないというか言う必要が無いと思うし」

 凛花は頭を抱える仕草をする。凛花でさえもこの状況を上手く説明する事が出来ないみたいだ。

「分からないな……」

 凛花はさらに続ける。

「もうこうなると絵梨佳が記憶喪失にでもなってないと辻褄が合わないような事をその人は言ってるよ。けどそんな事はあり得ないし」

 それは私もあり得ないと分かる。

「ありがとう凛花。流石に凛花でも分からないよね」

「すまない……けど、このままその隣人からの接触が続く様なら、警察に一度行った方が良いと思う」

「え、いやいや、そこまでの事では無いよ」

それを聞いた凛花は身を乗り出して来た。その目は真剣そのものだった。

「絵梨佳の事を心配して言っているの。何かあってからでは遅い。いい?少しでも危険を感じたら警察に行くこと。私もこまめに絵梨佳の家に行く様にするから」

「ありがとう」

その後、私たちは終電近くまで飲んでいた。凛花と話す事で安心したかったのと、何よりも帰宅時間を遅らせたかったのだ。

その後、最寄り駅に着いた私はしきりに心配する凛花に今日の感謝を伝えつつ、電車を降りた。

私は家までの短い道のりを歩きながら、ジャズ喫茶での凛花との会話を思い返していた。

凛花から言われた“ストーカー”という可能性については一理あるとは思いつつも、やはり直ぐには受け入れがたいというのが正直な気持ちだった。

 あの人がかもし出す雰囲気が私の中のストーカー像とあまりにもズレているというのもある。

 自分の欲望、自分の都合だけで頭の中が一杯になっているストーカーのイメージとは違い、あの人は私の身を案じているというのがとても伝わって来た。だからあの人がストーカーだという可能性を私は受け入れられないのかもしれない。

 ああ、この事をもう少し詳しく凛花に伝えれば良かった。凛花の様な気を許す相手にさえ思っている事を上手く伝える事が出来ない私の口下手さがイヤになる。

 これじゃあ私から相談しておいて、その答えをグチグチとあとから否定しているだけではないか。

 その時、頭に冷たい物が落ちたのを感じた。なんだと思い上を見ると続けてポツ、ポツと水滴が空から降って来る。

「え? 今日雨だっけ?」

 天気予報では雨の予報では無かったはずだ。え~、今日は傘を持ってきていないのに。

 私が今歩いている所から家までは5分とかからない距離だった。もうこれは走るしかない。

 アスファルトが雨に濡れる匂いに満たされた夜の道を、私は家に向かって走りだした。



 マンションのエントランスに着いた時には、外はバケツをひっくり返した様な豪雨に見舞われていた。もう少し帰宅が遅れていたら全身ずぶ濡れになっている所だった。

 私はそのままエントランスを抜け、エレベーターに向かう。自分の部屋に入るまでにあの隣人に鉢合わせてしまう可能性が頭から離れない。

 明確な悪意を向けられている訳では無さそうな事はあの隣人の言動を見ていれば分かる。しかし、私はあの人の事を覚えていないのだ。——ん? 違う、知らないのだ。何を考えているんだ私は。あの人の事は知らないのだから、覚えていないという言葉が浮かんでくるのはおかしい。どうやらかなり疲れているみたいだ。

 エレベーターに乗り込んだ私は自分の部屋がある階数のボタンを押す。扉が閉まり、エレベーターが上昇して行く。どうか、どうか私の部屋に着くまでにあの隣人に遭いませんように——。

 私の部屋がある階でエレベーターが止まった。その時の私の脳内は、扉が開いたらあの隣人がそこに立っているイメージで埋め尽くされていた。そのイメージ中の隣人は右手に包丁を持って立っている。こちらを虚無の表情で見つめながら。

 どうしてだ?なんでこんなイメージが頭に浮かぶ?あの人は行動こそ常軌を逸しているものの、善人である事を感じさせる雰囲気があった。いくら何でもそんな極端な行動はとらないのではないか。

 そこまで思った時、私の脳内に凛花が言った言葉がよみがえる。

『私がね、絵梨佳からの話を聞いた時に真っ先に浮かんだのは、倒錯とうさくなんじゃ無いかという事』

 そうだ。もしも、もしもだ。その隣人が本当にストーカーであったとしたら、最悪の場合殺される可能性もあるのではないか。

 エレベーターの扉が開いて行く。その扉の向こうにあの隣人がいるかもしれない可能性を残しながら。



 結局、エレベーターの前にはその隣人はいなかった。眼の前には真っすぐに伸びる廊下だけがあった。そうだ、何を私はここまで極端な事を考えているのだ。あの人が包丁を持って立っている訳がないじゃないか。あまりにも考えが飛躍し過ぎている——。

 無事帰宅した私は、疲れてなまりの様に重い体を引きずりながらもなんとか寝るまでの準備を済ませ、今は寝室でぼんやりとしている。

 本当に今日は疲れた。今すぐにでもベッドに横になりたい程疲れているのだが、気持ちが高ぶっているせいか中々眠くならない。このままいても眠れそうにない。

 そこで私は小説を読もうと思い立った。最近はずっと忙しくて全然読めていなかったが、小説を読むことは私の数少ない趣味の一つだ。読んでいるうちに眠くなってくるかもしれない。そう期待して寝室の本棚の前に立つ。

 ズラッと並んだ背表紙の中から何を読もうかと物色していると、その中から一つのタイトルに目が留まった。

 『勿忘草わすれなぐさ』というタイトルのその本は、私のお気に入りだ。この本は、当時とても仲良くしていた人に勧められて読み始めた。何度も読み返している本なのだが……誰に勧められたんだっけ?

 いや、もうこれ以上無暗に頭を使うのはやめよう。オーバーヒートしてしまいそうだ。

 本を手に取り、ベッドに腰かける。ベッドが軋む音がいつもより大きい気がした。

 読もうとして本を開いたその時、一枚の小さな紙が本から滑り落ちた。

 その紙は私の太ももをかすめ、寝室の絨毯に静かに落ちて行く。

 最初はしおりが落ちたのだと思った。しかし、それにしてはサイズが大きすぎるし、何より私は他の物をしおり替わりに挟める事はしない。

 その紙はどうやら写真の様だ。裏側になっていて何が映っているのかは見えない。裏に何か文字が書いてあるようだが少し遠くに落ちたから、私が座っている位置からは書いてある内容がよく見えない。

 しかし、現像する程の写真なんていつとったのだろう。私は特別写真にこだわっている訳でもないし、そもそも写真は趣味では無い。普段はスマホでとって、そのデータをクラウドストレージに上げるだけで終わっている。その私が写真を現像する事なんてあっただろうか?

 私はベッドから立ち上がり、その写真の元に歩いた。屈んで写真を手に取る。

 写真の裏には『七海先輩と』と私の文字で書いてあった。

 

 ——七海。


 どこか懐かしさを感じる名前。しかし、なぜ懐かしさを感じているのかは分からない。

 私はそのまま写真を表面にひっくり返した。その時に感じた衝撃は恐らく死ぬまで忘れないだろう。

 

 そこに映っていたのは私とあの隣人だったのだ。


 私はしばらくそのまま固まっていた。この状況に頭が追い付かない。一日に二度もこんな思いをするなんて……。

「なんで私があの人と映っているの……?」

 写真の中の私は今とだいぶ雰囲気が違う。今の私は黒髪のロングヘアーだが、この写真の私は茶色のショートヘアーだ。しかも服装はかなりお洒落なオフィスカジュアル。今の私は会社指定の制服で出勤している。

 しかもこの屈託くったくのない笑顔は何?不安や悩みなど一切ない様な、心の底から笑っている様な笑顔。私はこんな顔をするのか?

 一緒に映っているあの隣人も同じ様な笑顔を浮かべている。本当に楽しそうに。

 あの隣人は七海という名前なのか。いや、しかし私はあの人の事を覚えていない。

 この写真は一体いつの写真なんだ。表面には何も書いていない。写真を裏返すと、右下の隅に小さい字で、この写真が撮られたであろう日付と年が書いてあった。


〈2079/03/15〉


今は2083年だから……4年前!?

4年前の私は何をしていたっけ……。あれ……思い出せない。

通っていた大学は? 高校は? 中学校は? 小学校は? ……友達は? 好きな人は? 真っ白な画用紙のように、私の過去には何も無かった。いや、思い出せなかった。私は初めて自分が過去の記憶を無くしている事実を認識した。なんで、なんで今までこの事に気づかなかったのだろう。

右目から涙が頬を伝うのを感じた。もっと声をあげて泣くのかと思ったけど、本当にショックを受けたときに人は声も出ないのかもしれない。

 何も考えられない。私はふらふらとベッドに戻り、そのまま布団に入った。



 結局ほとんど眠る事が出来なかった。朝からけたたましく“起きろ”と急かして来るスマホの画面をタッチして、黙らせる。

「はぁ、そんなに騒がなくても私はそもそも寝てないから」

スマホのロック画面を見ると「母、来る(10時~)」とウィジェットに配置したカレンダーアプリに書いてある。ああ、今日は母が様子を見に来ると言っていたんだっけ。

 今の会社で働く前の記憶が無いと分かった今、母でさえ本当の母なのか不安になって来る。今の母は実は生みの親ではなく、新たな記憶として刷り込まれた別の何かなのではないか。その可能性は本当に無いと言い切れるのか。なんだか身の回りの全てが虚構では無いのかとすら思えて来る。

 私は時間までに朝の身支度から朝食までを済ませ、惰性だせいで見たくもないテレビを眺めていた。テレビから流れて来る笑い声が虚しく響く。

 スマホで時間を確認すると9時50分だった。もうすぐ母が来る。立ち上がらないといけないと分かっているけど、体が鉛の様に重い。

 少しすると、部屋の外から何やら話し声が聞こえて来た。二人の女性が話している様だ。とても楽しそうに話している。

 しかし、直ぐにその声に聞き覚えがある事に気づいた。一人は母の声だ。そしてもう一人は——あの隣人!?

 なんで私の母と隣人が楽しそうに話しているの? 二人に関係性があったとは思えないんだけど……。

 私は重い体を引きずりながら玄関まで行き、戸を開けた。するとそこには楽しそうに話す二人の姿があった。

 まるで昔からの知り合いの様な雰囲気。私の知らない関係性。いや、私の記憶にないだけかもしれないけど。

 玄関先にたたずむ私に最初に気づいたのは母だった。「ああ、絵梨佳。来たよ」母はこちらに手をひらひらと振りながら言う。母は私の記憶の事を知っているのか? 知っていて私に伝えていない?疑心暗鬼ぎしんあんきになってくる。

 一方で隣人もこちらに気づいたようだ。気まずそうに私の方をちらりと見て来る。その顔はやはりあの写真の中の人物と同じだった。

 この人が「七海先輩」なのか。過去の私とはいったいどういう関係なんだ。

「絵梨佳、お隣さん七海さんだったのね。驚いたわ」

 やっぱり母は知っていたのか。母は他にも私に隠している事があるのではないか。なんで言ってくれないのだろう。

 私は憤りを感じ、母に詰め寄る。

「お母さんはこの人の事を知っているの?」

 母は一瞬驚いた表情をみせた後、直ぐに何かを納得したように小さく頷いた。

「そう、この人が七海さん。三星みつほし七海ななみさん。あなたの前の職場の先輩」

 母はどこか物悲しい表情をしながら続ける。

「絵梨佳はね、前の職場で働いていた頃はいつも七海さんの話を家に帰って来てからしていたわ。本当に楽しそうに。とても仲が良かったのよ。あたなと七海さんは」

 仲が良かった……。あの写真を見る前ならこんな事を言われてもとても受け入れられなかったと思うけど、写真の中の私の表情を見れば今私が母に言われた事は事実だったのかもしれないと分かる。だが、記憶が無い事実は変わらない。

 私はその「七海さん」の方を見た。彼女は驚きの表情を浮かべていたが、同時に何かを悟った様子だった。

 「七海さん、もう少し近くに来てもらえる?」

 母はそう言い、少し離れた所にいた七海さんを私の隣に呼んだ。

「七海さん、絵梨佳があなたの事を全然覚えていなくてびっくりしたでしょう。ごめんなさいね」

 七海さんはなんといって良いかわからないといった様子で「い、いえそんなことは」と言った。

 母は私の方に向き直った。

「絵梨佳も、七海さんの事が分からなくてびっくりしたでしょう。あと、あなたの記憶が無い事は思い出したかしら」

 私は頷く。やはり母は知っていた。

「ねえ、これはどういう事なの?なんで私の記憶が無いの?この七海さんとはとても仲が良かったのならなんでその記憶も消えているの?ねえ一体どういう事!?」

 母は私の事を見て少し悲しげに微笑んだ。そして母は私が聞いた事が無い程に優しい口調で語りだした。

「絵梨佳、あなたの記憶が無いのはね……お父さんを亡くしたショックからよ」


……お父さん。お父さん。お父さん。お父さんを亡くした……。


 その時だった。私の脳内にあの時の、思い出したくもない光景が一気に広がって行った。



 それは4年前の会社帰りだった。春を目前に控えたまだ肌寒い季節。私は誰かと食事をした後に、駅に向かう為に一人繁華街はんかがいを歩いていた。

 その日は金曜日だったのだろうか、夜遅い時間だったはずだが仕事帰りのサラリーマンやOLの多くが頬を赤らめながら歩いていた。楽しそうに。

 私は前方に見慣れた背中を見つけた。それは父だった。こんな時間に歩いているのは珍しいと思いながらも父の元に駆け寄ろうとした。

 その時前方から歩いて来た一人のサラリーマンがいた。なぜかそのサラリーマンは右手をコートの左側の裾に隠す様にして歩いていた。

 私はその不自然な歩き方に一度目を留めた、しかし、直ぐに目を外し、父の元に駆け寄った。

 もう少しで父の肩に手が触れそうになった時、父がいきなり目の前で崩れ落ちた。

 最初、父は転んだのだと思った。昔からおっちょこちょいな所がある人で、良くつまづいたりしていたからだ。だから私は「もーお父さん何やってるのー」といつもの様に声を掛けようとした。そうしたら父は少し恥ずかしそうな笑みをいつもの様に私に向けてくれるはずだったから。

 地面がどんどんと赤く染まっていくのを見たとき、もう父は私に笑みを向けてはくれない事を悟った。

 その後、父を刺したサラリーマンの男は地面に倒れ込む父を無理やり立たせ、近くの電柱の元まで強引に引っ張っていった。そして、その電柱に父を乱暴にもたせかけると、そのまま何度も、何度も父を持っていた包丁で刺した。

 私はただそこで見ている事しかできなかった。

 その後、犯人はその場で逮捕され、父は死んだ。新聞やニュース等の報道では犯人の動機は「誰でもよいから殺したかった」というあまりにも理不尽なものだった。

 

 

 父を殺された事実。その現場を目の前で見ていた事実を思い出した私は、母と七海さんがいるマンションの廊下で呆然ぼうぜんと立ち尽くしていた。

 そうか、私はあの時から記憶を無くしていたのか。その事を理解するのと同時に、私は以前にも今と同じ様な事を繰り返している事に気づく。

「お母さん、私、もしかしてこの記憶を思い出すの今日が初めてでは無い?」

母はうなずいた。辛そうに。

「その通りよ、絵梨佳。あなたは通院日の度にこの記憶を思い出す。そして少し経つとまた忘れてしまうの。お父さんの記憶と、あなた自身が記憶を無くしている事を」

 なんで……なんで……そしたらまた同じ事を繰り返すの……?

 全身がガタガタと震えだす。足に力が入らなくなり、私はその場にへたり込んだ。

 その時、七海さんが私の肩を抱いた。本当に優しく、包み込むように。その時、私の中にとても暖かい安心感が沸き上がって来た。この安心感には覚えがある……ああ、最近毎朝見るあの夢だ。夢の中のあの顔の見えない人と話している時に感じる安心感と全く一緒だ。


 ——あの人は七海さんだったのか。


 私は優しく肩を抱いてくれている七海さんの方を見た。七海さんは泣いていた。

「ちょっと、なんで泣いているんですか」

七海さんは静かに泣きながら顔を私に向けた。涙が眼鏡にもついている。私はその七海さんを美しいと思った。

「いや……絵梨佳に起きた事の詳細は分からないけど……あなたの顔を見たら物凄く辛い体験をしたんじゃないかと思って……つい」

 七海さんは泣きながら続ける

「どんな事があったのかなんて聞かない。聞かないけど……無理しなくていいんだよ。……いや、ごめんね、誰か分からない人にこんな事言われても困るよね」

 そういって七海さんはズボンのポケットから出したハンカチで涙をぬぐった。

 私は思う。最初、この人から声を掛けられた時には完全に知らない人だった。でも、今は違う。記憶は完全には戻っていないけど、この人は「七海さん」だ。

 私は来ていたパーカーのポケットから昨日本から見つけた写真を取り出して七海さんに見せる。

「これ……覚えていますか」

 鼻をすすりながらハンカチで涙をぬぐっていた七海さんは、眼鏡をかけて写真を見た。

「こ、これ……懐かしい……」

 七海さんは写真を手に持った。大事そうに。

「ここ、良く絵梨佳と一緒に行ったお店なんだ。会社帰りとか休日にね」

 まだ思い出せない。けど、写真の中の私たちの表情がこの時間がとても充実した素晴らしいものだったいう事を物語っていた。

「この写真については……何か思い出した?」

「いえ、まだほとんど思い出してはいないんです。だからなんというか、写真の中に映っているのは私だという事は分かるんですけど……。どこか他人みたいで」

 私は一呼吸おいて続ける。

「けど、その写真の中の私の笑顔を見たら思い出せなくても、本当に良い時間を過ごしていたんだなっていう事は分かります」

 また泣きそうになって来た。そのまま泣いちゃえば良いのに私はそのこみ上げて来るものを堪える。


「だって私、見た事が無い程良い笑顔で笑っているんですもん」


 頬を涙がつたう。ああ、結局我慢できなかった。けど、この涙は昨日やさっき流した涙とは違うものだという事は分かる。この涙は流しても良いんだ。

 七海さんは泣きながら微笑んでいた。そして「嬉しいな」とつぶやいた。

「あと、この写真『勿忘草わすれなぐさ』って本の中から見つけたんです。誰かに勧められて読み始めた本だという事は何となく覚えていたんですけど、その時は誰に勧められたのかは分からなかったんです」

「もしかして勧めてくれたのって七海さんですか?」

 七海さんはすぐにうなずいた。

「そう、私が勧めたの。私が『勿忘草』すごく好きでね。多分これ絵梨佳も好きだろうなって思って。そしたら絵梨佳は凄くハマってね。当時私と絵梨佳が勤めてた会社の昼休みに勧めたんだけど、もう次の日には『読み終わりましたよ!』って言って来て驚いたな」

 ——そうだったのか。私は本を読むのが結構遅いから、過去の私が一晩で一冊読み切ったという事に驚く。

「その後、お互いの感想を話し合ったの本当に楽しかったな……」

「あの、七海さん。その当時勤めていた会社ってもしかして——」

 そして私は最近毎晩のように見る夢について七海さんに話した。気が付くとお洒落なオフィスで働いている事。顔の見えない女性が毎回資料を渡して来る事。

 それを聞いた七海さんは驚いた顔をして言う。

「そう、聞いた感じそのオフィスは前絵梨佳が私と働いていた会社だと思う。内装の感じもほとんど一致してる。IT系の企業だからね。結構お洒落な雰囲気だったよ。あと、その女性は多分私——かな? 着ている服装も一致してるし、その場面も覚えてるから」

「やっぱりそうだったんですね……でも、資料を部下に渡すなんてよくある事じゃないですか?」

 それを聞いた七海さんは少し考えてからいう。

「いや、そうなんだけどね、その時は資料を受け取る直前に絵梨佳がいきなり倒れたんだよ。びっくりしたけど貧血だったみたいで、だからその時の事は覚えてる」

 七海さんは続ける。

「けど、その夢って毎晩見るの?」

「はい、見ない日も稀にありますけどほとんど毎晩ですね」

 気遣わしげな様子で七海さんは聞いて来る。

「その、記憶が無いとその夢って怖くないの? 大丈夫?」

「いえ、むしろ安心感があるというか、夢の中の人は誰か分からなかったけど、その人に呼び止められた時は何か凄く安心感があるんですよね」

 その人はいつも夢の中でしか会えなかったけど、今は違うと分かる。その人は今私の隣にいる。

 私は心の中で小さな決心を固めた。七海さんに向き直り、目を真っ直ぐに見てその決心を伝える。

「だからですね、七海さん」

 七海さんは姿勢を正し、真っすぐ私をみて「はい」と返事をした。

「私はこのマンションであなたに初めて会った時、正直とても怖かった。私にとっては知らない人がいきなり話しかけて来た状況だったから」

 それを聞いた七海さんはとても申し訳なさそうな顔をした後、深々と頭を下げた。

「それについては本当に申し訳ないと思ってる。本当にごめんなさい」

「いいえ、もう大丈夫です。私こそあんな言い方してごめんなさい。多分……まだ思い出せないけど、私も七海さんに事実を話すべきだったんだと思う。少なくとも、以前の私はあなたの前からいきなり居なくなるべきではなかった」

 今度はちゃんと伝えなきゃと思う。

「私はまだ、記憶がすべて戻ってはいません。七海さんとの関係性、七海さんとの思い出だって殆どが抜け落ちてる。その写真についてだってまだ思い出せない。あの『勿忘草』をあなたに教えてもらった時の気持ちも、『勿忘草』を初めて読んだ時の感動も全然思い出せない。父が死んだという事すら私は忘れてしまう。だからもしあなたとの記憶が戻ったとしても覚えていられないかもしれない」

 私は息を吸う。新鮮な空気が肺を満たして行く。

「けど、その写真の私の表情が物語っているあなたとの過去の時間。あなたと話して感じる安心感。私達はもう以前の関係性には戻れないかもしれない。けど、新しい形での関係は今からでも築く事は出来る。だから……もう一度私と友達になってくれませんか」

 七海さんはその大きな目を眼鏡越しにさらに大きく見開く。その目から涙がまたこぼれていた。そしてほんの少しの寂しさを含んだ笑顔で「もちろんだよ」と言った。

 曇り空の隙間から太陽が差し込んで来た。その光は廊下の窓から差し込み。私たちを照らした。

 少し離れた所にいた母が通院の時間が近づいている事を伝えて来た。私はそれに応える。

 今は私が記憶喪失になった原因。それと目の前にいる七海さんの事を覚えている。けど、明日になればそのどちらも忘れてしまうかもしれないという恐怖心と不安感を覚える。でもその気持ちと同時に、七海さんがいれば大丈夫じゃないかという安心感も感じていた。

 もう行かなければいけない。私は七海さんにもう病院に行かなければいけない事を伝え、その場で別れた。七海さんは用事があるらしく、エレベーターに向かって歩き出した。

 私はその後ろ姿を見て決心する。


 私はあなたの事を忘れない。

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私の隣の勿忘草 彩羅木蒼 @sairagi

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