甘えて甘えたい甘えたい甘えて

「……………」

「どう? 気持ち良い?」


 背後から聞こえる声に頷く……それしか出来ない。

 結局、浴室に突撃してきた彼女を追い返すことも出来ず、俺は由愛さんが望んだように背中を流してもらっている。


「緊張してる?」

「そりゃするだろ……」

「あははっ、ごめんねぇ先輩♪」


 こ、この妹め……この状況を心から楽しんでやがる!

 男心としてはこういう時、絶対に振り向きたくなると俺は思っていた……だって後ろに女体があるんだぞ!?

 でも……実際にその場を経験するとそんな気分にならないことを思い知った。


「……ねえ先輩」

「うん?」

「……ありがとう。本当にそう思ってるから」

「……あぁ」


 肩に置かれた彼女の手に、俺はそっと自身の手を重ねた。

 これは意図したものではなく自然に取った行動ではあったものの、今の彼女にしてあげられることとしてはこれが最善だと思う。


「……なあ由愛さん」

「なに?」


 こんな雰囲気だからこそ、俺は更にこう言葉を続けることが出来た。


「俺のこと……お兄ちゃんって呼んでくれないか?」

「……え?」


 ……あ、もしかして外しちゃった?

 いやいや俺もちょっと言った後に脈路なさすぎじゃねとは思ったけど……でもいきなりお兄ちゃんって呼んでは気持ち悪かったかな……?


(後ろが見れない……由愛さんはどんな顔をしてるんだろう……)


 そんな心配を抱きながら彼女からの言葉を待つ。

 まるで死刑宣告を待つような気分だが……彼女から齎された言葉は俺に緊張を解すと共に、逆にもっと照れさせてくれる言葉だったんだ。


「……お兄ちゃん」

「っ……」


 耳元でお兄ちゃんと囁かれ、俺はゾクッとした感覚に襲われた。

 それに……気のせいかまたカチッと鎖のようなものに繋がれてしまったようなあの時の感覚を思い出す。


「お兄ちゃん……時々口にしちゃうことがあったよね。でもいきなりはどうかなって思ってお兄ちゃんの前じゃ呼べなかったの」

「そうなんだ……」

「これから遠慮なく呼んでも良い?」

「……もちろんだ」

「ありがと♪」


 むにゅっと、背中に柔らかな感触が触れた。

 簡単なことだ――由愛さんが俺の体に思いっきり抱き着き、その体を強く押し付けているのである。


「ねえお兄ちゃん」

「は、はい……」


 あれ……なんで敬語?

 彼女の問いかけに口から出た言葉は敬語だった……背中に張り付いたまま、由愛さんは更にこう言葉を続ける。


「なら私のことも由愛って呼び捨てで良いよ。いつまでも妹に対してさん付けはちょっと違うんじゃない?」

「そうなの……?」

「うん。ほら、由愛って呼んでみて」


 一瞬、年上の女性から言われたような錯覚を感じた。

 体を離した由愛さんは俺の隣に移動し、そこから顔を覗き込むようにして俺の言葉を待つ……さっきの促し方に異様なまでの包容力を抱きながら俺は彼女の名前を口にするのだった。


「……由愛」

「うん。良く出来ました♪」


 なんだこれ……なんなんだこれは!

 恥ずかしさに頬が熱くなるのはもちろんなのだが、それ以上に由愛さんに対して抱いたのが何でも受け入れてくれそうな包容力だった。

 彼女は年下……年下のはず! だというのにこの感覚は一体……っ!?


「お、俺そろそろ上がるよ! ありがとう由愛! それじゃ!」

「あ……」


 情けないと言われても仕方ない。

 俺は逃げるように浴室から脱出し、速攻で体を拭いてからパジャマに着替えて自室へと緊急避難した。





「……由愛……由愛……あはっ♪」


▽▼


 風呂から出た後、そして夕飯の時はずっとボーッとしていたようなものだ。

 どうやら由愛さん……由愛が風呂場に突撃してきたことは幸いにも他の人には気付かれておらず、誰もそのことを指摘はしなかったし由愛本人もそのことを会話に出すことはなかった。


「……あ~マズイ……顔が熱すぎる」


 夕飯も終えて歯も磨いた後、一足早く押し入れから引っ張り出した扇風機から送られる風を全身に浴びている。

 あんなことがあったんだ……気にするなというのが難しい話だし、気を抜けば由愛さんとのことを思い出してしまう。


「……がああああああああっ!!」


 頭を抱え、羞恥に体が震えて止まらなくなる。

 恥ずかしい……何度も思う感情としてはこれが一番だ――けど、その次に浮かぶ感情は恥ずかしさよりも得体の知れない謎の感覚だ。


「……何だろうなあの感覚」


 あの感覚……年下のあの子に身を委ねても良いんじゃないかと一瞬でさえ考えてしまった謎の感覚だ。

 それを考えると逆に恥ずかしさが遠のいてしまうので悪くはないのだが、得体が知れないだけにちょっと気持ち悪い。


「……ふむ」


 顎に手を当て、ベッドを背に考え事をしていたその時だ。

 コンコンとノックがされ、外から聞こえてきた声は由愛……俺はドキッとするよりも体が強張り何故か正座をしてしまう。


「入っても良い?」

「……良いよ」


 俺……何してるんだろうか。

 入室の許可をしたことで由愛が入ってきたが、正座状態の俺を見て目を丸くしたままそっと傍に座った。


「……なんで正座?」

「……なんとなく?」

「……そうなんだ」


 それから俺と由愛はしばらく何も言葉を発さずに見つめ合ったままだ。

 そんな状態がしばらく続き、由愛がクスッと笑った。


「あははっ、お兄ちゃんって面白いね!」

「面白い……そうか」

「うん面白いよ……それに凄く優しいお兄ちゃん……凄く良いお兄ちゃん!」

「……………」


 あ、あ、あ……今までお兄ちゃんって呼ばれたことなかったからそんなに連呼されると何かが目覚めそうになるから止めてほしい。

 でも不思議なことに今の由愛からは愛らしい年下の雰囲気しか感じられない。

 さっきの感覚が何だったんだと思えてしまうほどに、風呂での由愛と今の彼女の姿が重ならない。


「お風呂のことはごめんね? とにかく感謝とお礼を伝えたくて、それなら分かりやすく背中を流してあげればなって……えへへ、急すぎたね」

「そう……だな。でも誤解がないように言うなら迷惑とかじゃなかった……恥ずかしかったけどそれだけは言っておくから」

「うん♪ でもねお兄ちゃん? 今日みたいに迎えは嬉しいんだけど頻繁にしなくても良いからね? きっと疲れちゃうから」


 そう言って由愛は手を振って部屋を出て行った。

 嵐が過ぎ去ったかのような静けさが訪れ、一先ずは兄妹として一歩どころか三歩くらいは近付けたことに笑みを浮かべる。


「……うん?」


 ふと、スマホがメッセージを受け取っていることに気付いて手に取る。

 時風を含めた友人たちが参加しているグループチャットには俺のことが書かれており、涼香さんたちとどんな風に過ごしてるんだと揶揄いの意味を込めた絵文字と共に質問が来ていた。


「……こいつらめ」


 何もねえよと一言書いてスマホを置く。


「……はぁ」


 今日一日色んなことがあったなぁと思い返していると段々と眠くなり、俺はベッドに横になった。

 電気を消して寝ようかと目を閉じようとしたその時――またドアがノックされた。


「由愛……?」


 まだ何か用があったのか?

 上体を起こしてどうぞと声掛けをすると、由愛ではない声が外から聞こえ俺はえっと驚く。


「入りますね」

「……涼香さん?」


 入ってきたのは由愛ではなく涼香さんだった。

 まあ眠くなっただけで寝るには早いかなという時間ではあるものの、俺は部屋に入ってきた彼女が手に持つそれが気になった。


「……どうしたの? なんで枕を……?」


 そう、彼女が持っているのは枕だ。

 ウサギのミニキャラが可愛くプリントされたそれを手に、涼香さんはほんの少し頬を染めながら口を開く。


「一緒に……寝てほしいんです」

「……わっつ?」


 ……君は何を言っているんだい?

 一緒に寝てほしい……枕を手に部屋に来た時点で目的はそれ以外にないだろうけど素直に頷くわけにもいかない……そのはずだった。


「ダメ……ですか?」

「……いや」


 断ろうとした瞬間、脳裏を過ったのはもっと甘えて良いですかと俺に問いかけてきた彼女の姿だ。

 それを思い出してしまったせいなのか、俺は断るという選択肢を即座に捨てた。

 ……俺は彼女に甘えてほしいと思っているのだろうか?

 そう問いかけてしまうほどに……それこそ由愛さんに一瞬でも抱いた甘えてしまいたいという感情とは全く別のそれを俺は抱いたのだ。

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