第16話 瓜助、牛鬼と対峙する
「お春!」
勢いに任せて引き戸を開ける。土間の母親が驚いた顔をした。家にいるのは女ひとりだけだ。
「お春は!」
「や、山へ、わさびを採りに……」
今の季節はいいわさびが採れる。お春はそう言っていた。家の中にも戸口にも牛鬼避けの札紙はない。
おれは踵を返して山道を駆け上がる。茂みを掻き分け、少女の名を叫んだ。お春、お春。しかし返ってくる声はない。渓流に少女の姿はなかった。わさびは水の綺麗な所に生える。だったらそう遠くはないはず。おれはもう一度声を張り上げた。
「お春!」
みしり、と木の折れる音が水音に混じる。下流からだ。川も木も岩も無視して山中を突っ切った。茂みがなくなり開けた場所にでる。目と鼻の先は崖になっており、流れてきた水がとめどなく吐き出されている。麓で水音だけ聞こえた滝だ。
そこにお春がいた。腰を抜かしてへたり込んでいる。
名前を呼びかけて強烈な獣臭さが鼻を衝く。野犬でもいるのか。そう思ったが違った。
のっそりと、そいつは木々の暗がりからでてきた。大岩に手足が生えたみたいな図体だった。
……な、なんだ、こいつ。
鼻先を地面に着けて臭いを嗅いでいる。顔は布が被せられていて見えない。頭には曲がった大角があった。踏みだすと背中から垂れた襤褸切れが揺れる。おれにはそれが蜘蛛の脚に見えた。
——牛鬼だ。その名前が頭をよぎる。
こいつがそうなのか。だとしても奇山先生から聞いて想像していた姿と随分と違っている。脚は四本だし、頭も牛ではない。それにこの臭いは。
巨体が後ろ脚で立ちあがった。全身に黒い毛が生えている。その姿には見覚えがあった。昔、里に近い山にも出没したことがある。
こいつは牛鬼なんかじゃない。臭いに覚えがあった。あれは黒い大熊だ。
腹を空かせているのか、熊は鼻先をお春に向けた。頭の布に描かれた目が獲物を捉える。口から涎が垂れていた。お春は手にした牛鬼避けをぐっと握る。
しかし巨体は一歩、また一歩と巨体が少女に迫る。
……く、食われる……
助かるはずない。
ぞくっ、と怖気立った。自分でも不思議なぐらい怖くなった。
前にも味わった。でも、なぜだかわからない。熊はまだおれに気づいていなかった。音をたてないように後退りして、それで追ってくるようなら。
麓の家が頭をよぎる。いるのは脚の悪い母親だけだ。
また、怖くなった。
訳はやっぱりわからない。とにかく怖くて仕方なかった。膝が震えている。
早く逃げないと。だけど足が動かない。震えとは別に、足裏が地面にへばり付いて離れない。
ざあざあと落ちる滝が濁流に見えた。
流れていく青葉が甲羅を浮かべた河童に見えた。
縮こまった少女が大木の上で震える小僧河童に見えた。
あのときと同じだった。おれは逃げも抗いもできず、ただ大木にしがみついていた。少女は札紙に縋り付く。しかし大木が濁流に呑まれたように、熊は歩みを止めない。
鉄砲水は怖かった。今もあの異様な熊が怖い。
だが一番怖かったものは、あのときからずっと変わっていなかった。
「——————‼︎」
大熊が吠える。
その巨体と少女の間に、おれは飛び込んだ。無我夢中で巨体に組み付く。ずしっと重みがのしかかってきた。負けないよう両腕を胴に回し、腰を入れて踏ん張る。
「ぐっ……くそ……っ」
踵が土を削って下がる。里にいた頃、仲間と相撲をとって負かされたときもこうだった。番付を競うと必ずおれが最下位になる。
だけど、こいつは図体がでかいだけで素人……隙を突けば……
とはいえ背丈も体重も負けている。
「……に、逃げろ。早くっ」
巨体の胸に顔を押し付けたまま叫ぶ。なにか言おうおうとしたのか、後ろで途切れた息遣いがした。少女が動く気配はない。
「————!」
熊の唸り声が、胴から直に伝わってきた。黒い豪腕を後ろに伸ばす。
おれを無視してお春を襲う気だ。
いかせるか、と全身で巨体を押し返す。だが力では負けていた。押し留めるのがやっとだ。体の動きで熊が腕を彷徨わせているのがわかった。
ざあざあと滝の音がする。あとどのくらい地面があるのか、振り返っている余裕はない。これが相撲勝負だったら土俵際は確実だ。
そのとき、熊が腕を閉じた。甲羅越しにおれを抱え込む。それではっとした。
まさかこいつ……!
熊からすれば真っ当に勝負せずともいいわけだ。
腕が締まる。万力に挟まれたみたいだ。剛毛の胴に押し付けられて、息をするのも苦しい。
だが、抱えあげられようものなら崖下に真っ逆さまだ。おれは身を低くして熊の腕から逃れようとしたが。
この……馬鹿力め……!
取っ組み合っている相手は豪腕巨体の大熊だ。河童も人間より腕っ節は強いが、こんな化け物には敵わない。逃げようとするおれを、熊は腕力で捕らえる。
すぐ後ろに崖があるなら、逆にこいつを落とす手もある。だが想像しただけで足がすくんでしまった。頭を振る。どの道そんなことを考えていたら、こっちがやられる。
また熊が吠えた。両腕で抱え込んだおれを持ち上げようと腰を浮かせた。今だ。全身で巨体の片脚を抱え込み、思いっきり引き上げる。熊も全力だった。ここで力負けしたら終わりだ。
「ぐっ、ぐぅぅっ‼」
脚を浮かせる必要はない。重心さえずらせれば——
ずるり、と音がした。
不安定な二本脚で立ち、そのうえ片脚を半ば浮かされた熊は姿勢を保てなくなった。黒い巨体が、ごどんと仰向けに倒れる。大岩を落としたような地鳴りがした。
急いで熊の腕から抜けだす。肩で息をしながらお春を抱きかかえて起こしてやる。
熊は昏倒しているようだった。いつ目を覚ましてもおかしくない。
ぴくりと顔の布が動いた。おれは思わず身構える。だが熊は起き上がらず、巨体のそばを白いものが走り抜けていった。
見間違いだろうか。おれには白狐が熊の口から這い出てきたように見えた。
「……行くぞ」
腕の中にいるお春に言った。
だがお春はまだ動こうとしない。少女はおれの顔を見上げて固まっていた。正しくはおれの頭を見て。
気づいたのはそのときだった。
いつも被っていた青頭巾がない。
川に青い布が流れていた。川底がなくなり、水と一緒に滝へ落ちていくのが見えた。
おれはなにも言わなかった。少女も無言のままだ。
振り返らずに、おれはひとり山を降りた。
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