第12話 虚無僧の女、玉鏡と名乗る
この村は農作と狩猟で生計を立てていた、と長者が語った。
土は肥沃で作物もよく育つ。広い田畑をもつ農家は豊かだった。
山には兎や猪がたくさんおり、実りの季節には麓へ降りてくる。だから猟師も儲かった。
しかし商人は不遇だ。ものを売ろうにも買おうにも狭い村では直に相手の家へ赴いた方が手っ取り早い。よそと交易しようにも不便な峠道を通りたがる行商人はいなかった。
「——それも街道ができるまでの辛抱だった。おい、早く蔵へ運んでしまえ」
長者が下男を呼びつけた。土間には米俵がごろんと転がっている。
牛鬼除けを求めた農家の人間が、金子の代わりに置いていったのだ。こうして築いた財は裏の土蔵に蓄えられている。
「どこへいく、
長者が呼び止める。虚無僧の女は玉鏡と名乗っていた。
振り向きざまに愛想笑いをつくる。長々とした昔話に飽きがきていても決して顔にはださない。
「いいえ、どこにも。私は常に長者様のおそばにおります」
長者が締まりのない顔をする。この男は完全に籠絡していた。もっとも本人は決して認めないだろうし、むしろ逆だと言い張るに違いない。
「そうしてくれ。札紙はまだ数があったか」
「ええ、たんまりと」
牛鬼除けの札紙は玉鏡がこしらえている。
文言を書き記し、朱印を捺すだけの簡単な仕事だ。下男にさせてもいいが、仏門の徒が書いていると信じるからこそあの札紙は牛鬼除けになる。でなければあんなもの塵芥も同然だ。
「いったい何枚売るつもりです」
「まずはすべての家が戸口に札紙を貼るまでだ。その次は行商人と旅人が狙い目になる。そうなったら都からでもおまえのほしいものを取り寄せてやれるぞ」
「あら、私がいつそのような
「口にださずともよい。わしにはおまえの望みが手に取るようにわかるのだからな」
「ほほほ、ご冗談を」
口元を隠して笑う。
「ところで、長者様はこの村を牛鬼から救いたいとおっしゃいましたが、今もその心に変わりありませんか」
「無論だ」
長者は大きく首肯した。表向きはそうなっている。
「でしたら、あの一件は看過できませんね」
今朝、旅籠屋を訪れた折、村へ放っていた遣いが報せをよこした。
ある熊撃ちが猟師仲間を集め、牛鬼を討ち取るための
同じ屋根の下に数名の男がいた。皆一様に毛皮を被り、肩に鉄砲をさげていた。鉄の罠がいくつもあり、ある若い男などは
長者は不愉快極まるといった顔をした。
「分を弁えん連中だ。牛鬼を退けるのはおまえの札紙しかないというのに。そうは思わんか」
「ええ、まったくです」
人間風情が牛鬼を討とうなど思い上がりも甚だしい。玉鏡は腹の底からあの猟師どもを軽蔑していた。
「しかし、他の者にまで妙な気を起こされては面倒だ」
長者はもの言いたげな目をする。値の張る牛鬼除けを買い求めるより、熊撃ちに頼み込む方が楽だと思われては札紙を買う人間も減ってしまう。
そうなれば牛鬼に食われる人間が増える。これは由々しき事態だ。村思いの長者はそう言いたいのだろう。
「では、私が手を打ちましょう」
「また頼めるか」
長者はじゃらじゃらと手の平にあるものを鳴らす。この屋敷にいるとその音を耳にしない日はなかった。
「はい。すべては人々のために」
受け取った金子を着物の中へ入れる。特に欲したわけではないが、長者はことあるごとに貢いできた。おかげで懐が重い。
「しかし、どうやっておるのだ。犬猫に芸をさせるのとは訳が違う」
「それは訊かない約束ではありませんでしたか」
口元を隠す。
女は悦に入っていた。この男の先を考えると笑わずにはいられない。だからこそ、今はまだ驕らせておかなければならない。
◆
空に昇った月だけが白く輝いている。
玉鏡は屋敷の裏手から山へ入った。
夜の山道をものともせず、村を一望できる場所まで登る。高台に立ち、闇の中で尺八を構えた。虚無僧の吹く縦笛、というのは建前でしかない。
唇を添えて、ひと吹きする。
尺八は竹の節をくり抜き、音孔を開けて縦笛にしたものだ。底の孔は指を一本入れれば窮屈なほど狭い。
だというのに、まるで風が吹きぬけるような動きで尺八から一匹の白狐が現れた。
昼間、旅籠屋まで報せをもってきた狐によく似ているが、顔つきがほんのわずかに違う。
再び息を吹く。ゆっくりとした深く長い音色が闇に流れでた。尺八の音に白狐は耳をぴくりとさせ、尾を翻して山奥へ駆けていく。
尺八を吹く女には、遣いと同じ耳と尾があった。
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