第3話 門出は夜に
「——なるほど。この辺りの村々にいた河童たちは気性の荒い赤河童との闘争に敗れてこの地を追われた、と。源平の戦いみたいなものか。いずれにせよ、ひと口に河童と言っても一枚岩ではないわけだな」
独り言なのか、訊いているのか。そもそも『げんぺい』がなんなのかさえ知らなかった。知っていても答えたかどうか怪しい。
おれは今、そばを
「いい食いっぷりだな。きみ、そば好きだったか」
好きか嫌いかはわからない。腹が減って食えるものならなんでもいいから口に入れたかった。人間の作った料理を口に入れるのは初めてだったが、温かいそばは啜るたびに涙目になった。
両手で丼を持って最後の一滴まで汁を飲み干す。
濡れたまま夜風を浴びたぐらいで風邪をひきはしないが、これは体が芯から温もる。
丼を屋台の卓に置いて、手の甲で口を拭う。隣の男はなにも口にしていないのに代金だけを置いて席を立った。
……ほんとに話を聞きたいだけ、だったのか。
男は口伝えの
そんなもので食っていけるのか心底不思議だったが、村に伝わる河童伝説について聞かせてくれるなら飯を奢ると誘われ、おれはその誘いに乗った。
人間を信ずるべからず。故郷の里にはそんな言葉があった。初めに言い出したのは、人に腕を斬り落とされた河童だったとか。
「ところで、こんな夜更けまで出歩いていていいのか」
数歩先を歩いていた男が振り返る。
腕を斬り落とすための刀は携えていないし、おれに対して訝しむ素振りさえ見せていない。油断を誘うためではなく、単に気が付いていないからか。
この青頭巾の下にある皿に。おれの正体に。
「家はどこだ、送っていくぞ」
足が止まる。おれにも家はあった。
「どうした。早く帰らないと、親兄弟が心配するぞ」
「……いない」
俯いていて男の顔は見ていない。だが畑で会ったときのように多弁になったり、河童伝説を話したときみたく口を挟んだりする気配はない。
「鉄砲水があって、それで」
「ああ、山向こうの」
男は遠くに目をやった。墨をぶちまけたような夜に、かすかに山の影がふたつ見える。確かあの間に川が通っていた。
山向こう、だったのか。
覚えているのは土色をした化け物みたいな水だ。岩も家も、なにもかも押し潰し丸呑みにして、そいつは迫ってきた。
もがきながら濁流に呑まれる河童がいた。
折れた柱に捕まって手を伸ばす河童がいた。
必死になにかを叫ぶ河童がいた。
みんな……、みんな呑まれた。
おれは里のはずれにある大木に登って幹にしがみ付いて震えていた。
濁流は怖かった。だが一番怖かったのは、ぷかっと水面に甲羅を浮かべた河童だった。他の連中と違い、もがきもしなければ叫びもしない。食えなくなって捨てられた魚みたいに里の奥から何匹も流れてくる。
誰かが足首をつかんだ。
いつも相撲でおれを負かしていた同い年の河童が脚にしがみ付いていた。昨日までは勝ち誇った顔をしていたのに、今は地獄の鬼みたいな形相をしている。
おれを引きずり下ろしてでも助かる気だ。すぐに蹴り落とさないと道連れにされる。そう思った。
そのときだ。力なく甲羅を浮かべた仲間が頭をよぎった。
身が縮こまる。なぜだかわからないが、途轍もなく怖くなった。
みしっ、となにかが軋む。耳ではなく幹に押しつけた腹へ直に伝わってくる音だ。逃げる間もなく、立て続けに大木が軋み、太い根を露わにした。
最後に聞いたのは地をえぐる濁流の吠え声だった。泥水が耳の奥に残っているみたいに、今でも——
「おい少年、少年。聞いているか」
はっ、として顔をあげる。いつの間にか男は直近に迫っていて、息がかかるほどにまで顔を近づけてきた。おれは皿を隠している頭巾を引っ張り、二、三歩退く。
「な、なんだよ」
「身寄りがないのなら、私の荷物持ちをしないかと訊いているんだ」
男は斜め掛けにした風呂敷包みを軽く持ち上げてみせる。
おれも人間は何度か見たことがある。ただ、男の恰好は川へ芋を洗いにきていた連中とは明らかに違った。どちらかといえば、そいつらに橋の場所を尋ねていた『旅の者』と名乗った連中に似ている。
「ひとり旅は気楽だが、なにかと不便も多くてな。そろそろ連れがほしかったところなんだ。そば好きなら行った先々でその土地独特のそばを食えるぞ」
分け前はそばで払えばいいか、と男は笑った。
人間に会ったら逃げるか殺すか。里ではそう教わった。
大昔になら川にきゅうりを流す人間もいたらしいが、今の世は農具や刀を携えて妖怪退治にやってくる連中ばかりだ。
ただ、この男はどうかと訊かれたら。
「……あんたのことは、なんて呼べばいい」
河童伝説を語って飯も食わせてもらったのに、名前さえ聞いていなかった。
「
また耳慣れない言葉が増えた。
さっきの
「ところで少年」
再び歩き出したと思ったら男が急に立ち止まった。背中にぶつかったおれに、男はまたしても振り返る。
「今しがた思い出したんだが、私もきみの名を聞いていなかった」
この人間、やっぱり阿呆なのかもしれない。
まあ、それならそれでいい。
「……
もう名乗ることも呼ばれることもないと思っていた名前を告げた。
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