第2話 瓜助、口碑収集家と出会う

 目に入るものすべてが墨で塗りつぶされているみたいだった。日の出前なのか。日暮れ後なのか。それさえわからない。


 とにかく腹が減っていた。


 あの川岸に流れ着くまでにどのくらいあったのか。皆目見当もつかない。

 着物や頭巾の入った箪笥が一緒に転がっていたのを覚えている。今、着ているものはそこから引っ張ってきた。流石に裸同然で人里に出る度胸はないし、どのみち顔と頭は隠さないといけない。


 濡れた着物が足や背中に貼り付いてくるが、歩きにくさより飢えが勝った。金子なんてない。だが、一度着物を盗った身の上、二度目を躊躇う理由はない。


 土の感触が変わった。足裏の土がずるっと滑って前に倒れる。耕された土。畑だ。なんでもいい。なにか食わないと。


 ちょうど夜目がきいてきて、ぶら下がった細長い実が見えた。四つん這いのまま手を伸ばす。ひとつをもぎ取って——


「おい、そこな少年」


 ……っ!


 びくりと身が縮こまる。指はまだ実ったきゅうりに届いていない。


 み、見つかった……


 手を着いて身を低くした姿勢からでも足が見えた。

 男がひとり、そこに立っている。


 土を踏む音がゆっくりと近づいてくる。まずい。見咎められた。人を呼ばれたら、あるいは問い質されて被った青頭巾を取られたら。どうなるかは想像したくもなかった。


 ……こ、殺すしか……


 他に助かる手立てはない。

 ぞくっ、と怖気立った。自分でも不思議なぐらい怖くなった。

 なぜだかわからない。相手はただの人間だ。背丈はおれより高くとも腕っ節で負けはしない。力いっぱい突き飛ばして、まだ息があるようなら。


 身じろぎして手が石にあたった。ちょうど握れそうな大きさの石だ。


 また、怖くなった。


 訳はやっぱりわからない。とにかく怖くて仕方なかった。濡れた着物の下で冷や汗が垂れる。肘や手の指が震えていた。


「ひとつ尋ねたいんだが」


 早くしないと。だけど手が動かない。震えとは別に、どうしても石に手が伸びない。

 男が続きを口にした。


「きみ、この辺りで河童を見なかったか?」

「…………へ?」


 顔をあげて、おれは固まってしまった。


「そんな頓珍漢とんちんかんでも見るような顔をしなくてもいいだろう。私は口碑蒐集家こうひしゅうしゅうかをしていて、今はこの近辺の村々に伝わる河童伝説を調べに西へ東へと駆け回っているのだが——」


 訊いてもないのに、男はぺらぺらと事情を話し出しだした。開いた口が塞がらない、というのはこの男のことをいうのか。


 だが、それ以上に。


 ……この人間、もしかして阿呆なのか。


 河童なら目の前にいるだろう。

 腹を空かせて、きゅうり畑に盗みに入ったのが。

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る