禍の贈り物

洞見多琴果

第1話 生霊と三角関係と悪魔

 智明の帰宅が遅れるようになったのは、一緒に暮らして半年ほどたった頃だった。

 付き合ってから2ヶ月経った頃、砂羽と智明の同棲は始まった。

 丁度その時、智明はうるさい両親との同居に不平不満を随分漏らしていたので、独り暮らしの砂羽が「じゃあ、一緒に住もうよ」

 こうして同棲がスタートした次第だった。


 相思相愛の若い男女が一つ屋根の下で育む生活は、入口は甘い夢でも途中から「家事」というこのうえないリアルな現実に突入する。

 智明は社会人歴10年以上、外の仕事は出来ても家の事が全く出来ない男だった。

 智明は、女と同棲した過去がある。


 けれど、元彼女が家事万能だったので智明は全く手を出さず、彼女と別れた後は実家に戻ったので、身の回りは母親が世話を焼いてくれていたという。

 砂羽も家事が得意ではない。

 実家にいたころは、母親に洗濯掃除に食事、全て任せきりだった。その後「社会勉強だ」と言われて家を追い出された。だからといって、すぐに身に着くものではない。


 可愛い洋服に囲まれたいと就職したアパレル会社は、きつかった。

 家に帰ったらもうくたくたで、それでも肌や髪、爪のお手入れだってかかせない。

 自分磨きは何があっても優先事項だ。

 でも掃除は面倒臭い。食事も外食すればいい。

 だけど智明と一緒に住んでから、砂羽が家事をしなくてはならなくなった。


 一生懸命頑張った。だけど智明に言わせると、実家の母親と比べれば、砂羽の家事は丁寧さが全くないらしい。

 料理は自分が作るより、宅配ピザや外食の方が絶対に美味しいし、手間もかからないと思うのだけれど、智明はそのうち嫌がるようになった。


 味に飽きるし、それにお金もかかると文句を言うので、頑張って料理をしたら不味いという。

 最近は、事あるごとに昔同棲していた彼女の事を引き合いに出して、砂羽に家事の努力をしろと言ってくる。


「服やコスメばっかり買うよりも、料理本の一冊も買えよ」


「元カノだって、百貨店に正社員で勤めていたけど、家の中いつもきれいだったし、家に帰ってからメシもちゃちゃっと作ってくれたよ」


「散らかっているのは、全部お前の服だろ! 俺の服? お前が洗濯しないから、実家に送っておふくろに洗わせているんだよ! しかもどうして脱いだストッキングが台所に落ちてるんだよ!」


 最近、帰りが遅くて一緒にご飯を食べてくれないと泣いたら、智明は苛立った顔を砂羽に向けた。


「実家で洗濯してもらったワイシャツとか取りに行くついでに、メシも食わせてもらっているんだよ。お前の作る味噌汁は味噌汁じゃねえ、大豆汁だ! 出汁の入っていない色つきの湯を俺に飲ませるな!」


 言い捨てる智明を見て、砂羽は直感した。

 ……嘘だ。

 智明の声と表情、それだけではない、何かが砂羽の勘にざらついた。

 ――女と会っている。

 こういう勘は必ず当たった。


 人間離れした能力だと、霊感少女に恐れられていた時代もあったのだ。

 智明と結婚するつもりだった。一緒に住もう、この砂羽の言葉に喜んでくれた智明だったから、砂羽は智明が自分と結婚してくれるものだと思っていた。

 だから、会社だって辞めた。智明のためにいつも可愛くして、彼を支えようと決意をして毎日自分を磨いているのに、どの努力を裏切るなんて酷すぎる。


 でも、泣いてばかりじゃダメだ。

 男と浮気はセットなのだ。例え恋人が世界一の美女でも『恋人以外』という理由で他の女を見るのが男のサガだ。

 だから女の子は、男のサガと女の影とは必ず一度は戦うものなのだ。彼の浮気くらいで潰れるくらいじゃ、幸せはつかめない。


 智明が風呂に入っている間に、砂羽は智明の携帯をこっそり見た。

 パスワードは以前に盗み見して憶えている。

 後ろ暗くなんかない。

 これは心の正当防衛で、智明の浮気に対する当然の戦術だった。

 携帯のラインに見慣れない名前の登録があった。


『テル』

 ラインに登録されたこの名前に、砂羽は確信した。そのやりとりは、浮気の証拠に間違いなかった。


 ――テルと久しぶりに会えて、すごく懐かしかった。今度一緒に飲みにいかないか?

 ――いいよ。


 ――昔、よく2人で飲んだショットバー、リニューアルしたのをテルは知ってる? そこへ行って俺たちの仲もリニューアルしよう。


『俺たちの仲もリニューアル』

 なんて浮ついた言葉は、男同士の再会では絶対に使わない。

 智明が風呂場から出る気配がしたので、見た内容はここまでだった。

 それでも十分だった。智明の有罪は間違いなく確定し、テルという浮気相手への憎悪と嫌悪で砂羽は熱く膨張する。


 戦わなきゃ。

 砂羽は全身全霊を込めて、テルという女ごと世界を呪った。


『テル』とは誰なのか、智明はその後、砂羽に向かってだらだらと垂れ流した。


「掃除する暇がない? 忙しい? 俺より遅く起きて朝飯も作らず、掃除も洗濯もせずに買い物ばっかり忙しいんだよ。毎日毎日、服ばっかり買いやがって、もうここは人の住処じゃなくて、紙袋の置き場所だ! あのな、テルなんかな、朝飯はもちろん、仕事が遅出の日は家出る前に、さっさと床をクイックルで拭いていたんだぜ」


「テルと住んでいた時は、手料理が美味くて外食の必要がなかったよ。料理が上手だけじゃなくて節約も上手くて、ハンバーグやコロッケとか作り置いて冷凍して、ひじきとか切り干し大根の煮つけもあったんだぜ。それに引き換え、今は何だよ。こんなに時間かけて、出来上がったものは生ごみもどきか。しかも俺が実家帰っている間に、お前は外で何喰っているんだよ! 「仏欄亭」だの「ラ・ポール」? 使っている金の桁が違うじゃないか!」


 ――その日はカレーだった。作り方は肉と野菜を切って、カレールーに入れた定番だ。

 智明はカレーを口に入れ、長い間咀嚼してから飲み込んだ後さじを置いた。

 そして真顔で砂羽を見つめた。


「……どうやって作った?」

「どうやってって?」


 砂羽は小首を傾げる。今日は予約したヘアサロンへ行って、髪をトリートメントしてもらって、エアリーな巻き髪にしてもらった。

 甘めのヘアスタイルにしたから、雰囲気を合わせてピンクのカットソーを買った。

 そして、アクセサリーもそれに合わせて買った、耳の下で揺れ動く愛らしいベビーパールのピアス。


 一層甘い可愛さを増した自分を見て、感動して欲しい。そして新しいヘアスタイルとピアスに智明は気が付いてくれるかな、と期待しながら。


「ええとね、お野菜切るでしょ、お肉切って、お湯を沸かしてカレールー入れて、それから切ったお野菜とお肉を入れてぐつぐつ煮込むの」


「……カレールーをまず湯に溶かして、生の具材を入れる?」

「そうよ。だってそうすれば、お野菜とお肉にカレーの味が染み込むじゃない」


 ……沈黙の帳が、質量を伴ってどすんと落ちた。

 智明の口が動いた……オシエテモラエ。


「え? 何を言ったの? トモくん」


 待ち望んでいた「可愛いよ」ではない事に落胆しながら、砂羽は気丈に振舞った。

 その砂羽に向かって、智明は呻いた。


「おれの、元カノに……テルに料理を教えてもらえ」

「……え……? トモくん……」


「出来れば一生食いたくなかった……カレーに沈んでいる、中心が冷たい生煮えのイモに人参の青臭さ、嚙み切れない塊肉のしつこい弾力、溶け切っていないルーがねちゃねちゃ歯について、ド最悪の味だ。毒の味だよ……」


 ショックのあまり、心が暗闇に吸い込まれた。

 付き合った頃、新しい髪形に、ピアスに、砂羽の変化にすぐに気が付いて「可愛いよ」と必ず褒めてくれたのに、今は気が付いてもくれない。

 しかも私の事より、カレーなんだね。


 砂羽は智明に存在そのものを否定されて、氷の中に閉じ込められた気がした。

 全く、こんなクソ不味い飯を食うために俺はここにいるんじゃないとか、男をどう思っているんだとか、家事が出来ない女は最低だとか、智明の声が吹雪のように叩きつけられる。


 智明の冷たさに、砂羽の体は冷え切った。だが、心だけ煮えたぎっている。テル、テル、テル、昔の女のテルってどんな女なの?


「……わかった。じゃあ、トモくん、サワにそのテルって人と会わせて」

「え?」

「トモくんのお願いなら、サワ、そのテルって人にお料理を教えてもらうわ。だからそのテルって女の人のところ、連れて行って」


 心はぐらぐらと煮えている。智明との生活にへばりついている女を、何とかして引き剥がしてしまいたいと砂羽は思う。

 吐き出したい鉛をぐっと堪える砂羽が、反省しているように見えたのか、智明は打って変わった笑顔になった。


「よし、分かった。砂羽をテルのところ連れて行って、一緒に料理のコーチを頼んでやるよ」

「本当? 嬉しい!」


 テルに対する激しい怒りと黒い喜びに、砂羽は震えた。



 創業100年以上の歴史を持つ、業界大手の大久百貨店は、華やかで高級な消費と流行の先端を演出する舞台であり、従業員の大半が女性である園でもある。

 園には欠かせないものがある。

「噂話」「ゴシップ」それらは繰り返される日常に添えられる彩であり、ただの立ち話や雑談を、複雑な味わいにする蠱惑のスパイスだった。


 特に「キケンな恋の噂」は非常に好まれる。災厄でありながら甘く、ありふれたものでありながらも特別な出来事。

 そんな中、ちょっとしたトピックスが立った。

「9階文具雑貨売り場『筆記ラボ』の西城輝美が、元カレとよりを戻し、今カノと三角関係に突入したらしい」と。


 ――西城輝美は、後悔している。


 何であの日あの夜、あのショットバーに行ったのか。

 その店を選んだのは自分ではなく、再会した元カレの上田智明だったが、よく考えたらあの店はこの百貨店の近くにあり、リニューアルのチラシやクーポンが目についたから、職場の知人に2人を見られる可能性だってあったわけだ。


 それに智明は、元々百貨店に出入りしている業者でもあった。それに1年に満たないとはいえ一緒に住んでいた時期もあったから、当時を知る人間なら、智明との経緯を憶えていた可能性だってある。

 バックヤードの壁に手をつき、輝美は呻いた。


「……迂闊だった。せめて駅一駅離れた店にすべきだったわ……」

「ハイその通り、でも遅いです。で、より戻すの?」


「ああああ、きっと……カウンターの話もきっと聞かれていたんだ……智明が今カノの愚痴を始めるまでに店を出ればよかった……最後まで話に付き合わなきゃよかったんだ……」

「後悔はもういい加減にして、質問に答えて下さいよ。で、今のお二人の関係はどこまで?」


 背後からせっつく相手へ輝美は怒鳴った。


「うるさい! つか、アンタの質問に何で私が答えなきゃなのよ! 印布!」


 ねえテルちゃん元カレとより戻したんだって? まさかけっこんするの? 彼には今カノいるんでしょ、戦うの? 略奪愛? なんで別れて何でより戻す気になったのテルさん一体どうしてどうしてと、押し寄せる怒涛の好奇の問いから逃げてきたら、次はコイツか。


 逃げ込んだバックヤードで輝美を待ち伏せていたのが、向かい側の紙雑貨売り場の派遣社員、印布だった。


「アナタの上司、大北店長のご依頼です。いくら聞いてもテルちゃんが元カレのこと教えてくれないって、泣かれてしまいました」

「教える必要はない!」


 思わず怒鳴ってしまった。あの大北香澄アホ店長が輝美のことを詮索するのは、人事上、現在の部下の状況を把握しておきたいという、健全な理由であるはずがない。


「まあ、そうでしょうけど『印布さん、テルちゃんとお友達でしょ、聞き出してちょうだい』だって」

「なんであんたと私が友達なのよ」

「よく一緒に、社員食堂でお昼食べているからじゃないですか?」

「トモダチ……」


 寝ぼけたタヌキのような風情の印布に、輝美は思い切りため息をつく

 ……何が友達だ。

 悪魔とトモダチってあんた……しかしコイツの正体が悪魔だなんて……世知辛い現実の中でも、もっとも世知辛いリアルな場所、職場にそんな架空じみた存在が社員に混じって働いているなど、誰も想像もしない。


 輝美のたった一人の姪が、ある事件で追い詰められて、恐怖のあまりに悪魔の召喚を行い、この印布が魔法陣の中に現れた。

 その現場に居合わせることがなければ、輝美にとって印布は職場の人間の一人として、風景の中に埋没していたはずだ。


「しかし、何だって悪魔がこんな……せめてデイモスとかセバスチャンとか……」

「そんなテル姉ちゃんだって、美奈子でもないしシエルでもないじゃん」

「……読んでるのかアンタ」


 平成の黒執事のみならず、昭和のデイモスまでかと狼狽する輝美をしばし眺め、印布はつまらなそうに、取材道具の手帳とペンをポケットに直した。


「テル姉ちゃんが、元カレと今カノの三角関係と聞いたから、実にネットリぐちゃぐちゃ、極上のフォワグラのごとき爛れきった闇が味わえると思ったんですけどね」

「……」

「どうも期待外れのようです。まるで生煮えの米にぶっかけた、冷えたレトルト牛丼です」


「人の闇を牛丼にするな!」

「ですけど、テル姉ちゃんらしくもない。もうすでに女がいる元カレと、何が目的で逢引きを重ねているんです?」

「逢引きとは何よ。会うのも目的があるのよ」


 輝美は思い切り口を曲げた。

 思えば、智明と付き合っていた頃の自分は、実に未熟だったと輝美は思う。

 あの頃は病に倒れた姉の陽子が退院して、病院の行き来や義兄と姪の家庭生活の手伝いが終わって一息ついた時だった。


 そして姉一家の姿を通して、将来の自分の結婚生活に夢を抱いてしまった。

 ちょうどその頃に現れたのが、当時メーカーの営業で、百貨店に出入りしていた上田智明だった。

 仕事柄、毎日のように職場で顔を合わせて親しくなり、運動会系のオスの空気と容姿に惹かれて、とんとん拍子に結婚前提の同棲まで発展してしまった。


「まったく、オトコを見る目が無いというか、甘やかしすぎたというか、当時の自分を思い出すと、鏡に映った自分を引きずり出して殴りたいわ」

「へえ、浮気と暴力のダメ男に盲従していたとか?」

「……そうじゃないけど、とにかく、ぜんっぜん家事が出来ない男だったのよ」

「ふうむ。それだけで? 結婚する気で同棲までしたのに?」

「10ヵ月も続かなかったわ」


 暮らしの日々の中、2人の会話に口論が混じるようになり、徐々に口論の割合が増えて、最後は大喧嘩とののしり合いで綺麗に関係は終わった。

 結婚話を惜しむ気持ちも彼への未練も全く無し、2人で住んでいたマンションを引き払った日は晴天で、清々しい己の心を代弁していた。


「ところが先日、きまぐれに入った中古自動車の展示販売場で奴と再会してさ。メーカー辞めて車のディーラーになっていたのね」

「テル姉ちゃん、車が欲しいんですか?」

「何気にね。あったら便利だし」


 女の自由な独り暮らし、車一台あれば重い荷物の買い出しに気晴らしのドライブ、旅行も出来るし生活の幅が広がる。だが安い買い物ではない。

 考えているその時、目に飛び込んできた車体があった。

 どこかレトロで丸みのある可愛いフォルム。明るいミントグリーンの塗装。


 目が車に吸いついて離れない。価格を見て頭の中で計算機を取り出し、予算と購入代金をすり合わせ、駐車場代にガソリン代とコスト計算をしていた矢先だった。

 智明から声をかけてきたのだ。


『テル! テルじゃないか!』


 あれほど険悪な大喧嘩をして別れた女へ、智明は輝かんばかりの笑顔と懐かし気な声を向けてきた。

 その時、輝美は2人で一緒に住んでいた日々を思い出した。

 これは運命だ。


 ミントグリーンの軽自動車と近づいてくる智明の間で、輝美は立ち尽くしていた。


「……それで、彼の誘いに応じることにしたと」

「最初に飲みに行ったときに、もう同棲している彼女がいると聞いたから、こりゃ好都合と思ってね。しかし、なかなか本題に切り出せないもので、ずるずると……」

「ぺっぺっぺっ、そんなもの闇じゃない、冷えた牛丼以下です」

「正直に話したわよ。落胆していないで、さっさとやじ馬共に報告書でも上げなさいよ」


「でもこんなつまんない真実を話したところで、皆さんがっかりですよ。せっかくの下卑た好奇心がお気の毒に……」

「下卑た好奇心のために、真実は存在するんじゃない!」


 ――しかし、下卑ていたのは、輝美の現実だった。


 その日は平日で、正午を少し過ぎていた。

 飲食店以外のフロアは、一番閑散としている時間帯だ。昼休み前に、次の入荷予定の商品の詳細を調べようと、輝美は「筆記ラボ」と大きく店名の入ったファイルを取り出した。


 やっぱりモンブランは、誰もが知っている名門だけあって売上が安定しているな。また在庫を動かしておこう。

 今度出る限定品はかなり高価なラインだけど、映画好きなら絶対に欲しい巨匠監督のエディションで、なんと限定3,000本。映画マニアの小山様が欲しがりそうだ……押さえておくかと思いつつファイルをめくる。


 ――考え事をしながら、顔を下に向けていたので反応が遅れた。


「テル」


 反射的に「いらっしゃいませ」と口走ってしまう。

 ショーケースの前に立つ2人の男女。

 輝美は固まった。


「やあテル、職場に来てゴメン。でもテルに間違いなく会えるのは、ここしかないだろ」

「……」

「こないだ、頼みたいことがあるってラインしただろ。頼み事は直に会って頼むべきだと思ってさ、わざわざコイツも連れてきたんだ。なあ頼むよ、コイツに料理教えてやってくれよ」

「……いまは、しごと……」


 今は売り場に独りでも、他の売り場に従業員はいる。それに客は皆無では無い。

 人目を気にしながら、断ろうとして気が付いた。

 そうだ、仕事中なのを承知の襲来だ。

 追い払う理由に「勤務中」の威力は低い


 そして、上田智明は爽やかな笑顔で輝美の退路を断った。


「それにさ、平日の昼前は退屈だって言っただろー? 客もいないし、話すのに丁度良いじゃん」


 ショーケースを飛び越えて、モンブランのペン先でコイツの脳天を突き刺したいと本気で思ったが。


「はじめましてええ、ワタシ、トモくんの恋人で、サワっていいまーす。あなたが『元カノ』のテルさんですか?」


 甘ったるく高い声が輝美を止めた。智明の横にいる女だった。

「ふわふわ」「ラブリー」「愛されコーデ」ファッション誌のキャッチコピーを全て網羅し、男ウケ一点集中のメイクとファッション。

 そして、ラインストーンだらけの光る爪。


 砂羽の眼がギラリと光る。その皮膚の下に蠢く感情に、輝美は思わず一歩下がった。


「ええと、トモくんが『元カノ』のテルさんにお料理教えてもらえって。『元カノ』だから気安いし『元カノ』だから素性も知れていて『元カノ』だからトモくん安心だしって」


 連打されるキーワード『元カノ』


「だから、オネガイしまーす。トモくんがお料理上手になったサワと幸せになれば、テルさんもいつまでもトモくんに、ミレンもたずに済むでしょ?」


 智明によれば、今カノの砂羽と輝美と同じ年齢らしい。

 しかし『女の子』だ。

 ピンク色の砂糖で『女の子』を作って、女の子パウダーと女の子色のペンキを、ラブリーという形容詞を全身にかけて、アクセサリーをつけて、甘ったるい香水を振りまいている。


 見ているだけで、糖尿病を起こしそうだった。決して『成人女性』ではない……輝美と同じ20代後半だが。

 しかも「ミレン」とは何だ。この砂羽の中で自分は一体どんな立ち位置なのか……?


「りょ、りょうりなんてそんな……わたし、そんなひとに、おしえるうでじゃ……」

「たのむよお、テルぅ。コイツ何とかしてやってよ」

「やっだあ、トモくんサワのこと「コイツ」なんて呼ばないでぇ」


 やめて、ここは私の職場なの。

 聖域を汚されている気分で、輝美は無言の悲鳴を上げた。


「あ、あの、その話はまた今度……」

「やだあ、ここで、うんって言ってくれるまで、帰ってあげない! だってサワだって、トモくんのためだもん!」

「なあ、頼むよテル、コイツもやる気出してそう言っているんだし……」


 やる気? やる気じゃなくてアンタの彼女、私を「殺る気」だと、輝美は客の心を読む接客業の眼力で、砂羽の表情の奥を読み取った。

 売り場の治安を守る上司、店長。大北香澄店長はどこだと眼球だけを動かすと、大北店長はフロアの柱に隠れて、少女が想い人を見つめるが如く柱から顔だけそっと出し、こちらを伺っている。


 部下が追い詰められているのが分からないのか、いや、もしかしてこの事態が分かっているからこそ、見物に回ったのかと、絶望と怒りに堕ちかけた時だった。


「西城さん、メーカーさんと打合せの時間です」

「もう先方さん、バックでお待ちですよ」

 バックヤードから帰ってきた後輩と、派遣社員の声が輝美を救った。

「ごめん、さよなら!」


 回れ右でぐるっときびすを返す。

 逃げ出すその瞬間、輝美は砂羽の目に気が付く。

 さっきまでの甘ったるさ、表面上の笑顔が消え失せて、輝美への本心を剥き出しにした暗い怨嗟。


 輝美は総毛立つ。

 砂羽は、怨霊の目をしていた。



 ――帰り道、ずっと智明は元カノのことを話していた。


「アイツ、随分と大人っぽくなったわ。売り場であんな風に、黒いパンツスーツ着てキリっとして働いているの見ると、やっぱイイ女だったんだって改めて思ったね。仕事も家事も出来たし、何で俺はアイツと別れたんだろう」


 キリって何が「キリっ」なの? と砂羽は智明に無言で問うた。

 あんな地味なのが大人っぽいっていうの? 黒い服着て髪もひっつめて、葬式にそのまま出られるじゃん。

 でも、あの引き攣った顔は見ていて愉快だった。元カノ元カノって連発してやったら、ものすごく悔しそうだったけど、ホントのことじゃん。


 元カノ、つまり自分はトモくんの廃棄品だってコト、ちゃんと自覚してよね。

 一度ゴミ箱に入れられたら、もうゴミでしかないんだから、図々しく出しゃばらないでよ。 でもやっぱり腹が立つ。

 トモくんが私じゃなくて、あんな真っ黒い服の冴えないオンナを褒めているのを聞くと、心がざわざわしてくる。


「なあオイ、サワ」


 智明が、砂羽を向いた。


「カード会社から、残高不足で引き落としが出来ないって請求が来ていたぞ」

「ええっやだ、トモくん、ちゃんと口座にお金入れてくれてなかったの?」

「何でお前の服とかアクセサリーだとか、俺が金払うんだよ! 俺のカード返せ!」

「返せって、だって2人の生活用に作ったクレジットカードだから、名義はトモくんでも、実際は2人のカードでしょ?」

「だ、か、ら、何で食費とか光熱費とか払うためのカードで、お前の服や化粧品とか靴を買うの? 自分のカードを使えよ!」


 ……砂羽はショックを受けた。

 化粧品もエステも服も全部、智明のために、可愛くてキレイでいるための出費なのに、2人の生活の必要経費が、砂羽の浪費みたいに思われている。


「サワ、トモくんのためにキレイでいたいって努力しているんだよ? それにトモくんが生活費に入れるお金、3万円じゃ足りるはずないじゃん!」

「ああ、くそ!」


 智明が頭をかきむしった。


「お前なあ、さっさと仕事見つけろよ! お前も金入れろ!」

「……」

「テルみたいに働けよ! キレイにしろとかって、誰も頼んじゃいねーよ!」


 あの女の顔が、頭に浮かんだ。

 テルみたいに、テルみたいに……うるさい。何がテルだ。


「……死ね」

「え?」


 砂羽の口調に、智明の頬がひくついた。


「……サワを、バカにしたら怖いんだよ」

「……」

「サワのこといじめて、死んだ人もいるんだからね」

「何、言ってんの? ……お前」


 智明の態度が下手に変わった。その簡単さに呆れながら、そして腹を立てながら、砂羽は輝美の顔を思い出す。


 死ね。

 死ね、死ね。

 死ね死ね死ね死ね。


 何度も繰り返す、強く想う。あの女が死ぬイメージを、惨死する映像を想像し、作り上げては何度も脳内で繰り返す。

 顔を切り刻む、潰す、引き千切る。全ての苦痛をあの女、テルに施し、苦鳴と悲鳴を心の中で奏でて呪詛の調べを唄う。


 あのねえ、面白いんだよ、トモくん。

 砂羽の頭の中で、色んな方法で滅茶苦茶にしてやって、殺してぐちゃぐちゃにしてやる想像を何度も繰り返すうちに、ホントに死んじゃった人が何人もいるの。

 砂羽は、心の中で笑った。

 


 小学生の時、砂羽をいじめていたガキ大将が交通事故で死んで、遊び仲間のリーダー格で意地が悪かったショウコが海で溺れ死んだ。

 砂羽の母親をいじめて、砂羽にも厳しかった祖母が突然心臓発作を起こして他界したのは年齢のせいだとしても、砂羽のことを『ぶりっ子』と言って仲間外れにしたミカは、ジャングルジムから落ちて首の骨を折って死んだ。


 嫌いで嫌いで『死ね』と願い、心の中で何度も殺した相手が本当に死ぬ、この不思議な一致に気が付いたのは中学生の時だった。

 好きな男子が砂羽のことを好きだと知って、砂羽の悪口を言いふらしていた女がダンプカーに潰されて死んだ時、霊感があると学校で有名だった女子生徒がこう言ったらしい。


「あの砂羽は、人を呪い殺す力がある」


 この言葉が、砂羽の力にお墨付きを与えた。

 入った会社で、砂羽を敵視していじめてくる先輩がいた。当然死ね死ねと願い、呪ってやっていたら、顔色が段々悪くなって砂羽を見て怯えるようになり、避けるようになった。


 その後、先輩は家のベッドの中、心不全で死んでいた。

 過去に付き合っていた男の浮気相手は、精神を病んで首を吊った。

 高校に入って3人、短大で3人、社会人になって4人。

「死ね」と思った人数はもっと多いが、それでも嫌いな人間が10人以上死んでいるのは、結構な確率じゃないだろうか。


 だから、人を憎むまい、死ねだなんて思うまいとか、そんな事を砂羽は考えない。

 これが本当に生まれ持った能力だとすれば、使わないと損だ。

 例えばお金持ちの家に生まれた子供が、自分の境遇に遠慮して赤貧生活をするはずがない。親の金を使いまくるに決まっている。


 そして、念じた相手が必ず死ぬわけでもない、実際に自分の手を使うのではないので、罪悪感無く、いくらでも相手を呪えた。

 だけど、あのテルという女は、今までの最高に邪魔だけじゃなくて目障り、ムカつく、智明とのシアワセの邪魔。絶対に許せない。


 砂羽はひたすら輝美の死の場面を、苦しみを想像し続けた。



 輝美は目を覚ました。

 暗い部屋の天井が見える。空気が重い。

 ベッド横に置いてある時計を見た。深夜3時。


 首に手をやった。夢の中で絞められた力が随分リアルで、呼吸困難も本当に起こしてしまうほどだった。心臓が嫌なリズムで鳴り響いている。

 もう一度布団をかぶったが、眠いのに夢を見るのが怖い。

 ……智明があんな女と連れてきたからだと、輝美は思う。


 悪夢に出てくるのは、必ずあの「サワ」という智明の彼女だった。

 自分に向けられたあの禍々しい目が、いまも焼き付いて離れない。

 今回は首を絞められたが、それだけではなく、生きたまま土に埋められ、顔に釘を打ち込まれ、手足をのこぎりで一本一本切り落とされ、夢の中とはいえ、サワにロクでもない殺され方をしている。


 夢占いで「自分が死ぬ夢」は、事態の好転などを示す吉夢というけれど、目が覚めても恐怖が現実まで後を引くのは真の悪夢だ。

 眠りが休息でなくなっている。


「……テルさん、大丈夫ですか?」


 ――後輩のミノリの声が、輝美の意識を叩いた。

 思わず、ぎくりとして売り場の周囲を見回した。

 誰も、輝美を見ている人間はない。


「気分、悪いんですか?」


 ミノリが心配げに話しかけてきた。


「最近、テルさん変です。ボケているっていうより、怖がっている感じで」

「……」

「ちゃんと寝ていますか? 目の下のクマが酷くなってきています」

「……ミノリちゃん」

「はい?」

「今誰も……私を見ている人、いないよね?」


 いませんよ、そう言いながらミノリの顔が怯えた。

 輝美の精神が変調をきたしていると思われたらしい。

 だけど輝美自身、自分がおかしくなっているのではと思っている。

 悪夢だけではない。最近、ずっと体に視線が絡みついている。周辺を見ても誰もいないことが多いが、悪意で粘ついた空気にずっと圧迫されている。


 悪夢が現実に続いている。それを気のせいだと思い込もうとしても、肉食獣に見られている小動物の感覚が、ずっと輝美の中で騒いでいるのだ。


「テルさん、仮眠室で休憩取って来てください。店長には私から伝えます」

「……いい」


 輝美は首を振った。先日もそうやって仮眠を取らせてもらった。

 そうしたら、サワにガソリンをかけられて火を点けられた。肌を焼く炎の熱さ、焼けていく自分の肉の匂いに絶叫して飛び起きた。


 夢の中なのに、どうしてあんなに感覚がリアルなのか、寝ても取れない疲労、蓄積する眠気に怯えて輝美は追い詰められている。

 背後から、背中をつつかれた。


「……印布」

「テル姉ちゃん、ちょっと顔をお貸しください」


 引っ張って来られたのは、バックヤードにある、全身が映る鏡の前だった。


「自分の顔を見てごらんなさい。死相が出ています」


 目の前に立つ女は、目の下どころか顔全体が黒ずんでいる。死相と言われて腹を立てる気力もないほど、輝美はすり切れていた。


「ひどい顔ですよ。それに最近、ちゃんと食べてないでしょ。社員食堂にも来ないし」

「食欲ない」


 印布が、おもいきりため息をついた。


「テル姉ちゃん、下手したら殺されますよ」

「はあ?」

「変な女がついてます」


 印布が半眼になって輝美を見た。


「何をいきなり」

「こないだ、テル姉ちゃんのところに押しかけて来た騒がしい2人、あれが噂の三角関係でしょ」

「智明とはもう何でもない、三角関係じゃないって」

「そのトモアキから金を取りたてるのは諦めて、あの2人とはさっさと縁を切りなさい」


 輝美は嘆息した。


「あのねえ、印布。金諦めろ、はいそうですかって言えると思う? 大金よ」


 智明と一緒に住んでいた時、家賃は折半して払う取り決めだった。

 その折半するはずの家賃を、智明がちゃんと払っていたのは最初の2ヵ月だけで、その後、今は金が無いとか、銀行の引き落としを忘れていたとかボーナス一括で返すから立て替えておいてとか、そんなこんなでずっと輝美が家賃を負担していたのだ。


 同居解消の運びとなった時、喧嘩した勢いと引っ越す慌ただしさで、うっかり立替分を請求するのを忘れていた。

 別れたその後、智明の顔を見たくも無いし、授業料と思って諦めていたが、数年後に車を買おうかと悩んでいる場所に現れたのが智明だ。


 立替えた金は、合計で50万はあった。これは車を買え、金を智明から取り立てろという運命の声だと、輝美はそう思ったのだ。

 そして、智明に今付き合っている彼女がいるのなら「彼女に対する男のメンツにかけて」返済を迫れると思ったのだが。


「悪い事は言いません。ワタシ悪魔ですけど」

「……」

「テル姉ちゃん、あの智明の彼女の生霊に取り憑かれています」

「……生霊?」

「あのサワって女、マイナスの霊媒体質ですよ。人の念を感知しやすいのが霊媒体質ですが、あの女は受け身ではなく、自分の念を飛ばす側の珍しいタイプです」

「……」


「死者の念より、肉体を持つ生者のほうがパワーあります。しかもあの女、悪意とかマイナスの念が極めて強い。しかも今までにも人を殺していますよ。しかも、それで自分は人を殺せることを知っている確信犯です。アナタも殺す気です」


 連日の寝不足と溜まった疲れで、脳みそは泥だ。


「……いきりょう? 信じられないわよ」

「悪魔はここにいるのに、生霊はそれですか」

「目の前にいるのは、悪魔だけで充分よ」

「それにさ、テル姉ちゃん。智明と別れた後から今までに、立替えた金の督促していなかったんでしょ? 2020年以前場合は旧民法が適用されるとして、個人な借金の時効って1年ですよ」


 悪魔に民法を説かれてしまった敗北感に、人間の輝美は沈んだ。



 輝美の現実に悪魔が存在しているのは、印布を通して承知している。

 だが、輝美は生霊や幽霊は信じていない。

 矛盾するかもしれないが、生活に溶け込んだ印布と違って、実際に見たことが無いし、存在を証明されたことも無いからだ。


「よく考えて見なさいよ」


 その夜、輝美はベッドの中で自分に言い聞かせた。


「悪夢なだけよ。夢よ夢、昼間の出来事や過去のイメージの断片を、脳がフィルムのように編集してストーリー仕立てにしたもの、それが夢よ。それ以上でもそれ以下でもない……」


 負けてたまるか。

 一番落ち着くはずの自分の居場所、部屋の寝床なのに落ち着かない。

 電気を点けているのに、どこかざわざわと気配がする。

 じっと見られている気がする。

 輝美は電気を点けたまま、目を閉じた。


 自分の作った暗闇の中に吸い込まれていく。そう、そのまま、無をキープして……すとんと意識が消えかけた時。

 鼻孔を香水の匂いがぶった。


 凄まじい異質、部屋に漂うはずのない匂いに、輝美は意識を引きずり上げられる。

 甘ったるい、人工的な匂いはベッド脇からだった。目を開けて顔を横に向ける。

 ――ベッドに顎を乗せた女の顔があった。

 輝美は何度も目を開け閉めした。女の顔は消えない。


 明るい電気の下で、女の顔は確かな輪郭を持って輝美を見ている。瞼の奥には黒目しかない、その黒色に憎悪と恨みが滴り落ちていた。

 香水の匂いの中で、輝美は気絶した。


「……」


 輝美は目を覚ました。

 ベッドから転がり落ちて、フローリングの上にいた。

 体が痛い。

 あちこちに漂う香水の匂いに、自分のものではない匂いに跳ね起きた。


 あまりのおぞましさに、窓を開けて空気を追い出そうと歩み出した時、爪先が何かを蹴った。

 床に落ちている刃物。氷の針が輝美の背中をざくざくと刺す。

 台所にあるはずの肉切り包丁。


 もちろん、出した覚えはなかった。

 戸締りしている4階のマンションの部屋には、外から侵入された形跡もない。


 ――殺す気です。


 甘ったるい香水の匂い。

 それがサワの匂いだと思い当たった時、輝美は崩れ落ちた。

 

 ――昼、売り場のバックヤード。


 智明の携帯を鳴らすと相手はすぐに出た。


『あーテル』

「聞きたいんだけど」


 輝美は本題にすぐさま切り込んだ。


「サワさんって、今どうしてる?」

『ええっサワに料理教えてやってくれるの? いやもう助かるよ、アイツ最近、一日ぼーっとしてさあ、何もせずに寝てるか服買いに行くか、それしかしねーんだよ。こっちは仕事してんのにさあ。同棲決まった時、これで口うるさい母親から逃げられたと思ったら、逃げた先は動物の巣穴だよ。あんな家事の出来ないダメダメ女と分かっていたら、一緒に住まなかったよホントに。もう生活全ての当てと期待が外れちまったよ』


「……」

『そんなんでアイツ、俺と結婚するつもりなんだぜ? 冗談じゃねえ、あのさ、テル。俺たちやり直さないか? いや、やり直してくれ。俺もう、この生活うんざりなんだ』


 輝美は歯ぎしりした。

 同棲していた時の記憶が、炎と共に押し寄せてきた。


『部屋は光モノや菓子袋と脱いだ服で、キラキラしたごみ溜めだぜ。こないだゴキのマラソン大会見ちまって、部屋から逃げちまったよ。テルみたいに仕事から帰って、ちょいちょいと掃除してメシ作るってことがどうして出来ねえんだ。男を何だと思っているんだよ、アイツは男を立てられず、ピンク色のカビを生やしただけの女だよ』

「……」


『なあテル、話を聞いているのか? 俺を助けて……』


 輝美は通話を切った。



 トモくんと結婚したい。

 砂羽は、本当にそう望んでいる。

 結婚したらパパとママは、砂羽をちゃんとした大人だと思ってくれるだろうし、結婚するという事は、砂羽専属の王子様を持つことだ。


 智明はちゃんとした仕事を持っていて、顔も良い。

 それに最初は砂羽のことを可愛い可愛いと褒めちぎってくれて、一緒に住もうと言ったら「ラッキー」だといって大喜びしてくれた。


 ドラマや映画の中なら、この幸せはこのまま結婚へ、ウェディングドレスを着たサワのシーンに繋がるのに……何故上手く行かない?

 家事ってそんなに大事? 砂羽はとても可愛いのに、王子様を愛するお姫様は、良いお嫁さんに決まっているのに。


 砂羽は、ショッピングモールの中を歩いている。駅と直結した大型の施設は、キラキラしたステキなものと可愛い服がたくさんあるのに、智明を手に入れる武器にはならないんだと思うと、悲しくなってしまう。

 最近、ひどく眠たい。だけどこれは良い兆候だった。


 嫌いな奴に死ね死ねと念じる、その内にひどく眠い時やだるい時が続くようになれば、相手が死んでしまう確率が高いのだ。


「そうだ、今日は大久に行ってみよう」


 砂羽は思いついた。

 本当は、智明の働いている店に行こうと思っていたけれど、予定を変更してあのテルを見に行こう。

 呪いが効いているのか様子を探れるし、あの地味顔をもう一度記憶に焼き付ける事で、殺すイメージが強くなる。


 大久百貨店に入る。インフォーメイションを横切ってエレベーターに乗った。

 平日の昼間の年齢層は高い。

 エレベーターの中も、いかにも暇そうなおじいちゃんおばあちゃんが大半だった。

 大半の客は、7階リビング用品と8階の美術画廊の階で降りた。


 事務雑貨用品は9階。

 そういえばこの店のテナントにはサンローランがあった。あとで見に行こうと思っている内に、エレベーターが止まる。

 砂羽は外に出た。


 そして、うろたえた。


「……こんなとこだったっけ?」


 智明と一緒に来たときと、全然風景は違っている。違う階に来たのかと思ったが、壁にある表示板では、確かにここが9階の事務雑貨用品売り場だった。

 真っ暗な空間、薄暗い照明の下を砂羽は歩き出した。

 なんて極端な改装だろう。


 黒い壁、黒い床は歩いている内に平衡感覚が狂いそうだった。

 どんな仕掛けなのか、ホログラフィのようにタロットカードが浮いている。

 特に『塔』『悪魔』が目についた。

 『吊られた男』『死神』悪趣味なディスプレイだ。

『愚者』『恋人』のカードの絵柄は逆になって浮いている。


「……どこまでこの売り場は続いているのよ」


 確かエレベーターの前には紙雑貨用品、そこを横切れば、すぐに『筆記ラボ』はあったはずだ。

 それなのに着かない。ずっと歩いているのに。

 間違えた? 店員を探したが誰もいない。客すらいない。


「いらっしゃーい」


 場違いに明るい声がした。店員だと砂羽は振り向き、そして戸惑った。

 ……何だコイツ。

 制服ではなく、ジプシー風の衣装を着たタヌキのような女が、水晶を両手に挟んでニコニコと立っていた。


 占い師ではなくて、占い師のコスプレだ。全く似合わない。


「占いどうです? お代はタダです」

「タダって……それよりも」


 筆記ラボはどこだと聞こうとした時だった。


「トモアキと結婚したいんでしょ? でもテル姉ちゃん殺しても無駄ですよ」


 頭に,杭が打ち込まれた。タヌキ女はホホホと笑って続けた。


「そりゃ、目についた虫を殺すのは一番手っ取り早いですけどね、抜本的解決とは程遠いです。浮気相手は次から次へと湧いて出ます。だってアナタ、トモアキに使う武器を間違えているもん」

「どういうことよ!」


 何故この女が智明と自分のことを知っているのか、理由は分からないが、それよりも答えを問いただすのが先だった。


「あなた方、お似合いですよねえ、この上なく相性抜群のベストカップル」

「そうでしょう! なのにトモくん、あのテルって女が邪魔して……っ」

「自分大好きで、ヒトさまの好意と労力を意地汚く消費するだけの、なーんの生産性も無いおふたりさん。割れブタに綴じブタじゃなくて、燃えるごみと燃えないゴミです。2人合わせて実に素晴らしい妙味をもたらしています。そこんとこ、アナタはテル姉ちゃんより数倍上、どろどろぐっちゃりのフォアグラ以上、牛丼なんか目じゃないですよ」


「ふざけないで、真面目に答えてよ。サワはホントに、ホントにトモくんが大好きなんだから! 愛しているんだから!」

「愛してる! ぶぶぶぶぶっお姫さまが奴隷を愛せるんですか? 愛じゃなくて、労働力が欲しいんでしょ?」


 腹ごと水晶玉を抱きしめ、占い師は笑い始めた。


「あのオトコも同類ですね。女は全て乳母。何も言わずに男である自分の世話をしてくれて、機嫌取るべしだって思い込んでいるダメ幼児です。そもそも、男が外で女が家なんて、立場の上下じゃなくて、その時と場所による役割分担なのにね。彼の場合は無知蒙昧というより、只の思い上がりですけど」

「サワの愛は本物だもん! 本気だから、あの女を……」


 殺したいのだ。殺す自信もある。トモくんへの愛が起爆剤になって、今までよりもっともっと強く念じたからだ。あのテルを殺して、サワの本気を見せてやるんだ。


「あ、それそれ。それがアナタの間違い。武器も間違い、本気の見せかたと相手も間違ってますよ」

「じゃあどうしろって……」

「アナタ、見た目しか武器無いじゃん」


タヌキ女はせせら笑った。


「トモアキは、女=家事と思い込んでいる幼児ですよ。彼にとって、女は見た目が可愛いのは当たり前、オプションに求めているのは、オレ様に従う便利な人間家電製品です。アナタ、彼にとっちゃ家電どころか、高い電気代食うだけのポンコツですよ」

「サワは家電製品なんかじゃない!」


 砂羽は悲鳴で反論した。


「サワは女の子なの! トモくんを愛している女の子なのよ! トモくんは私のなんだから、絶対にそうなんだから!」

「そうでしょうとも」


 タヌキ女は次、深く頷いた。


「アナタはオンナのコです……おおっと失礼」


 タヌキ女の頭からショールがずれた。その頭にあるものに、砂羽は一瞬、目を疑った。

 ……ねじくれた角が2本生えている。

 絶句する砂羽の前で、ショールを頭に掛けなおしてから、タヌキ女はにんまりと笑う。


「じゃあ、そのトモくんに教えてあげましょうよ。アナタは歩く炊飯器でも、ドレスを着た洗濯機でもない、人間のオンナノコで、誰にも負けないくらい彼への愛は深いのだと」

「……あんた、何? ここはどこなの?」


 違う、ここは事務用品売り場じゃない。

 女を前にして、砂羽は慄然となった。

 この不可解な場所は何? 夢を見ている? 異次元に迷い込んだ? だけど、そんな馬鹿なことが現実にあるはずがない。 


「おやこれは笑止。生霊を飛ばして嫌いな人間を簡単に殺してきたお方が、この現象を信じられないとは」

「……」

「あ、別に攻撃じゃないです。むしろダイスキ、あなたみたいなオンナのこ」


 安心して良いのかどうなのか分からないが、このおかしな存在は、砂羽に智明との行く末に助言を与えてくれるつもりらしい。


「アナタは便利家電ではなくて、人間だとトモくんに思い知らせればいいんですよ。カレに、アナタの本気を見せておあげなさい」

「……え?」

「アナタは機械じゃなくて、赤い血が流れる生身の人間だと教えてやりなさい。そしてあなたの愛を、命を見せつければ、どんなアホでも観念しますよ」


「……いのち……」

「命は自分が持てるたった一つの、最も尊く大事なものです。命をかけるとはよく比喩に使われますが、所詮は比喩です。それを実際に行う決意、それを見せつければ,智明は貴方の愛の強さと深さに思い知るでしょう」


 そうだ、そうだったんだ。

 砂羽の頭に、天啓と祝福の交響曲が同時に鳴り響いた。

 どうして今まで気が付かなかったんだろう。トモくんに、好きだ好きだと繰り返したけれど、口だけだった。


 本当に、行動に移して証明することはしなかった。愛する人に、命をかけて思いを見せつける。そんな簡単な方法をどうして見逃していたんだろう。


「血は生命そのもの、トモくんにアナタの流す血を見せれば良いんですよ。簡単じゃないですか」


 砂羽の頭が甘くしびれる。

 そうだ、トモくんのためなら死んでも良いんだって、真心さえ見せればそれでいい。


 ――薬局へ行った。睡眠薬を買った。剃刀を買った。

 あの占い師と同じ顔をした薬剤師が「この薬、よく効きます」そういって紙袋に入れてくれた。


 砂羽はマンションに帰った。

 どれだけトモくんを愛しているか、あのオンナなんかより、トモくんをもっともっと強く愛している。

 その証明をしてみせるために、バスルームへ向かい、衣服を脱ぐ。


『これを飲んだら、手首を切っても痛くありませんよ』と言われて渡された、とても甘い香りの錠剤を飲んで、剃刀を手首に押し当てた。

 鏡に映る自分の裸身は白く美しく、切った手首から流れる赤い血の流れの対比はまるで宗教画のように、悲壮で美しい。


 頭にふんわり、白い綿が広がったようだった。

 目の前にも湯気と多幸感が立ち込める。

 砂羽は智明への愛を唱えながら湯に身を浸す。湯船にたたえられた柔らかな湯は、血の筋が広がって桃色の泉になる。


 湯にたゆたう今の砂羽は、泉で水浴びをする愛の天使だった。

 きっと、トモくんはこのサワを見て、感激してくれるに違いない。

 そして、愛しているよと、サワを思いきり抱き締めてくれる。


 その時、サワはしっかりとトモくんを抱きしめてあげるんだ。

 優しく広がる湯気、バスルームは幻想的でロマンティックな場所になる。

 うっとりと砂羽は目を閉じた。



 今の輝美は、惰性で動いていた。

 連日の寝不足は考える力も食欲も奪い、長年のローテーションで身に着いた動作プロブラムに従って作業を進めている。商品整理もカタログ整理も、頭が追い付かずただ、手が動いているだけだった。


 休みたくない、動きを止めたら寝てしまう。

 寝たら、殺される。

 追い詰められて、見えない崖の上にいた。


 テルちゃん、顔が真っ黒で怖いわよどうしようと、聴覚の外で泣声が聞こえる気がするが、どうでも良い。

 テルさん、休んで下さいと後輩たちに何度も懇願されたが、寝たら殺されるからなんて、言えやしない。


 眩暈がする。床が斜めに傾いた気がした。

 気を失ったら駄目だ。輝美は急速に遠ざかる意識を引き戻そうと、商品棚に手をついて足を踏ん張った。

 テルさんと声が上がった、その時だった。


「テル!」


 男の声に脳みそが蹴り飛ばされて、輝美は頭を上げた。

 それは救いではなく、危機感だった。


「テル! ああ良かった出勤していたんだな、テルの住所は知らないし、ラインも既読にならないし、もう俺どうしようかって」

「……」

「頼む、テル、助けてくれ! 俺の人生が破壊されてしまう!」


 上田智明の手が、輝美の両肩をむんずと掴んだ。


「な、ななな……っ」


 暗闇に堕ちかけていた輝美の意識が、智明襲来の緊急事態によって急速浮上した。


「あのサワから、結婚を迫られているんだよ! あのごみ溜めの中で、腐った匂いのする部屋の中で結婚してくれしてくれって耳元で喚かれて、もう気が狂いそうだ! ワタシはトモくんの婚約者だって喚きながら、俺の職場にまで押しかけてくるんだよ!」

「そういうアンタも喚きながら、私の職場に……」


「あんな、家事もしないし男を立てない、ナイナイだらけの寄生虫をどうして俺が養わなきゃいけないんだ! 頼むテル、結婚してくれ! 家事が出来るテルと一緒になるって言って、何も出来ないアイツをあきらめさせるんだ!」


 輝美は呻いた。


「……アンタ、確か彼女の家に住んでいたよね? 家賃はだれが払っているの?」

「サワの親だよ! 狭いワンルームじゃ娘が可哀そうだからって、ずっと今の部屋の家賃払ってくれているらしい。それにアイツ今無職だぜ。家賃なんか払えるもんか」


 智明はまくしたてた。


「家賃はあいつが身銭を切って払っているわけじゃないだろ、それにほら、俺、働いているんだぜ? それに家事は女の仕事だろう! 男は仕事して疲れて帰ってくるんだから、女がすべきだろ? 外の仕事は女より男の方が責任大きいんだから、女が男を立てるのは当然で当たり前じゃないか!」


 憤怒が押し寄せ、弱った意識を覚醒させる。

 過去の映像が、紅蓮の炎に包まれて蘇った。

『男を立てろ』『女だろ』この腐ったセリフをまき散らし、感謝も恥じらいも無く、自分が作った食事と掃除した部屋、洗濯した衣服を享受していた男。


 立替えている家賃を払って欲しい、そういった時『そんな事よりさ、俺のパンツ買ってきておいて』この智明のセリフに怒りが爆発、同棲解消したのだ。


「何が男だ! あんたの中に立てるべきオトコはない!」


 輝美は怒鳴った。

 声は智明を吹き飛ばし、筆記ラボに響き渡った。

 客がいないのが幸いだったが、固唾を呑んでいた売り場の仲間たちが硬直した。


「ああそうよ、女は男立てるわよ。仕事の責任の重さは男女も外も内も関係ない、助け合おうっていう男ならね。だけどアンタは男じゃない。人の部屋にタダで住みついてメシだ洗濯だと喚いている、何も出来ない虫じゃないの。いやいや、虫はこぼれた食べかすを黙って食べている分、まだ可愛いわ。何がケッコンだ。間違えるなよ、結婚はなあ、アンタのような無能なカスを救済するための制度じゃない。人生破壊? 破壊して頂けるようなご立派な人生を、あんたは送っていたつもり?」


 智明の顔から血の気が引いた。

 やがて全身が震えだす。やばいと輝美は直感した。

 智明の自己愛を思い切り叩き潰した。 肥大している分、タチが悪い。


「てめえっ」


 智明の手が輝美の首元に伸びる。

 横から白い手が伸びた。その手は智明の手を力いっぱいに叩き落とした。


「お引き取りを」


 店長! 売り場が大きく波打った。

 店長の大北香澄が、輝美の横に立った。


「ここは私共の神聖な職場です。場を乱すなら、責任者として警備員を呼びます」

「……っ」

「お・ひ・き・と・り・を」


 凛とした目と口調には、怒りが混じっている。

 美貌がその迫力を増していた。

 智明は、輝美と香澄をそれぞれ視線で突き刺したが、やがて身をひるがえして走り去った。


「……店長……」


 店長が部下を守ってくれた。世間なら当たり前でもここではあり得ない。

 信じられない思いと感謝で、輝美は香澄を見つめたが。


「何がケッコンよ。テルちゃんは私のなんだから絶対にダメ!」


 憤然とする香澄に、輝美はよろめいた。

 ……違った。お気に入りの人形を人に奪われるのを阻止した3才児……傾く身体は、横から支えられた。


「印布……」

「復活されたようで何よりです。お昼ご飯行きませんか?」

「何でまた、水晶玉なんか小脇に抱えてんの? 紙雑貨のディスプレイにそんな備品あったんだ?」

「ま、そんなとこです」


 ほほほと印布は笑った。


 社員食堂に入り、料理の匂いを嗅いだ瞬間、猛烈なエネルギー不足に襲われた。

 輝美は日替わりのハンバーグとエビフライ定食のご飯大盛、唐揚げもつけて、追加の汁物に味噌ラーメンを注文した。


「あの野郎、次に来たら万年筆でハリネズミにしてやる!」


 怒鳴る輝美の勢いに、何て味わい深いと印布はうっとり素うどんをすする。


「アナタは闇よりも、怒りのほうが特上です」

「あのオンナも何がイキリョーよ! 負けてたまるか、しめ縄です巻きにしてバケツで聖水ぶっかけてやる!」



 完全にぶちぎれた怒りの炎は、恐怖も委縮も焼き尽くした。


「来るなら来い、返り討ちにしてくれるわ!」


 猛然と味噌ラーメンを食べる輝美に、印布が言った。


「もうそんな必要はありませんよ」


 くふふ、と笑いが流れた。


「当人同士の話し合いに任せましょうよ。あの今カノ、生霊飛ばせるくらいだから、なかなか離れないだろうなあ」

「あんたが止めたって、私の気が収まらないのよ! 悪魔なら応援しなさ……」


 ラーメンから顔を上げた輝美の箸が止まる。

 見慣れたタヌキ顔だ。だがその上を覆うものは、邪悪と嘲笑で編まれたベールだった。


 ――やっぱり、コイツは悪魔だ。


 人間では出せない印布の笑いの形に、肌がざわつく。

 輝美は改めて印布の正体を思い知る。

 もう輝美の日常に溶け込み、当たり前のように横にいても、間違いのない邪悪がそこにあった。智明やサワとはまた異質で、人間の不幸を糧とする、もっと深く黒々とした淵がある。


 ああ、そうそうテル姉ちゃんと印布が言った。


「欲しがっていた車のことですけど」

「あ、ああ……」


 智明から取り立てた金を購入資金に充てようと思ったが、この結末ではもう無理だろう。だけど貯金はあるし、それで買おうかと思い直したが。


「今あの車買ったら、アナタの寿命は縮んじゃいますよ」


「え?」輝美は箸を取り落とした。

「ま、まさか事故に遭うとか?」


「そうじゃないんですが、98才まで生きられる寿命が96才になっちゃいます」

「……その微妙な差は何? 車は関係あるの?」

「そこの因果関係は何とも。人間の寿命って色んな要素が複雑に絡み合うので、ワタシにもよく分からないんですよ。それに、ホントはこの事って、本人に教えたらダメなんですけど」


「……」

「あ、アズラエルさんには内緒にしてね。職域侵犯だって怒られちゃうから」

「……大丈夫よ。知り合いじゃないから」


 輝美は脱力した。



 智明は、砂羽と住んでいるマンションへと向かっていた。

 腹の奥が煮えくり返っていた。その煮えたぎるものをぶつけ、どこかへ逃げ出したかったが、実際にどうすればいいのか分からない。

 これだけは言えた。輝美はもう駄目だ。


「願い下げだ、あんな女」


 いつか復讐してやる、痛い目に遭わせてやると思いながら、部屋に入る。

 砂羽と結婚なんて、絶対に御免だった。別れるのが一番だが、かといってこの部屋を出て、独り暮らしをする金も無い。だが窮屈な実家に戻りたくはない。


 床に落ちていたバッグを踏んだ。

 尖った金具が足裏にめり込み、智明は悲鳴を上げた。


「サワ!」


 バスルームのドアが半分開き、電気が点いている。

 智明は、風呂場のドアを叩きつけるように開けた。


「おい、部屋を……」


 凍り付いた。

 湯船の中は真っ赤に染まっていた。生臭い鉄の匂いがたちこめるなかに、白いものが、砂羽が浸かっている。


「……おい……」


 見ているものが、その意味が頭に追いつかない。

 智明はバスタブに駆け寄り、サワを引き上げた。

 肌の感触と温度は、すでに死人だった。

 サワの顔を見た。智明は悲鳴を上げた。


 サワは目を開き、三日月形の笑いに固まった顔で死んでいた。

 手が離れた。赤い水しぶきと共に砂羽が沈む。そして浮かばない。


「あ、わ、あ、う」


 笑顔の砂羽から逃げ出したい。何があった? 笑顔の自殺、結婚、混乱した単語と予感が頭を埋め尽くし、オーバーフローが起きた。

 砂羽が沈むバスタブの前に座り込む。


 床にあふれた赤い水はズボンを濡らし、バスタブの中で砂羽の髪の毛がゆらりゆらりと蠢いている。

 智明は頭を抱え、塗れた床にうずくまった。畜生、そう叫んだ時だった。


 ともくん。


 声がした。


 ともくん。


 水の音が動く。


「……さわ?」智明は顔を上げた。

 不吉が背中にべとりと貼りついた。

 蘇生したのではないと、本能が怯えている。

 砂羽の顔が水から浮き上がった。


 浮いた首が回り、智明と目が合った。にんまりと歪んだ死に顔のままだった。

 ゆらりとゆらりと、身体が湯舟に立つ。

 濡れた髪が、べったりと全身にへばりつき、赤い水が全身から滴り落ちる。

 立ち上がった死体が、嬉々と光る眼で両腕をカクカクと伸ばす。


 ともくん、死体が言った。

 智明の咽喉は凍った。悲鳴を上げようとしても声帯が動かない。目の前にいるのは、醜悪な笑顔で、赤い水を全身から滴らせた化け物だった。


 逃げ出した。躓いて転んだ智明の背中に、重いものがずんとおぶさった。

 後ろから回ってきた濡れた手が、べったりと智明の顔を撫でる。

 ともくん、あいしてる。


「あああああああああっ」


 濡れた死体が、自分の背中にべったりと貼りついて服を濡らす。

 砂羽の両腕は背後から智明に絡みついて離れない。ぱっくりと切れている両手首に、智明は無声の絶叫を上げた。


 濡れた砂羽の死体を背負い、智明は部屋から飛び出した。

 ずぶぬれの全裸を背負い、狂ったように走る智明に、すれ違ったマンションの住人が悲鳴を上げる。

 あちこちから上がる悲鳴に追いかけられながら、智明は走る。


 ともくん、あいしている。あいしてるあいしてるあいしてる……背中の重みと砂羽の声に泣き叫びながら、智明は駆け下りていた非常階段を踏み外した。



 ――話は、それで良いんですか?


 白い部屋。目の前にいる2人の私服刑事に向かって、智明は頷いた。

 階段から落ちて、気が付いたら病院にいた。

 階段から転がり落ち、気を失ったのだという。


 左腕と右足は複雑骨折で、手術が必要だとギプスをされていた。

 体調が落ち着いたあと、刑事2人が事情聴取だと訪ねてきた。

 智明がこれまでの経緯を、黙って聞いていた刑事は言った。


「遺書は見つかりませんし、亡くなった下木砂羽さんの手首に、ほとんどの自殺者に見られるためらい傷はありませんでした。それでも暴行の形跡やバスルームで誰かと争った跡もないので、状況から見ても自殺の線だろうとみて……」

「そんなのは、どうでもいいよ……」


 智明は唇を震わせて叫んだ。


「あんたたち、コイツが見えないのか?」


 濡れた砂羽が、己の首にしがみついている。濡れた体から滴る水が、智明の寝間着に染み込んでぐっしょりと湿らせている。

 砂羽を通じて濡れる寝間着が素肌にへばりつく。

 生臭い鉄が匂う女の冷えた腕に、智明は身を震わせながら、看護婦と刑事たちに訴えた。


「なあ、俺の背中が見えないのか。サワを剥してくれ、コイツがへばりついて、寝間着まで濡らしやがるんだよ。頼む、濡れて気持ち悪いんだ、背中を拭いてくれ、新しい寝間着に着替えさせてくれよお!」


 目の前の3人は、困惑した顔で互いを見会う。

 看護婦がわざとらしい笑みを浮かべた。


「背中もなにも、何もないし、どこも濡れてなんかいませんよ。今の寝間着だって、洗濯して乾いたものですよ」


 刑事2人が目配せし合う。

 背中を見せて、病室の外へ向かう3人へ、智明は悲鳴を上げた。


「何でだよ? あんたたち、コイツが見えないのか? どうにかしてくれ、たすけてくれ、たのむよどけてくれよ、たすけてくれ、たすけてくれよおぉ!」


 ――ともくんあいしてる。


 砂羽は、ずっと耳元で囁き続けている。


 病室から廊下に出た2人の刑事は、歩きながら上田智明の担当の看護婦に聞いた。


「意識が戻ってから、彼はずっとああなんですか?」

「そうなんです。死んだ彼女が背中にべったりくっついているって、ずっと」

「……」


 智明の事情聴取をしていた段階から、気味悪そうな顔をしていた刑事2人が顔を見合わせて、なあ、とかうんと頷き合っている。

 てくてく歩きながら、看護婦は2人の刑事を見上げて言った。


「おや、刑事さんこういうの苦手? 意外ですね、人の業と負を扱う商売なのに」

「看護婦さん、気味悪くないんですか?」

「いーえ、それに」


 タヌキに似た看護婦は、ほほほと笑った。


「ホント、お似合いのカップルでしたからね。あれも一種の男女のカタチですよ」


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禍の贈り物 洞見多琴果 @horamita-kotoka

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