第2話

 夜になった。

 春の柔らかな日差しが消えると、さすがに冷えてくる。


 2人が登った雑居ビルの屋上は狭い。


 長らく使われていないであろう物干し台と、物干し竿がぽつんとあるだけだった。

 空調機の室外機もあったが、動いていない。


 住居ではなく、商業施設なのだろう。警備員がいないのが幸いだった。


 シュウと名乗った少女は薄手の着物一枚だ。周防は仕方なく、先ほど少し役に立った羽織を彼女の身体にかける。


「ありがとう」

 返事の代わりに軽くうなずきつつ、周防は彼女がしていたようにフェンスに鼻の上だけ出して周囲を見た。


 相変わらず追手の気配はない。


「ねえ」

「ん」

 周防は周囲から視線を外さないまま返事をする。


「何も訊かないんだね」

「名前はさっき聞いたろ」

「いやいや。普通、何で追われてたんだとかさ。これだけかわいいと、彼氏いるのか?とかさ、聞くでしょ」


 では訊こうか。

「何で追われてたんだ」

「答えたくない」

「彼氏はいるのか?」

「秘密」


 だからだよ。

 めんどくさそうだから訊かなかったんだ。

 そう言って周防も座り込む。


「訊き方が棒読みだし」

 シュウが文句を言いながら「でも、ありがと」と微笑む。


「今度は何の礼だよ」

「何も訊かないことに」


 ああ、そういうことか。


 しかし、静かだ。

 静かすぎる。


 まだ虫が鳴く季節ではないが、その場にいる生命体が別の生物に警戒しているかのようだ。

 周防は、それによって人の気配らしきものを感じていた。

 薄暗くはあったが、周囲のビルにある広告塔の灯りもあり、非常階段入り口のドアがゆっくりと開くのがわかった。


 のそのそと人の塊が現れる。

 1人ではない。


 昼間の人物はいなさそうだ。

 見えるのが人影だけなので、挙措が違うのがよくわかる。では別のグループなのか。などと考えたが、今はどうでもいい。


 5、6人というところか。


 先手を打つ。

 周防がそろそろと近づき、彼らの郡中に距離を一気に詰めた。

 長い物干し竿を横一閃にスイング。

 誰かの後頭部に竿の先を入れた。1人目。


 相手集団も気付くが、握り直した竿を近くの身体に向けて勢いよく突く。

 うめく声と共にくの字に折れた気配を感じると、腹にでも当たったか。振り下ろしている時間が惜しいので、竿を遠くに捨てて近づき、くの字に折れた者のむき出しの首筋に手刀を入れた。2人目。


 3人目に向かい合う頃になると、残った2人が周防の背後を等間隔で包囲していた。竿はもう手元に無い。


 唐突に。

 包囲が崩れた。

 背後の1人が声もなく昏倒する。


 何があった。


 わからないが、目の前の2人に集中する。

 2人は長い木刀のような得物を持っていたが、長い方が助かる。間合いを詰めやすいからだ。

 男が木刀を振りかぶった時には、もう1人の殺気も消えていた。4人目。

 振り下ろしてくる両手を片手で止めて受け流し、片膝をついて素早く相手の背後に回り込む。

 腹部に両手を回してクラッチし、投げを放とうと思ったその時。


 鈍い音とともに。

 男の力が抜けた。


 ガクッとうなだれる。


 目の前にあった相手の後頭部が前に倒れたので、視界が広がる。

 それが最後の5人目だった。


 そこには。

 少女がいた。


 暗い中でも、右足だけが異様に黒いのがわかる。


「ふう」


 彼女が息をついた。


「何やったんだ」

 周防の目が細くなる。


 少女はふうとため息をつき、「こういうことは訊くんだね」と足を上げた。


 彼女の右足には、金属製の膝当てのようなものが膝から下をすっぽりと覆っていた。道理で黒いはずである。


「蹴ったんだよ、これを着けて」

 と答えた。


 ほう。

 それで脚力が強く、足も速いわけだ。

 納得した。


「で、彼氏はいるのか」

「何で今それ訊くの」

「それだけ強くて彼氏もいれば、守る必要もないだろ」

「なるほど。確かにね」


 彼女が近づいてきて、じっと顔を寄せる。

「彼氏、いないよ」


 そうか。

 まあ、それだけ気が強そうならな。


 と言いかけたが、やめた。6人目にはなりたくない。


「今、何か言おうとしてやめたでしょ」

 彼女は少し不機嫌そうに眉間にシワを寄せて続ける。

「でも、もう少しそばにいて。手伝ってほしい」

 様子が変わる。彼女は真面目だ。


「何をするんだ?」

「弟を取り返す」

 周防は軽くうなずく。

「わかった」

「軽いね。ヒマなの?」

「違う。奇遇なことに、俺は娘を取り返さないといけない」


 それを聞いて、彼女の表情が安堵(あんど)からか明るくなった。


「ほんと?周防さん娘いるの?」

「ウソ言ってどうする」

「奥さんはどうしてるの」

「死んだよ。娘を産んだ時に」

 少し表情が翳った。感受性の強い子なのだろう。


「ごめんなさい」

「気にするな。ずいぶん前の話だ」

「あたしも親がいなくて。弟だけなんだよ」

「そうか。大事な兄弟なんだな」

 うん。と、それを聞いてシュウは強くうなずく。

「事情は同じだね」

「ああ」


 少し間が空いた。

 シュウは何事かを言おうとして迷っているのか。周防をチラチラと見ている。


「あたし」

「ん?」

 周防は、きちんとシュウに向き直る。


「ほんとはね」

「ほんとは?」

 ひと呼吸おいて、彼女は口を開いた。

「美香って言うんだ」

「へえ」


 少しはにかんだ表情に、再び眉間にシワが寄る。怒りのスイッチが入るのが速い。


「ちょっと。興味ないの?」

「いや、女の子なのにシュウって名前はどうよって思ってはいたんだけどもね」


「シュウってのは本当の名前じゃないけど、あたしのあだ名なんだ」

「ふうん。どんなきっかけでそうなったんだ」

 シュウがそれを聞いて少し目をむいた。


「そこは気になるんだね。周防さん、興味持つポイントが少しおかしいよ」

 ふふっと笑いつつ、彼女は答えた。やたらと短気で気が強いが、笑顔はとても魅力的だなと感じた。

「うるさいな。人の勝手だ」


「シュウは、蹴撃のシュウってことなんだよ」

 周防は、再び納得した。


 2人で笑った。

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