第九話 忍の秘密2
中学の三年間は忍にとって生き地獄だった。無邪気に自分の足元にまとわりつく一遍を弟として可愛いと思わない訳ではない。
しかし情愛と同時にそれ以上の嫉妬と憎しみを感じてしまう内なる自分の声にどうしても抗えない。そんな自分が心底嫌いになり、毀損された自尊心を回復できないまま忍の病状は更に悪化の一途を辿る。
そしてついに不登校になってしまい自分の部屋から一歩も出なくなった忍を、両親は近隣の目を気にして忌む様に県外の全寮制の高校に進学させた。
もはや一遍が産まれるまでのあの忍は何処にも居ない。両親の寵愛は益々と一遍に集まり、忍は自分の存在意義を終に無くしてしまったのだ。
高校に入学して二年間、一度も帰郷することなく家族から離れて暮らす中、環境が改善された所為か忍の病状は小康状態を取り戻した。
少し自分を取り戻しかけると両親に対する罪悪感や、何より一遍に対する申し訳ない気持ちが湧いて来て忍は最後の夏休みに帰郷を決意する。
しかしそれがいけなかった。
この病に無知なのは両親だけではなく忍も同様だった。ちゃんとした治療もカウンセリングも受けない状態で元の環境戻る事が如何に危険であるかを知らなかったのだ。
懐かしい玄関を開けると両親と一遍がそこに立っていた。
「おねぇたん、おねぇたん、おかえりぇ」
嬉しいのか悲しいのか分からないその溢れる様な感情を拙い言葉で必死に伝えようとする一遍が忍に抱きついて来る。
「ただいま、一遍、ただいま、お父さん、お母さん」
忍は一遍を抱き上げ胸にぎゅっと抱きながら両親を見る。
両親は笑顔だった。
しかしその笑顔にふんだんに含まれる猜疑心は痛いほど忍に伝わって来る。
両親はなにも変わっていなかった。
変わったのは、これほど可愛い生き物がこの世にあるのかと云うほど愛らしく成長した一遍と、一遍の物で溢れ自分の物が殆ど処分されてしまった。以前の自分の部屋である。
もうここに自分の居場所は無いのだ。
あるのは悪魔の様に可愛い一遍と、それを溺愛するだけの両親。
もう誰の愛も伝わらない。もう誰にも愛を注げない。
「お前さえ・・・居なければ・・・」
落雷の様に大きな衝撃と共にその言葉が忍を支配する。
そこから先はほとんど記憶が無い。
あの時、土石流の様に吹き出した感情が何を壊し、何を踏み躙り、どんな罵詈雑言を吐きあの場所を飛び出したのか全く記憶には無いのだ。
家を飛び出し学校にも戻らず、何人もの悪意ある大人に拾われては捨てられ拾われては捨てられ、そんな事を繰り返すうち、自分は誰なのかすらの認識も出来なくなっていく。
「私は誰・・・」
そう思ったのが最後だった。そして、それが今の自分の始まりだった。
それの日から、忍は自分の中に何か得体の知れない
憑依、したのだろうか、否、自分の中に別の何かが産まれたのだろうか・・・
それは判然としない、しかし、何かが「居る」その感覚、その違和感は現実のものでまごう事なき忍の実感である。
それ以来である。
これまで忍を苦しめた鬱病が
あの不動産会社の社長に拾われたころには、忍は既に患っていた。ゴキブリと云う万人が嫌うあの昆虫に誰にも注げない愛情の全部を注ぎ愛した。そしてそれと同時に忍がこの世のものではない者を見たり感じたり、この世のものではない者の声を聞いたりするようになった。
「すいませーん、絹ごし豆腐を二丁、下さい」
忍はあの録音テープの笛の根を鳴らしながらゆっくりと走る移動販売車を呼び止め豆腐を購入した。そしてそれを持ちキッチンに立つ。
「ミンチが有るし、今日は麻婆豆腐にしよう。一平くん辛いの平気かなぁ」
一平の喜ぶ顔を想像すると少し浮き浮きとした気持ちになる。
思えば最初に一平に叱られた時、今まではどんなに乗り越えようとしても乗り越えられなかった病の壁が彼の声を聞いているだけで驚くほど低くなった気がした。
徹頭徹尾に前向きで優しくて、何時だって誰にだって、曲がった事や悪い奴らに負けない一平、そんな彼の傍に居ると、自分の中の闇がどんどんと晴れて行く様な気がした。
「もしかして辛いの駄目だったら困るから、豆板醤は少ないめにしてっと」
ひき肉を炒め調味料を辛くならないように整える。
「よーし、お豆腐を投入!」
普段なら見える、聞こえる忍である。しかしその禍々しき者は用意周到に気配を消していた。
自分を無数の粒子に分け、フライパンから立ち上る煙や匂い、空気に紛れ、静かに、静かに、忍の中に浸透していく。
「え・・・?なに?・・・」
忍が気付いた時、既にその禍々しき者のサイレントインベーションは完了していた。忍の意識の中心でそれは起こっていた。コーヒーに混じるミルクの様に、もう二度と分けられはしない変化が、忍の根幹に侵入した者の手によって、忍の根幹を
「い、嫌・・・嫌ぁああぁぁぁーーー!」
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