第7話       忍の秘密

「ペンペン、一平君、遅いね」


 そう言うと忍はペンペンを飼育ケースの中にそっと降ろした。そして入念に手洗いをし、これといった献立を思いついたわけではないが、漠然と夕食の支度をしようと手始めに米を洗い炊飯器のスイッチを押す。


 家事は嫌いではない。否、好きとか嫌いとかではなく、家事にまつわる事は必要に迫られ小さな頃から忙しい母親を手伝っていた関係でもはや何の抵抗も感じない。


「ぷぉーぷぅー、ぷぉーぷぅー、」


 忍が冷蔵庫を開け食材を確認していると、換気の為に少し開いている小窓から豆腐売りのあの笛の音が聴こえた来た。


「えっ?今時、豆腐売りなんて・・・」


 忍は慌てて開いていた冷蔵庫の扉を閉め、玄関でサンダルを引っ掻け、少し前のめりになりながら外に出てその笛の音のなる方に目を向ける。


「なんだ、録音か」


 それは豆腐の移動販売をしている業者がスピーカーで鳴らす録音テープの音だった。


 それでもこんな雀色の空の下であの笛の音を聞くと、忍の胸には郷愁が込み上げてくる。しかしそれはけして良い思い出ではなく、忍にとって忘れてしまいたい、もう触れたくない苦い思い出だった。


 忍の郷里は岡山県の田舎町、両親が経営する豆腐店の長女として彼女はこの世に生を受ける。


 両親は深夜の二時に起きだし、そこから大豆を引き、豆乳を絞り、手作りの豆腐を二人で造り始める。朝の八時には店頭の水槽に豆腐が並び、それから引っ切り無しに客が訪れ、昼頃まで休む間もなく両親は働いていた。


 やっと一段落でして店で賄いを作り昼食、それから父は売れ残った豆腐をバイクに誂えた水槽に移し、あの笛を吹き鳴らしながら少し遠くの村落に行商に出掛けて行く。そして父が帰って来るのが、丁度こんな風に空が赤く妬ける夕暮れ時だったのだ。


 そんな忙しい両親でも忍は愛されて育った。忍も大好きな両親の為に少しでも役に立とうと懸命に自分で出来る事は自分でやり、十歳の頃には両親を助ける為に家事を担うまでに成長していた。そんなある日、母が懐妊したのだと忍は両親に聞かされる。


 忍が産まれてから十年。もう次の子供を諦めていた両親にとってこの懐妊が如何に幸運だったかと云うのは、満面の笑顔でそれを忍に告げる両親の様子を見れば幼い忍にも十分に理解出来た。そしてまた忍も、自分に弟が出来る事をとてもとても喜んだ。


 やがて大きな期待と愛に迎えられ弟が生まれる。父は後継ぎの男の子が産まれた事を殊更に喜んで、踊念仏の一遍上人から名前を戴き、弟に一遍と名付けた。


 だが、両親の歓喜とは裏腹に、忍にとってそれは残酷な未来の幕開けだったのだ。


 忙しい両親は更に忙しくなった。


 そしてそのしわ寄せは全て忍にのしかかって来るようになる。


 弟が産まれるまでは自分を文字通り目に入れても痛くないほど可愛がってくれていた父の愛情は、その全てを弟によって盗まれた。そしてそれはまた母の愛情も然りである。


 大人勝りに家事を熟せる事も忍にとっては禍だった。家事に商売の手伝い、さらに学校の勉強と、弟が産まれるまでは愛娘だった彼女の立ち位置は、やがて日々の煩雑さに、そこに気の回らぬ両親によって下僕の地位に落とされてしまった。忍はどんどんとその重責に追い詰められていったのである。


 そんな忍の張り詰めた心の糸が音を立てて切れたのは、中学生になった十三歳の時だった。入学式を終えて直ぐのある朝、目覚めると忍は言葉にならない圧倒的な違和感に襲われた。


 いつもなら忙しい両親の為に朝の四時には起きだし朝食を作るのがこの頃の忍の日課だった。起きて一番に炊飯器で米を炊き、それから顔を洗い歯を磨き身支度を整える。自宅の離れにある父の作業場に出向き作り立ての豆腐を一丁持ち帰りそれとネギを切り味噌汁を作る。冷凍の切り身の魚を解凍し、それを焼いた焼き魚に香の物を少し添えれば出来上がり。その作業はもう身に沁みついていて頭で考える必要などは無く、一連の作業を終えるのに米が炊き上がる40分あれば十分だった。


 ところがその朝は違った。何時もの様に身体が動かないのである。否、身体が動かないと云うよりは、思考が動かない感じだった。


 朝の支度をしなければと云う意思は有る。しかし、その意思が、まるで身体に伝わらずコマ送りで映画を見る様にもどかしいのだ。


 ・・・これは・・・いったい・・・なんなの・・・


 うつ病だった。


 今なら心療内科に行けばその症状は簡単にうつ病である事が診断できる。しかし当時はまだうつ病と云うのが社会で認識を得ておらず、増して十三歳の子供がうつ病になるなどこんな田舎町ではまるで聞かない話だった。


 忍は人が変わった様にそれまでの全てを失った。家事も商売の手伝いも勉強も何もしない、否、出来ない。そんな忍を両親は暫くは反抗期でも来たのかと放置した。だが忍の病状は日増しに悪化していくばかりだった。


 忍の状態が病によるものだと云う認識の無い両親は部屋に閉じこもり何もしない忍に何時しか憤慨を抱き強い言葉で忍を責める様になって行った。


「お姉ちゃんのくせに」「お姉ちゃんなんだから」「根性が足りない」「努力が足りない」「どうして出来ない」「何故やらない」「前はこんな子じゃなかったのに」


 無知な両親の心無い言葉により蓄積される漠然とした悲しみ。自分のの思考が「死」に誘われ傾いていく恐怖。そんな負の螺旋を最後まで降りた時、そこに在ったのは、弟、一遍の存在だった。


「あいつの所為だ」「あいつさえ産まれて来なければ」「あいつさえ居なければ」


 

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