第5話 変貌

 閑静な住宅街を、息を切らしながら駆ける。焦りと暑さが発汗を促し、足跡の代わりに汗を零し染みをつくる。


 ―――間に合え…………早く!


 自分自身に、早く、と促し、龍華はアスファルトを蹴る。

 間に合う。ではない。間に合え、と。


「っ!」


 靴底を削るように、足の裏全体でブレーキをかける。目的地が見えた、というか到着したのだ。


 ―――間に合……わ、なかった……。


 視界には2人と1体。1体は白い化物。2人のうち1人は、嘔吐してフラフラと体を揺らす舞那。そしてもう1人は、舞那から十数メートル先に居る化物の隣で倒れる血まみれの杏樹。

 龍華は、白い化物を探していた。誰も傷付けない為に走った。息を切らし、髪を乱し、ダラダラと汗を流しながらも走った。しかし龍華は軽く項垂れた。名など知らぬが、杏樹を血に染めてしまったことを悔いて。


「…………許さない…………」


 そう言ったが、龍華はどうやら化物だけではなく、杏樹が血まみれになる前に到着できなかった自分自身も許さないつもりらしい。


「絶対に、殺す!」


 龍華は、左手に巻いた黒いリストバンドに触れた。リストバンドにはファスナーがついており、リストバンドの中には仕組まれたポケットがある。龍華はリストバンドの中に右手の指を入れ、収納してあったものを取り出した。

 それは、銀色のチェーン。シルバーアクセサリーのような銀色のチェーンの先に、アパタイトのような、青く透き通った不思議な形状のアクセサリーがついている。アクセサリーは、真上から見れば長方形だが、正面から見れば、少しだけ曲線を描いている。

 薄い、爪のような形状のアクセサリー。よく見ると先端の形状は僅かながら歪で、武士が腕に装う篭手に酷似していた。


色彩しきさい変化へんげ!」


 色彩変化。そう呟くと、刹那、龍華の体が青く眩い光を纏った。光っていた時間は1秒程度。龍華に背を向けていた舞那も、化物も、龍華の体を覆う青い光に気付き、咄嗟に龍華の居る方向へ振り向いた。


「ぁ……!」


 舞那の見る先。そこに居たのは、眼鏡を掛けた女子高生ではなく、舞那を黄色い化物から救った青髪の少女であった。


 ―――さっきの人!


 光を纏い、1秒程度でその光を弾いた龍華。1秒の間に、龍華の姿は変わっていた。

 制服のシャツは、ノースリーブの黒いシャツへ。

 制服のスカートは、チェック柄のミニスカートへ。

 白いハイソックスは、紺色のニーソックスへ。

 学校指定の靴は、白と青のスニーカーへ。

 シャツの上には、青いパーカー。

 眼鏡は消え、リュックも消えた。

 茶色の瞳が深紅になった。

 桃色のアイシャドウが塗られた。

 そして、ダークネイビーの髪は、鮮やかな青色へと変化した。

 年齢や髪型、体格などは変わっていない。しかし服装と髪色、瞳の色などが変化したことで、龍華は別人と見間違う程に印象が変わった。


「今の光……まさか、魔法少女?」


 眩い光の後に姿を現す、化物と戦う青髪の少女。そのシチュエーションは、舞那の中では魔法少女や、魔法少女に似た"戦う少女達"と同列に感じられた。

 魔法少女か。舞那が呟くように問うと、龍華は歩を進め、舞那とすれ違う瞬間に答えた。


「魔法少女じゃない。私は色彩少女」


 色彩少女。聞き慣れない言葉であるが、少なくとも魔法少女とは異なるものであることは理解できた。


「走って逃げる体力が無いなら、そこに居て。逃げられる時に逃げて。とりあえず私は、あなたを死なせないよう努力するから」


 龍華が言った。

 事実、血塗れの杏樹を見た恐怖と、嘔吐したことによる多少の疲弊により、化物から走って逃げられる自信は無い。

 フラフラとしつつも立っていた舞那だったが、そこに居て、という言葉に押されたように、ぺたりとその場に座り込んだ。


 ―――できる限り早く終わらせる。


 龍華は動かす足を早め、白い化物のいる場所へ向かう。対する化物も、体の向きを変え、龍華を迎え撃つかのように若干姿勢を低くした。


「ひゅぅー……」


 歩きながら、龍華は微かに開いた唇から息を漏らす。この、口笛にも近いような吐息は龍華の癖で、何かを始める時や何かを終わらせた時に無意識にやってしまうらしい。

 徒歩は早歩きになり、早歩きは疾走へ。

 龍華は助走をつけ、化物の手前1m強程度の場所でアスファルトの地面を蹴った。

 左足でジャンプして、右足の裏を化物へ向ける龍華。初撃として放つ飛び蹴りに対し、化物は、右テレフォンパンチを放つ。

 パンッ。と言うよりも、ダンッ。速度の乗ったスニーカーの裏と、化物の大きな拳がぶつかった鈍い音が響く。


「ぅぐ!」

「っっ!!」


 龍華は、靴の裏に触れた化物の拳を踏み台に、逃げるように後方へ飛んだ。その寸前、龍華は痛みに悶えるかのような短い声を漏らし、化物はビクリと体を震わせた。

 後方へ飛んだ龍華は空中で体を捻り、衝撃を吸収するため、膝を軽く曲げながら着地した。しかし、


 ―――折れてはないんだろうけどった!


 龍華の右足に、ジンジンとした熱い痛みが響く。一応、龍華の右足の骨は無事である。ただ折れてない程度に激痛が走る。

 取り敢えず今のコンディションでは、ランニングはできないだろう。


 ―――痛いけど……死んでないから戦える!


 足の痛みに冷や汗を流しながらも、龍華は両足で地表に立ち、両肩から力を抜く。代わりに込めるべき力を両脚へ集中させた。


「せいっ!」


 龍華は蹴り技を中心に、アクロバティックな戦いを見せる。対する化物は、ボクサーのように拳による攻撃を主体とする。

 例えるならばボクシングvsムエタイなのだろう。しかしファイティングスタイルは決して両競技には当てはまらない。ただ、拳をメインに使うか、脚をメインに使うか。それが問題である。


「あん……じゅ……?」


 拳と脚をぶつけ合う両者。その向こう側、血を流して転がる杏樹に変化が起きていた。死んでいた、或いは死にかけだった杏樹が、唐突に起き上がったのだ。その様子に先に気付いたのは舞那で、龍華が気付いたのはその少し後だった。


 ―――伝染うつった……最悪。


 杏樹が起き上がった理由。龍華だけは理解しているが、舞那はただ、軽く歓喜していた。


「杏樹……生きてる……!」


 死んだと思われていた杏樹が立ち上がった。その瞬間、舞那は喜んだ。生きている、そう理解したからである。

 しかしその喜びは、すぐに消えた。


「…………え?」


 立ち上がった杏樹の胸には、穴が空いていた。その穴は決して綺麗な穴ではなく、化物に踏み潰され、結果的に空いた穴だった。

 穴からは赤黒い血が流れ……ていたが、血液以外に、緑の液体が新たに流れ始めた。溶けた抹茶アイスのように、ドロドロと、不気味な液体が。


 ―――緑か……やばい、勝てないかも……。


「あ、ぁあ、ぁぁ……」


 苦しむようであり、同時に、悲しげでもある呻き声を漏らす杏樹。

 胸の穴だけではなく、口、鼻、さらには涙腺、耳からまでも緑の液体が流れ始めた。

 緑の液体は杏樹の体を覆い、やがては顔の形さえ分からなくさせるほどに溢れ、人のシルエットから、出来の悪い泥人形のようなシルエットへ変えた。

 最初は溶けたアイスのような粘度だったが、徐々に粘度を増していき、最終的には溶けて固まった蝋のような硬さになっていた。その頃には、杏樹のシルエットは無く、全長も、杏樹の身長を超えていた。


「杏樹……いったい…………っ!!」


 それは突然だった。

 杏樹の体を覆っていた緑の固形物は、一瞬にして液体へ戻り、バシャバシャと音を立てながらアスファルト上に零れた。

 そして、さながら出産直後であるかのように、全身ずぶ濡れの、緑の化物が姿を現した。

 先程まで杏樹が立っていたその場所に、新たな化物が立っていたのだ。


「嘘でしょ……杏樹!」


 この目で見たのだから、疑いようが無い。寧ろ、いっそ全てを否定したい気分である。しかし否定などできない。自分の目を疑えない。

 故に理解した。杏樹は、あの化物になってしまったのだと。

 黄色の化物と出会い、次は白い化物と出会った。そして緑の化物の瞬間を目撃し、舞那は、絶望した。



「…………え?」


 絶望の中、舞那は気付いた。

 緑の化物は、微動だにしない。それだけではない。

 白い化物も、さらには龍華でさえも、全く動かなくなってしまった。

 動かなくなった。のではない。止まったのだ。

 舞那以外の、全ての時間が止まっているのだ。

 龍華も、それ以外の人々も、化物も、雲も、鳥も、猫も、何もかもが止まってしまっている。

 動いていたものの全てが動かなくなり、聞こえていたものの全てが聞こえなくなった。

 絶望していたが、舞那の思考は困惑へと切り替わった。しかしその直後、困惑を更に加速させる出来事に至った。


「僕が時間を止めた。2人で会話をするには、状況が少々悪いからね」


 止まってしまった時間の中で、舞那の隣に、誰かが居た。先程までは誰も居なかった。足音も聞こえなかった。唐突に現れたのか、或いは、視認できなかっただけで始めからそこに居たのか。それさえも分からない程に、酷く不自然であり、酷く自然的に、そこに居た。


「誰!?」


 そこに居たのは女性。というより、少女だった。舞那と歳の近そうな、背の低い少女である。

 背中の半分程度の位置にまで伸びた淡い水色の髪。透明感のある桃色の瞳。微かに香るバニラの香り。白い肌と、細い四肢。華奢な体を包む白の病衣。

 低身長と童顔が作用し、外見だけ加味すれば中学生くらいにも見える。しかし外見とは裏腹に、少女の声は高校生か、或いはそれ以上の年齢の声にも聞こえる。少年に例えれば過言になるが、それでも、少なくとも外見以上に声は低かった。


「はじめまして。僕はアイリス。あ、先に言っておくが、僕は男の娘じゃない。この声と一人称で疑われる可能性もあるからね」


 アイリスと名乗るその少女曰く、この時間停止は、アイリスの仕業らしい。アイリスが一体何者なのか。それ以前に、色彩少女とは何か、あの化物は何なのか。疑問は尽きないが、一先ず舞那は、この会話の主導権をアイリスへ握らせた。


「さて、まずは君の確認だが。名前は木場舞那。12月24日生まれのAB型。趣味はアニメとゲーム、及び特撮ヒーロー。母は既に他界し、家族は父のみ。また父は出版社に勤め、家に帰れない日もある為、1人の時間が比較的長い。ヒーローに憧れを抱いた時期もあったが、環境と経過がその羨望を退色させた。さて、これで君のプロフィールは合っているかな?」


 唐突なプロフィール確認をされた舞那は、背中の表面を百足ムカデ蛞蝓ナメクジが這ったかのような、寒気を超えた嫌悪を肌で感じた。

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