緑と舞那

第4話 鮮血

 木場きば舞那まいなは、自室のベッドに仰向けで転がり、呆然としていた。化物に襲われた恐怖が未だ失せず、首を掴まれた感覚が未だ消えない。

 困惑は思考能力を鈍らせる。これまでの人生の中で間違いなく最高位に立つ今日の困惑は、思考どころか感情さえも鈍らせてしまったらしい。


 ―――生きてる……よね、私。


 青髪の女性、改め龍華が救ってくれた。故に今、呆然としつつも、舞那はこうして生きている。そんなことをゆったりと再確認しながら、舞那は枕に乗せた頭を傾けた。


 ―――さっきの人が助けてくれなきゃ、私、死んでたのかな?


 そう考える舞那の表情は落ち着いており、どう見ても、化物に殺されかけた直後の人間の顔ではない。

 そもそも、舞那は落ち着きすぎている。化物に追われている最中は困惑していたものの、龍華に救われ帰宅した直後から、抱いていた困惑は跡形も無く消えていた。

 警察に通報、していない。

 知人に報告、していない。

 SNSに投稿、していない。

 部屋に籠り、困惑や恐怖の余韻にさえ浸らず、限りなく無感情に近いコンディションでゴロゴロとベッドの上を転がる。


 ―――まあでも、殺されたって理由があるなら、自殺よりは聞こえがいいかな。


 自殺願望は無い。死にたい訳でもない。

 舞那はただ、自分が生きている理由というものが分からないだけなのだ。

 生まれ持った天才的頭脳など無いし、アスリート街道まっしぐらな運動能力も無く、作家になれるような想像力も、何も無い。あるのは3大欲求と、趣味に向ける情熱だけ。

 社会の、誰かの役に立てる人間は、全人類の10割未満。誰の役にも立たない、木偶の坊同然の者が居る。舞那は自分自身をそう自虐し、存在意義の無い人生を歩む自分自身を嫌っている。

 誰も救ったことは無い。誰かの役に立ったことも無い。いつも誰かに救われ、誰かの手助けを受けてた。龍華のような、強い誰かに甘えて生きてきた。

 こんな自分が、生きていていいのだろうか。

 そんなことを考えることも少なくない。


「~♪」


 ベッドの上に置いていたスマートフォンが鳴いた。メッセージの通知音である。舞那は陰鬱とした思考を一旦止め、スマートフォンを手に取った。


『テスト勉強に飽きたなら遊びに行かない?』


 そうメッセージを送ってきたのは、クラスメイトの杏樹あんじゅ。舞那の数少ない友人の1人であり、舞那があまりストレスを抱かない人物の1人でもある。

 今週の舞那達はテスト期間で、午前授業。午後からはテスト勉強に費やす暇な時間になるはずだが、少なくとも舞那やその友人の中に、テスト勉強という苦行に時間を費やす者は居ない。


 ―――気分転換、かな。あの感覚、あの化物……忘れられるはずなんてないけどね。


『行く』


 意思表示は、行く、という2文字。そっけないようなメッセージに見えるが、舞那はいつもこんな感じであるため、杏樹や他の友人達は一切気にしていない。


 ―――着替えるか。


 舞那は今、制服を着ている。このまま外に出ることもできるが、着替えることにした。何せ今はテスト期間中。制服のまま出歩けば、教員に見つかり注意される可能性がある。それに、化物から逃げる行程で汗を染み込ませてしまった。

 着替えるためにベッドから降りると、舞那は即座に洋服箪笥とクローゼットを開け、外出用の服を取り出す。

 制服のシャツを脱ぎ、アニメのキャラクターがプリントされたTシャツを着る。

 制服のスカートを脱ぎ、休日用の膝丈スカートを履く。

 制服のハイソックスを脱ぎ、くるぶし丈の靴下を履く。


 ―――待ち合わせ場所は……杏樹の家でいいかな。


 今から杏樹の家行く。

 そうメッセージを送り、舞那はスマートフォンをリュックに入れる。スマートフォンの他、財布やハンカチ、最低限の持ち物を詰め、舞那はリュックを背負った。




 杏樹の家は、舞那の自宅から徒歩10分程度の場所にある。普段ならば、イヤホンで音楽を聴きながら歩くのだが、今日、少なくとも現在いまは、音楽を聴きたくなるような気分ではなかった。

 気分転換。杏樹と遊びに行くこれからの時間は、飽く迄も気分転換である。化物に追われ、殺されかけ、現状の気分は最底辺。そんなコンディションでは、音楽など聴かない。聴きたいとも思わない。


 ―――外を歩くのがこんなにも怖いだなんて……。


 また、あの化物と遭遇してしまうかもしれない。そんな恐怖を抱えながら、舞那は杏樹の家に向かい歩く。僅かながらその脚の動きはいつもよりもぎこちなく、まるで家に帰りたいという気持ちが脚を重くしているようだった。


 ―――きっと大丈夫。さっきの人が、化物を退治してくれたはず。


 根拠は無い。舞那を逃がしてくれた龍華が、あの黄色い化物を駆除してくれた。そう思い込むだけでも、気持ちは随分と楽になる。

 後は、杏樹と会い、遊び、話し、この嫌な気持ちを払拭すれば、それでいい。


 ―――大丈夫……もう大丈夫。あの化物はもう居ない。


 自己暗示が、不安を緩和させる。

 着々と不安を和らげながら、着々と杏樹の自宅に近付く。


 ―――きっと大丈夫。もう、怖くなんて…………。


 外出直後よりも、不安感は緩和された気がした。しかしそんな矢先、舞那の視界に、映したくないようなものが映り込んでしまった。


「…………?」


 最初に認識したのは、赤色。赤黒く、鉄の匂いのする液体。

 次に認識したのは、赤い液体に体表を染められ、ぐったりと倒れた女性。

 次に認識したのは、その女性の真横に立つ、背の高い白い化物。

 最後に認識したのは、白い化物の体にべっとりと付着した、女性の鮮血。


 ―――杏樹…………!


 女性の髪は明るいブラウンで、白と黒のリボンでポニーテールを作っている。そのリボンはゴシック調で、酷く見覚えがある。否、見覚えがあるのはリボンだけではない。そのブラウンの髪、纏うTシャツ、履いた靴。それらの全てに見覚えがある。

 学友、杏樹である。

 アスファルトの表面に転がる女性は、これから共に遊ぼうと約束をしていた友人、杏樹である。

 そしてその隣に立つ化物は、色こそ違えど、昼に遭遇した化物とほぼ同一だった。


 ―――あれ、またあの化物…………。


 恐怖心が蘇る。

 倒れた杏樹。

 アスファルトに溜まる鮮血。

 長身の、化物。

 恐怖が肺の中の空気と混ざり、酸素と共に血管の中を駆け巡る。体全体、体内に至るまで、恐怖の味が染みた。


「……、…………、……っ!」


 背中から登頂にかけて、瞬間的に微量な電気が走ったような、そんな気がした。

 荒くなる呼吸の先、舞那は右手で口を覆った。喉の奥の奥から込み上げてくる、不愉快な味と匂いを抑えるように。

 血を見たから、ではない。

 人が倒れているから、ではない。

 化物が居るから、ではない。

 化物の隣で杏樹が血を流し倒れているからこそ、舞那は嘔吐きかけた。

 ただ血を見ただけなら、ただ人が倒れているだけなら、ただ化物が居るだけならば、恐らくは嘔吐く程の不快感は込み上げてこなかっただろう。


 ―――杏樹、死んで、る、化物、怖い、どうしよ、逃げる、逃げれる、生きられる、死、ぬ、無理、怖い、気持ち悪い、吐きそう、死ぬ、怖い、死にたくない、怖い、死ぬ、嫌だ、嫌だ嫌だ、死にたくな……。


「ぅぷっ……うぇえ……」


 脚がふらつき、視界が歪み、気付けば舞那は、嘔吐していた。ビチャビチャとアスファルトを叩くのは殆どただの胃液であったが、それでも、舞那の体力と精神を削るには十分だった。


「ぅげ、ゲホッ! んぐっ」


 息は荒いまま。息を吸えば、胃液と唾液が絡まり噎せる。かと言って息を吐けば、胃液と唾液が絡まりまた嘔吐く。

 最悪なコンディションな舞那だが、どうやら、コンディションだけでなく状況も悪いらしい。

 舞那が嘔吐し噎せる音に気付き、杏樹を見下していた化物は、その視線を舞那の方へ移した。

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