第一幕 集う少女達

邂逅と化物

第2話 逃走

 少女は、呼吸を極限まで抑え、幾台も並ぶ車と車の隙間に隠れていた。

 少女のひたいには汗が滲み、大粒になった雫が頬を伝って流れ落ちる。また、背中や腋から溢れる汗は制服のシャツを濡らし、絶妙な不快感が体内を駆け巡っていた。


 ―――警察に通報……いや、警察も対処できないって!


 車の影に潜み、少女はその脳をいつも以上に稼働させる。何が起こったのか。自分が今、どんな状況に置かれているのか。現状を打破する方法はあるのか。

 ただ、高くなりつつある気温と、鼓動を加速させる緊張感がその思考を阻害し、集中力を汗と共に体外へ流してしまう。


 ―――そもそも何あれ! 人間? いやどう考えたって違うでしょ! 500パーセント人型の化物バケモンじゃん!


 遡ること数分前。

 少女は此処とは別の場所で、謎の存在との邂逅を果たしていた。

 午前授業を終え、昼から何をしようかと考えながら歩いていた時、少女は小さな公園の前を通りかかった。その際、少女は不意に公園へ目をやると、滑り台の前に"何か"が立っているのを確認した。

 それは、シルエットだけ見れば人間だった。身長は180センチくらいであろうか、背丈は高かった。体格と肉付き、骨格から見て、性別は恐らく男性。衣類は纏っていない。四肢や頭部はあるが、生殖器は無い。また体毛が生えていない。

 そしてなにより異様だったのは、その体色。皮膚の色は人間の色ではなく、黄色一色。かつてイエローモンキーという人種差別の蔑称が存在していたが、公園内に居る長身全裸男の肌は、本当にイエローだった。

 その化物を見た途端、少女の中に人生最大の恐怖が込み上げてきた。あれは人ではない。本能的に理解したのだ。

 少女は、逃げようと足を踏み出した。その直後、黄色い化物も足を踏み出し、少女を見つめた。その目に瞳は無いようだが、顔の向きと体の向きが、"お前を狙っている"と無言で訴えていた。

 少女は逃げた。ひたすら、街の中を走った。後ろへは振り向かなかった。追ってくる化物を見てしまえば、きっと恐怖で脚がすくんでしまうから。

 ミディアムロングに伸ばした癖の無い黒髪も、逃げる最中に浴びる向かい風で乱れ、髪型が逃走前よりも多少荒々しくなってしまった。

 そして暫く逃げ、今に至る。


 ―――あれ、捕まったら殺される? 私死ぬの? てかあの化物は何なの!?


 打開策など思いつかない。今はひたすら逃げるしかない。



「…………ぁ…………」


 恐怖で体が震えていた故か、或いは思考を巡らせていたが故か、少女の耳は、その音を聴き逃していた。

 黄色い化物の足音である。

 車と車の隙間に隠れていた少女だが、そんな少女を見下すように、黄色い化物が隙間の前に立っていた。


 ―――逃げ、なきゃ!


 少女は、化物が居る方向とは逆に進んだ。しかし向かう先には、駐車場を囲むブロック塀。乗り越えられない高さでは無かったが、少女がその塀を乗り越えるために費やす僅かな時間は、化物にとっては十分な余裕だった。


「っ!」


 化物は車の隙間をするりと抜けると、ブロック塀に手をかけていた少女の首を掴んだ。太い指が少女の首に食込み、血管を押さえつけられる感覚が脳髄に響いた。


 ―――ヤバ……ホントに死ぬ……!


 走馬灯は過ぎらない。死の覚悟もしない。ただ、怖い。しかし少女の抱く恐怖は、案外簡単に解消されることとなる。


「ようやく捕まえた」

「っ!」


 それは、明らかに化物の声では無かった。男性の形状をした化物からは出せないような、若い女性の声である。

 声が聞こえると早々に、少女の首を掴んでいた化物の手から力が抜けていき、10秒もしないうちに少女の首は自由になった。

 解放された少女は軽く噎せた後、眼前のブロック塀に手を付き、背後の様子を確認した。


「何……何なの……?」


 化物に顔面はあるが、表情は無い。故に今、どのような心境なのか、そんなことは分からない。ただ、振り返り、一瞬で理解できたのは、突如現れた謎の女性がそこに居るということ。女性が、車の天面に登り、化物の首を掴んでいるということ。


「今すぐ逃げて。この場に居ると危ない」


 首を掴む女性は、髪が青かった。染めたような髪色では無い。不自然なほどに自然な色付きの、ウィッグよりも圧倒的にリアルな髪質。また、目元を彩るシャドウはピンクで、ピンクの真下にある瞳は深紅。寒色の髪に対する暖色の目元という、特徴的な容姿をしている。

 そんな青髪の女性は、少女に逃げるよう促した。

 青髪の女性は、少女を助けたのだ。


「……は、はい!」


 言われるがまま、少女はブロック塀を乗り越え、即座に逃走した。

 逃げる中、少女の脳内はスクランブルエッグ以上に掻き回されていた。黄色一色の化物と、青髪の女性。非現実的かもしれない現実に背を向けて走りながら、少女は、自身が目にした光景の異様さに鳥肌を立てた。

 逃げる最中は振り返らない。黄色い化物と青髪の女性がどうなったのか、そんなものは確認しない。今はただひたすら逃げる。

 汗を流しながら走る。青春の一コマと見間違うようなシチュエーションであるが、少女の流す汗は、決して気持ちのいいものではなかった。

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