Ne gustaris quibus nigra est cauda.

 筋肉痛とあくびをこらえながらジャックが正面玄関ファサードの脇に立っていると、暗がりの中を半マイルほど向こうから、カンテラらしきあかりがちらちらとこちらに近づいてくるのが見えた。速度からして馬車であるのは間違いなかった。

 やがて、二頭立ての箱馬車は屋敷の正面に横付けした。

 紋章も何もない、簡素な黒塗りの馬車。御者の他にはフットマンの姿もない。荷物といえば、屋根の荷台に括りつけてあるトランク三つだけ。

 ジャックが近寄ってドアの把手に手をかけようとしたのとほぼ同時に扉が開いた。

 乗っていたのはこれまた男がひとりだけ。

 年の頃は主人より少し年下、四十代も半ばだろうか。夜とほとんど同化しているような漆黒のフロックコートをまとった偉丈夫だ。唯一の色味といえば、闇の中の月のように青白く浮かび上がるおもてと、きれいに整えられた、ゆたかなくすんだ金髪アッシュブロンド

 男は馬車から降りたと思ったらくるりと向きを変え、御者台に座ったままの御者に向かい、

「今からきっかり三日後の同じ時刻に迎えに来てほしい」

「そりゃまた急なとんぼ返りになりまさァね、旦那」雇われ御者はいささか面食らったように言って、顎髭を掻いた。「村からここまでは――ご存知でしょうがだいぶ距離がありますんでね、おまけに夜道じゃァ……危なっかしくて」

「そんなことはわかっている」

 御者が本気で懸念しているのか、料金を吊り上げようとしているのか、一切頓着していないような断固とした口調で男は言い、コートのポケットから無造作に何かを掴み出すと御者台の上に置いた。一瞬だが、座席の上で金色のものが光った。

「危険手当の前払いだと思えばいい。いいか、時間は絶対に守れ。酒場パブで飲んだくれて川に落ちたり日にちを間違えたりしようものなら承知しないからな」

 それから今度は、扉の陰に隠れるように立っていたジャックにはじめて気づいたとでもいうように、黒衣の紳士はグレーのをかるく見開いた。

「新顔だな」ブリジットと同じ、かすかなアイルランド訛り。

「はい」

「村の人間か?」

「いいえ、旦那様マイ・ロード

 相手はなぜだか嘆息した。

「今の主人に仕えてどれくらいになる?」

「半年ほど、でしょうか」

 男は屋敷のほうに視線をそらし、再び彼に戻した。

「見てのとおり私の荷物はこれだけだ。従者もいない。三日後にはここをつ。私の部屋へトランクを運んで――帰るときも手伝ってくれたら、半ソヴリンやろう」

 それは短期間の心づけとしては破格の金額だった。

「それから多少の身の回りの用を頼みたい」

「喜んで――と申し上げたいのですが、旦那様ミロード、お世話の件はご主人様にも聞いてみませんと」

 こんな格好はしてますが、俺は正式な従者ヴァレットじゃないんです、とジャックは言った。

「それはお前の口ぶりを聞いていればわかる。否とは言わんさ」彼の返事を最後まで聞きもせずに、最後の客人は階段を上がっていった。気配を察してでもいたのか、すでにサイモンが両開きの扉の前に出迎えていた。

 荷台に手を伸ばしたジャックの背に、トランクの持ち主の声が投げかけられた。

「ひとつ忠告しておいてやろう、お前の主人の言うことは信用しないほうが身のためだ――言っても無駄かもしれんがな」

(ずいぶん性急せっかちで、おかしな客だな。アメリカ人てのはみんなああなのか?)

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