Like Master,Like Men

 生まれて初めて乗る馬車の揺れと緊張で、屋敷についたときにはロビンは真っ青で、今にも吐きそうな様子だった。ジャックは慌てて少年を抱えて通用口をくぐり、洗濯室のすみに彼をおろした。

「帰ったの、ジャック? ――あらどうしたの、その子?」

 物音を聞きつけたらしいブリジットが顔をのぞかせた。

「ちょうどいいところに。旦那様の言いつけでさ。俺の弟みたいな奴なんだ。旦那様に会わせるのに、洗ってやろうと思って」

「そう、それじゃあ、スポンジと石鹸を用意してあげるわ。あなたはお湯を運んで」そうして、知らない娘を見つめて固まっている少年に、にっこり微笑みかける。

「怖がらないで。わたしの家には弟妹きょうだいが五人もいるのよ。弟が赤ちゃんのときから湯浴みをさせてきたんだから」

 この家にはいつでもお湯がたっぷりあった。

 一時間後、ふたりがかりで磨かれた少年は別人のようになっていた。痩せっぽちで、人怖ひとおじしているのは相変わらずだが、汚れを落としてみると、伸ばしっぱなしで女の子のように肩まである髪は絹のようにやわらかな栗色の巻毛で、白い頬はほんのりと上気し少しばかり健康を取り戻したように見えた。

 このお屋敷には小さな子ボーイに合う服がないからと、ブリジットはメイド仲間のつて、、で、ページボーイを使っている家から一式を借りてきた。

「きれいになったのはいいけれど、その様子じゃあ、旦那様に会う前に空腹で倒れちゃいそうね。待っていてね、今、お茶と――それからタルトがあったはずだわ」

 ミルクをたっぷり入れたお茶と、ストロベリー・ジャムのタルト一切れで、ようやくロビンは人心地がついたようだった。それでも、お茶のカップのふちから、怖々こわごわと台所のあちこちを見回している。

「サイモンはいる? 旦那様は?」

「ミスター・カーンは旦那様のご用事とかで、さっき外出されたわ」

「そうか、先にサイモンの奴を押さえておきたかったんだけどな、もし旦那様の気に入らなかった場合にさ、こいつはそのへんの小うるさい餓鬼とはちょっと違いますよって」

「こんなにおとなしい子が、あなたと一緒のところで育っただなんてとても信じられないけど」

 旦那様は起きていらっしゃるし、ちょうどお茶をお持ちする時間だから一緒に行ったらどうかとブリジットに勧められ、ジャックは一も二もなく引き受けた。擦り切れたズボンから下働きの服に着替え、一点の曇りもない銀のトレイの上に、中国は景徳鎮の、桃の花枝かしを描いたティーポットとカップ、揃いのミルクピッチャークリーム・ジャグを載せ、ジャックはロビンを連れて二階へ向かった。

 たとえ落としても滅多なことでは割れない銀食器はともかく、砂糖細工かと思うほど繊細な磁器チャイナは、心配そうにジャックの横を歩くロビンの鼓動のように細かく震えた。

 応接間ドローイングルームの扉をノックするといらえがあった。

「お茶をお持ちしました」

 主は格子縞のガウンにスリッパをつっかけた格好で、書類を手に書物机の前に座っていた。

「ああそうか、サイモンがいないから代わりにお前が――おや、これはまた可愛らしいページだね。いつ雇ったんだ?」

 冗談めかして、ロビンに向かって微笑みかける。

 お茶はそこへ置いておいてくれと言われ、ジャックはティーセットを暖炉の前のテーブルへおろした。その短い間も、ロビンは“兄貴分”の陰に隠れるようにちょこまかと付き従っていた。

「お前の弟か、従弟いとこかね、ジャック? あまり似ていないようだが」

「似てないですが、弟みたいなものです」ジャック少年ロビンの肩をつかまえ前に押しやった。「ロビンっていいます。ストリートで肩寄せ合って生きてきたんで」

「ロビンか。可愛い名前だな。私がジャックの今の雇い主だよ。私のことを何と聞いているのかね?」

「……親切な人だって」内気な少年はジャックの脚にしがみついたまま、蚊の鳴くような声で答えた。

 主は「おやおや」とでも言いたげに片眉を上げた。

「随分と大雑把な説明だな。ジャック、お前はこの子に何と言ったんだ?」

「ええと――親切なかただっていうのはその通りです。慈善家で、賢くて素直な子なら、俺を雇ってくださったみたいに面倒をみてもらえるかもしれないって」

「なるほど。――ロビン、君のお母さんは?」

「……死にました」

「お父さんは?」

「……」少年は黙って首を振った。

 そこでロビンがまた乾いた咳をしたので、ジャックはぎくりとした。

「胸が悪いのか?」

「な――何でもないんです、大したことじゃありません、旦那様サー、こいつはちょっと人見知りで……でも真面目で手先が器用ですよ、掏摸すりの爺さんはこいつを弟子にしようとしたことがあるくらいで――」

「……ジャック」ロビンに袖を引っぱられ、彼は口をつぐんだ。

 主は肘掛けに頬杖をついてその様子を眺めていたが、軽く頭を振って、

「うちで雇えないかという相談なら、無理だな。まだ小さすぎるし、体が弱いのでは、サイモンがまず承知しない」

「……ですが、旦那様、」ジャックが口を挟んだのを主は片手でさえぎり、

「早とちりするんじゃない。今は、と言ったんだ。ロンドンの、空気が悪い中にいれば肺を痛めもするだろう。それで、だ」ロビンに笑みを向ける。「ジャックから聞いているかもしれないが、私はロンドンの南のほう、田舎にちょっとした家を持っているんだ。その近くに、君をしばらく預かってくれるところがある。よかったらそこへ行くといい」

 少年は明らかに青ざめ、さらにきつくジャックに抱きついた。

「有難いんですが、こいつはその手のところには行きませんよ。前に嫌な目に遭ったことがあるんです」

「何もオーストラリアへ送られるわけじゃないんだ」主人はすべてを見透かしているような眼差しで、血のつながらない“兄弟”を眺めた。

 ロビンは震えている。当時、窃盗など微罪で捕まった未成年者は、はるか南半球の植民地へ追い払われていた。流刑者と移民を満載した数か月の不潔な船旅など、この少年にはとても耐えられるとは思われなかった。

「怖がることなど何もないんだ。清潔で、家庭的ホームリーなところだよ。国教会が運営していてね。私は多額の寄付をしているんだ。だから、私の頼みとくれば無下にはできない。ジャックがこのまま私のもとで働くのなら、年に数回は会えるだろうしね」

 それでもロビンはかぶりを振った。

「今すぐここで決めろというんじゃない。数日はこの家においてやれる。その間に考えてみるんだね」

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