Poor Robin

 その日彼は数か月ぶりに古巣に舞い戻った。喧騒と貧困と汚濊の中にり出されてから16年、よくぞ生きてきたものだと思う。街の反対側にはきちんと灰の掻き出された暖炉、欠けたところのない水差し、焼き串に刺さった羊の脚肉があるというのに、こちら側では、蓋のない下水溝を鼠が駆け回り、襤褸ぼろをまとった老婆が道のあちこちにうず高く積まれたごみの山をかき分けて、まだ使える物を拾い集めようとしている。腐った木の扉の前にぼんやりと座り込んでいる男は病人か、あるいはポン引きか。

 黄色く濁った眼が、ぎょろりと彼をにらむ。眼窩の大きく落ち窪んだその顔を、ジャックは負けじと見返した。

 ここへ来るのに、捨てずにしまわれていた、もともと着ていた服を出してもらった。裾のすり切れたシャツとズボン、継ぎだらけの形ばかりのベストでも、洗われてこざっぱりしている今ではどことなく場違いだ。

 彼は蝶番がはずれて扉が大きく傾いている建物のひとつへ入った。

 ほとんど外と変わらないといえるくらい悪臭が漂い、床には腐った藁が散らばる。家具らしい家具といったら、暖炉の前で中年の女が腰かけている三本足のスツールくらいだ。女は泣きも喚きもしない赤ん坊を抱えて、暖炉をかまど代わりに、吊るした鍋を物憂げにかき混ぜている。

「ポリー、ロビンいる?」

 彼は女に話しかけた。

 女がのろのろと顔を上げて答えるより早く、

「ジャック、生きてたの?」

 細い、あどけなさを残す声がした。

「ロビン! お前こそ生きてたんだな!」

 部屋のすみから襤褸切れの塊が飛び出してきて彼の脚に抱きついた。

「どこ行ってたの? 急にいなくなるから警官サツか海軍にしょっぴかれたんじゃないかってすごく心配してたんだよ」

 痩せて薄汚れてはいるが、怜悧な澄んだ瞳がジャックを見上げる。

「悪かったな。ちょっと、ある人んとこでしばらく世話になってたもんだから」

「そこって牢屋じゃないよね、ジャック? だってこの間、嫌な奴にぶたれたっていってしばらく仕事にも出られなかったじゃない。あんなこと……ジャックがしなくてもいいのに……」

「いいんだよ別に。俺が自分でやってることなんだし。それよりお前……」

 寸法サイズの合っていない――大人用のシャツをたくし上げて着ている――少年の服を引っぱりあげてやりながら、彼はこれまでの経緯いきさつを説明した。

 主人から依頼されてすぐ彼の脳裏に浮かんだのはこの小さな“弟”だった。

 といっても血がつながっているわけではない。ともにスラムに生まれ落ち、年若い弟の方は娼婦だった母親が死んですぐ孤児院へ送られたが、生来のやさしい性格と小柄な体躯からたちまちのうちに苛めの標的になり、汚水溜めイースト・エンドにいるほうがまだましだと必死に逃げ出してきて以来、何くれとなく世話を焼き合うようになったのだ。

 ロビンは大人しく目立たないが、目端がきく上に手先が器用だった。小銭や小間物をかすめ取るくらいはお手のものだし、盗品のアシがつかないようにいろいろ細工をするのも、実のところこの少年が頼りなのだ。当人は、ジャックのためでなければ、他人ひとのものを無断で持ち去るなんて……と、小さなおもてに哀しげな表情を浮かべるのが常だったが。

 少年が小さな咳をした。

「どうした?」

「うん……大丈夫だよ」ロビンは黒く汚れた袖口で、血色の悪い口元を覆う。

 ごみ溜めにあってさえ、学者めいた色白の額と、よく見るとはっとするほど長い睫毛を持つ少年ははかなげで、青白い妖精のようだった。

 このまま劣悪な環境に置かれれば、いくらも経たないうちに本物の幽霊になってしまうだろうことも、ジャックには想像がついた。

「その子をあたしの赤ん坊に近づけないどくれよ」炉の前の女が言った。「悪い病気が感染うつりでもしたら大変だ」

「黙ってろクソババア、そいつはもう死んでるみたいなもんじゃねえか」

「……ジャック」

 シャツを引っ張られ、心配そうに眉をひそめた顔に向き直る。

「そうだ、あんな婆あと口喧嘩するために帰ってきたんじゃないんだ。お前、俺と一緒に来いよ」

「どこへ?」

「街の反対側――ウエスト・エンド。名前ぐらいは聞いたことあるだろ。でかいお屋敷がたくさんあるんだよ」

「どうしてそんなところへ行くの? 仕事、、なの?」

「仕事っていやあ仕事だけど、まっとうな仕事だよ。言ったろ、ある人んとこで世話になってるって。その人が俺の今のご主人サマで、俺はそこで下働きやってるんだよ」

 てっきり喜ぶと思ったのに、ロビンは後じさった。

「……知らないところには行きたくない」

「どうして。――そうか、孤児院の糞餓鬼どもに苛められたからか。心配するなよ、お屋敷にはお前にひどいことする奴なんかいない。ご主人サマは優しいし――執事の野郎はちょっとばかり口うるさいけどな」

「その……ご主人様って人が、僕を連れてきてもいいって言ったの? 会ったこともないし、何も知らないのに、どうして?」

「旦那様は慈善家なんだよ」彼はそれだけ言った。市内のこっちからあっちへ移動するだけでも怯えているこの少年に、気に入られれば外国でいい暮らしができるかもしれないなどと言ったところで、ますます首を縦に振らないだろう。

「だからちょっと会って話をしてみるだけならいいだろ。ひょっとしたらお前をお小姓ページボーイにしてくれるかもしれないし」

 ロビンは最後まで気乗りしない様子であったが、兄とも、若い父親ともたのむジャックの説得に、ついには一度行ってみることにうなずいたのだった。

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