An Offer He Can’t Refuse

「お前はよく気のつく子だね、ジャック」

 突然後ろから声をかけられ、彼は驚いて、磨いている途中の銀の盆を取り落とした。タイルの上で乾いた音を立ててくるくる回るトレイを慌てて拾いあげる。

「――も、申し訳ありません……!」

「いや、いい。私が急に声をかけたからだ」

 本当にいつの間に来たのだろう。柔らかい室内履きだから足音がしなかったのかもしれないが。そもそも主人が洗い場まで下りてくる必要なんてないはずなのに……。

「で、旦那様、何かご用で……」

 お呼びになれば伺いましたのに、と言うのを、

「少し眠れないだけだよ。サイモンから、お前がなかなかよくやっていると聞いてね。もうマザーグースナーサリーライム程度は読めるようになったのか?」

「はあ。書く方はまだまだですが」

 実際、サイモンが根気強く教えてくれるのと、蝋燭代をけちらない主人のおかげで、読む方は耳で聞いて理解するのとおっつかっつになってきていた。文字がただの模様ではなく、意味を持って存在しているのだと得心した瞬間、世界と彼の間を隔てていた見えないカーテンが少しだけ開かれたように感じたのだ。

 雇い主は満足そうに目を細めた。

「まあ、それは追いおい習得していけばいい。まずは招待客の名刺が読めるようになるのが先決だからね。言葉遣いもどうやらそこそこ板についてきたようだし」

(客の名刺を読む? ご主人様は、俺を下働きのホールボーイから従者フットマンにでもするつもりなのか?)

「旦那様は」

「お前に頼みたいことがあるんだが」

「はい、何でしょう」

 危うく余計な口を利くところだった、と彼は胸を撫でおろした。

「まだ話していなかったが、ロンドンから南に下ったところにカントリーハウスがあるんだ。何年かに一度そこへ外国の客人を招くんだが、今年がちょうどその年でね」

「はあ」

 それで名刺を読めと? でも俺は外国語なんて、と言いかけたのをまるで読んだかのように、

「心配せずとも、お前にフットマンをやらせようなどとは思っていないよ。客人がたはもちろん英語は堪能だがね、何ならフランス語も――高貴な家の出とあって」そこにはわずかに揶揄からかうようなエッセンスが含まれていた。

「そして同時に慈善家でもある。貧しさに喘ぐ子供たちを引き取って故国くにに連れ帰り、面倒を見ようというのだよ」

「その……俺にしてくださったみたいに、ですか?」

「お前はちょっと育ちすぎだがね」“優しいご主人様”は微笑わらった。

「お前には仕事をさせた方が早い……逆に、異なる国の言葉や習慣を覚えるなら、子供のうちの方が早く身につく」

 銀の盆を抱えたまま、彼は主の言葉に聞き入っていた。最初に耳にしたときも感じたが、森のように深く、女の髪のようになめらかな声だ。

「お前にやってほしいのは、お客人が連れて帰りたいと思うような子を選んでもらうことだ。――残酷な話だが、」ため息をひとつついて続ける。「慈善事業といってもね、何でも、誰でもいいというわけではないのだよ。人の好みはそれぞれとはいうものの、可愛らしいもの、美しいものを好ましいと思うのは、どうしようもない人間のさがだ」

 あなたが俺の真っ黒で不吉な髪を、きれいだと褒めてくれたみたいにですか。

 路上にいたときは、淡い金髪のお仲間の方が“仕事”にありつきやすかったのを、嫉妬と安堵がないまぜになったようなかすかな胸の痛みとともに思い出す。

「それから、素直で物覚えがいいこと――お前のようにね」

 ふたたび心臓が大きく鼓動を打つのを彼は感じた。

 彼の心中の動揺を知ってか知らずか主は続ける。

「私も各地の孤児院へ足を運んではいるがね、人間は、自分のことを買ってくれそうだというにおいを嗅ぎつけると、知ってか知らずか相手に媚びを売るものなのだよ。見ての通り私は、彼らからすればかなり年上だし、それなりの格好もしているから、売りつける先としては最適というわけだ。だが、幼い彼らがそんな小賢しい真似をしているのを見ると心が痛む」

 そのときの様子を思い出しでもしているのか、主の眉根がわずかに寄せられる。

「その点、お前はまだ彼らととしが近いだろう? それに下町訛りコックニーも完全に抜けたわけじゃない」上品な紳士の表情が、悪戯小僧のようににやりと歪められる。「そういうわけで、お前なら、彼らの上辺うわべだけの従順さを見抜いて、貧しくても賢くて素直な子を選び出せるかと思ったのだが」

 やってくれるか?と主に聞かれ、彼は口に出す前にうなずいていた。

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