The Widower

「旦那様は男やもめなんですか?」

 働き始めて一週間経ったとき、彼はサイモンに尋ねた。

「どうしてそう思ったんだ?」

「だって、奥さんやお嬢さんらしきご婦人の肖像画はあるけど、ご本人たちがいないでしょう。それに、あんな上品でおまけに金持ちの紳士がひとり身だなんて信じられねえ。独身のお嬢さんどころか未亡人だって殺到するでしょうに」

 執事は彼の顔をじっと見て、

「余計な詮索はしないことだ」

 とだけ言った。

 その年齢を重ねた黒い瞳が、曰く言い難い哀しみを湛えているように彼には思われた。

「……すみません」

「その話は旦那様の前ではするんじゃない」

「わかりました」

 屋根裏も含めて地上三階と半地下の居住部分を持つその家は、部屋数に反比例して、住人――使用人も入れてだ――の数がひどく少なかった。最初の数週間でジャックが目にした家の主といえば、初見で下拙ダーティーなジョークを飛ばした壮年の紳士ひとり。あとは執事のサイモンと彼の他は、御者に料理番の中年女性と、若いハウスメイドがふたり、それに通いの洗濯女がひとりいるだけだった。

「このお家は変わっているけれど、それほど悪くないと思うわ」メイドのひとり、可愛いブロンド娘のブリジットは言った。

 つんと上向きの鼻の頭に薄くそばかすを散らせた彼女は、無学な上に生まれてこのかた教会に行ったことがあるかどうかも怪しい新入りのボーイにも親切だ。

「お部屋はいくつもあるからお掃除は大変だし、洗い場スカラリーからたまに洗濯までしなくちゃいけないけど、その分のお給金はちゃんといただいているわ。日曜日はまるまるお休みをもらえるし、うるさいハウスキーパーもいない。わたしは将来レディーズメイドになりたいから、その点が惜しいといえば惜しいのだけど」

 彼がある日、階段の下でブリジットの頬にキスしておやすみを言ってから主の部屋へ行くと、主人は綴り方の本を手に簡単な単語を書かせたあと、

「KISSも四文字だな」とにやりとした。

「あまり羽目を外すんじゃないぞ、ジャック。彼女、、は私の娘も同然なのだからね」

 めったにないことだというが、執事より下の使用人たちもひとりずつ部屋をあてがわれていた。女性は屋根裏、男は半地下と分かれてはいたが。サイモンだけは主と同じ二階に私室を持っていた。

 そんな状態でどうやって、地階にある使用人階段でのできごとを覗き見たのかと、その場ではしらばっくれたものの、彼はしばらく首をひねっていた。

「ご主人様はどういう人なんだ?」

 洗い場スカラリーのすみで、ランプの火屋ほやについた頑固なすすと格闘しながら、彼は横で洗った皿を拭いているブリジットに訊いた。

「そうねえ、ちょっぴり風変わりなかたなのは確かね」

「それは俺も思ってた」

 確かに変わった家だった。主は使用人達をまるで家族の一員であるかのように名前ファーストネームで呼び、女主人がするように執事に指図して、仕事ぶりばかりか彼らの衣食住にも気を配っているようだった。さながら主人が優しい母親で、執事の方が厳格な父親だ。

「だからこのお家にはお客様があんまりおみえにならないのかしら」

「でも紳士階級ジェントリか、それ以上なんだろ?」

 主は極度に宵っ張りの朝寝坊で、昼過ぎに起き出しては夕方近くなってどこかへ出かけていく習慣があった。勤め人とは思えない。外出するときには御者だけか、ときに執事が同道することはあっても、行儀作法がまだ主人にお供できるレベルに及ばない彼は、主が度々どこに遊びに行っているのか見当もつかなかった。

「あら違うわ」ブリジットは黒いサージのワンピースに包まれた丸いお尻を愛らしく揺らしながら、手際よく陶器の皿を拭いてゆく。敬虔なカトリックのアイルランド娘でなかったら、ちょっとしたたわむれの相手にはぴったりだ。

「“シティ”に事務所をお持ちなの。多分、ご用のある方はみんなそっちへいらっしゃるんだと思うわ。貿易商か何かやってらっしゃるって聞いたもの」

「へえ」

 頭脳労働の筆頭である商業、金融の核心である“シティ”はロンドンの中心部にあり、そこより東部のテムズ川北岸の低地には波止場や倉庫が立ち並ぶ。

 イースト・エンドスラム街はまさにそこに、社会経済活動の光と影のように存在していた。

 きっと倉庫の視察にでも訪れたときに偶々たまたま俺を拾ったんだろうと彼は考えた。

「物好きなこって」

「ほんとね」

 彼のつぶやきをどう捉えたのか、ブリジットは続ける。

「お茶を飲むのも忘れるほどお仕事に没頭なさるし、それに食が細くていらっしゃるし! 上流中産階級アッパー・ミドル・クラスの男の方ってみんなそうなのかしら? わたしが前にお勤めしていたお家の旦那様もあまりお召し上がりにならなかったけど、そこのご主人はもう七十代で、歯が弱くなったからって、やわらかいものしか口になさらなかったから」

 言われてみるまで全く気にもしていなかったが、そういえば主がまともに食事を摂っているのを見た覚えがないことに彼は気づいた。とはいえ下働きの彼が主人に給仕をすることはないし、食事はすべて執事のサイモンが手づから主の部屋に運んでいたから、当然といえば当然なのだが。

「それでよくあんなに背が高くなられたものだって思うわ。この間なんか、せっかくお出ししたコールドビーフを丸々下げられて。わたしたちで頂いたけれど」

「何だって?!」彼は危うく、つるつるしたガラスの覆いを落っことしそうになった。「そんなの聞いてない。どうして俺に残しておいてくれなかったんだ?!」

「ごめんなさい、ジャック」やさしいハウスメイドは申し訳なさそうに微笑んだ。「あのときあなたは石炭運びで座る暇もないほど忙しそうだったから、つい声をかけそびれて――でももしまた同じようなことがあったら、きっとあなたの分もとっておいてあげるって約束するわ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る