The Master
(早速おいでなすったか)
使用人用の、飾り気のない木製の螺旋階段を上がりながら、彼は口中に残るオートミールの粒を反芻した。
(……ま、いいけどね、
これまで彼が相手にしてきた男たちは、それこそ公園の暗がりでこそこそとせわしなく擦らせて終わりか、良くても複数人で借りているらしい安アパートメントの一室ですませるのが普通だった。自分の家に上げるなど相当の変わり者だ。最悪、何かを盗まれるか喉を掻き切られる心配もしていないというのだろうか。
寝室らしい部屋の、ひとつ手前の扉を執事がノックした。
「お入り」
変わり者の家の主は飴色の艶を放つ、胡桃材の
何の用事があってイースト・エンドに立ち入ったのか知らないが、男は外出時の
「なかなか似合うな」男が両の手を打ち合わせた。
「そうですか?」
自分で見てみるといいと言われ、壁にかかっている楕円形の姿見の前に移動する。
銀色の窓の向うからこちらを見返していたのは、見たことのない顔だった。
少年から青年に移り変わろうかという頃合いの、甘さの削ぎ落とされつつある
「前髪はきちんと揃えて上げたほうがいいな。髪粉などつける必要はない、せっかくきれいな黒髪なのだから」
そういえばまだ名前を聞いていなかったな、と屋敷の主が言った。
「ジャックです」執事が答えた。
「ジャックか。私は……・ヘンドリクセンだ」
男の声は彼の耳を素通りした。鏡の中の思いもよらない自分の姿に
主人のことは「サー」とだけ呼べばいいし、必要ならあとでサイモンに聞き直せばいい。
……いや、それとも、
一瞬その考えが頭をよぎったが、
「それで俺は何をすりゃいい……んですか?」
精一杯丁寧に尋ねる。
視線が寝室へ続く扉のほうへ向けられていたのに気づいたのかそうでないのか、主は穏やかに、
「
拍子抜けだった。
「そんじゃ、あの……」
「とはいえ以前に屋敷勤めをしたことはないのだろう? 最初の一週間は試用期間ということでどうだ。たっぷり食べさせてやるが、給金が発生するのは、お前が使いものになるとわかってからだ。言われたことをちゃんとこなせるようになったら、週に……」
賃金の話をしているのを、彼はほとんど夢心地で聞いた。頭のどこかで、こんなうまい話があるわけがないと、もうひとりの自分が警告を発しているような気がしたが、無視した。この痩せぎすで温厚そうな五十代の銀髪の紳士が、
「それでいいです」最後の言葉が終わるか終わらないかのうちに彼は答えた。
男は(本当にわかっているのか?)と言いたげにわずかに首をかしげたが、それ以上何も言わなかった。
「では決まりだな」
もう戻っていい、と主はかるく手をふり、書きかけの手紙に顔を向けた。
老執事が一礼して辞去しようとするのに合わせ、彼も出ていこうとしたとき、
「ああ、それで字は読めるのか?」
「読めるように見えますか?」
サイモンが眉をひそめて彼をにらんだ。
「見えないな。――それでは仕事をひとつ追加だ。体を使う仕事に加えて、サイモンから読み書きを教わるんだ。毎週末にどれだけ覚えたか試してやろう。ひと月で、
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