The Master

(早速おいでなすったか)

 使用人用の、飾り気のない木製の螺旋階段を上がりながら、彼は口中に残るオートミールの粒を反芻した。

(……ま、いいけどね、はじめて、、、、ってわけじゃねえし、久しぶりだからちょっとキツいかもしれねえけど……しかしこの執事のジイさんも、自分の主人に遣手婆やりてばばあみたいなことしてんのに顔色ひとつ変えないのな、どういう神経してんだまったく……まあ、それだけやり慣れてるってことなんだろうけど)

 これまで彼が相手にしてきた男たちは、それこそ公園の暗がりでこそこそとせわしなく擦らせて終わりか、良くても複数人で借りているらしい安アパートメントの一室ですませるのが普通だった。自分の家に上げるなど相当の変わり者だ。最悪、何かを盗まれるか喉を掻き切られる心配もしていないというのだろうか。

 寝室らしい部屋の、ひとつ手前の扉を執事がノックした。

「お入り」

 変わり者の家の主は飴色の艶を放つ、胡桃材の書き物机ライティングデスクの前に座っていた。

 何の用事があってイースト・エンドに立ち入ったのか知らないが、男は外出時のフロックコートを脱いで部屋着ガウンに着替えていた。

「なかなか似合うな」男が両の手を打ち合わせた。

「そうですか?」

 自分で見てみるといいと言われ、壁にかかっている楕円形の姿見の前に移動する。

 銀色の窓の向うからこちらを見返していたのは、見たことのない顔だった。

 黒歌鳥ブラックバードを思わせる双眸が、驚きに見開かれる。

 少年から青年に移り変わろうかという頃合いの、甘さの削ぎ落とされつつある輪郭フェイスライン。幾度か喧嘩に巻き込まれはしたものの、幸いにして鼻は折られず真っすぐだ。先ほど食べたばかりだからだろう、すっきりした頬と、薄めの唇は健康的なピンク色になっている。

「前髪はきちんと揃えて上げたほうがいいな。髪粉などつける必要はない、せっかくきれいな黒髪なのだから」

 そういえばまだ名前を聞いていなかったな、と屋敷の主が言った。

「ジャックです」執事が答えた。

「ジャックか。私は……・ヘンドリクセンだ」

 男の声は彼の耳を素通りした。鏡の中の思いもよらない自分の姿に見惚みとれていたのもあるが、「きれいな黒髪」と言われたのが心を占めていた。これまで路上の浮浪児にそんな言葉をかけてくれる物好きはいなかった。

 主人のことは「サー」とだけ呼べばいいし、必要ならあとでサイモンに聞き直せばいい。

 ……いや、それとも、最中、、に名前を呼んでほしいという性癖の持ち主だったら迂闊うかつだったな。

 一瞬その考えが頭をよぎったが、

「それで俺は何をすりゃいい……んですか?」

 精一杯丁寧に尋ねる。

 視線が寝室へ続く扉のほうへ向けられていたのに気づいたのかそうでないのか、主は穏やかに、

下働きボーイだよ。その言葉づかいと物腰では従者フットマンはつとまらない。背もまだ足りないしな。仕事はたくさんある。前にいた使用人が辞めたからね。詳しいことはサイモンに聞くがいい」

 拍子抜けだった。

「そんじゃ、あの……」

「とはいえ以前に屋敷勤めをしたことはないのだろう? 最初の一週間は試用期間ということでどうだ。たっぷり食べさせてやるが、給金が発生するのは、お前が使いものになるとわかってからだ。言われたことをちゃんとこなせるようになったら、週に……」

 賃金の話をしているのを、彼はほとんど夢心地で聞いた。頭のどこかで、こんなうまい話があるわけがないと、もうひとりの自分が警告を発しているような気がしたが、無視した。この痩せぎすで温厚そうな五十代の銀髪の紳士が、吸われる、、、、ほうではなく吸う、、ほうがお好みで、それで自分の歓心をひきたいがためにこんな破格の申し出をしているのだとしても……とりあえず今の彼には知ったことではなかった。

「それでいいです」最後の言葉が終わるか終わらないかのうちに彼は答えた。

 男は(本当にわかっているのか?)と言いたげにわずかに首をかしげたが、それ以上何も言わなかった。

「では決まりだな」

 もう戻っていい、と主はかるく手をふり、書きかけの手紙に顔を向けた。

 老執事が一礼して辞去しようとするのに合わせ、彼も出ていこうとしたとき、

「ああ、それで字は読めるのか?」

「読めるように見えますか?」

 サイモンが眉をひそめて彼をにらんだ。

「見えないな。――それでは仕事をひとつ追加だ。体を使う仕事に加えて、サイモンから読み書きを教わるんだ。毎週末にどれだけ覚えたか試してやろう。ひと月で、四文字語フォー・レター・ワードつづれないようなやつは用なしだ」

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