Town House

 足を踏み入れた先は家の裏手で、右手に厨房、左手には食糧庫パントリー酒蔵セラーとおぼしき扉が並んでいた。

「こっちだ」

 指示されたのは台所キッチンの隣の部屋だった。

「旦那様からお前を風呂に入れるように言われている」

「風呂ォ? そんなのテムズの水浴びでじゅうぶん――それに、飯を食わせてくれるって……」

「あとで食べさせてやる。とにかくその薄汚い格好で厨房に立ち入ることは許さん」

 その部屋は洗濯室ローンドリで、床には絞り器やアイロン台が置かれ、天井に張り渡した紐からは、真っ白なベッドシーツやタオルが幾重いくえにもぶら下がっていた。湿気はあるが、窓から差し込む陽が白いリネンにやわらかく反射し、重苦しさは感じない。

 足下の大きな洗い桶からはもうもうと湯気が立っている。

「もしかしてこれに入れってこと?」

 執事はうなずいた。

 俺は洗濯物かよ、と彼は思ったが、下水と馬糞のにおいがするやつを抱く気にはなれないだろうし、その最中に腹が鳴ったら興ざめだろうから、飯を食うまではと従うことにした。

 彼が着たきり雀の上着を脱いだところで、いったん出ていった執事が戻ってきた。

「これで髪も洗うんだ、ひどい臭いだからな。着替えはここへ置いておく。前に辞めた従僕フットマンのものだがたぶん合うだろう。脱いだものはそのままにしておけ、あとで洗わせる」

 かたわらの作業台の上に置かれたものは、清潔なタオルと海綿、それに薄茶色をした石鹸だった。さらにその横には灰色のズボントラウザーズとシャツ、茶色のベストが畳まれていた。

 巨大なたらいは彼が中に座っても窮屈には感じられないほどだった。太腿ふとももが隠れるくらいまで張られた湯の中で、いい香りのする石鹸を泡立て、海綿スポンジで体をこする。たちまちのうちに湯が濁った。

 それでも、水差しに入っていた替えの湯も使って頭も洗うと、熱い湯と、これまで嗅いだことのない爽やかな石鹸の香り、さっぱりしたタオルの感触もあいまって、路上生活と馬車の中でこわばっていた筋肉がほぐれていくのを感じた。

 “風呂”から上がるころには彼の腹の皮は背中とくっつきそうになっていたし、そのせいか、着るようにと渡された下履きホーズの腰回りは、紐をきつく絞ってもずり落ちそうだった。

 台所に顔を出すと、料理女が大テーブルの上に、しろめ、、、の皿にお粥ポリッジを大盛りにして寄越した。

 甘い香りに頭がくらくらした。

 添えられていたスプーンごと飲み込みそうな勢いで、まるで犬のように皿に顔をつっこんでがっつく。

「お前は何歳いくつだ?」

 向いに腰かけた執事が尋ねた。

「16。たぶん」

 口のまわりについたかすも舌できれいに舐め取る。

「そうか。……読み書きを習ったことは?」

 彼は首を横にふった。

「けど掏摸すりのじいさんから字を教わったことはあるよ。故買屋に売っ払うときにアシがつくとまずいから、イニシャルは削るか刺繡糸を抜けって」

 それを耳にしても相手の謹厳なおもては彫像のようにぴくりとも動かなかった。

「それがなんかカンケーあるのか? ダンナはその気があんなら仕事を世話してやるとだけ言ったぜ。字が読めるかなんて聞かれてねえし、第一俺がいいとこの坊ちゃんにでも見えるってのか? 仕事っつっても力仕事かせいぜい庭師の手伝いだろ、まあ何でもやるけどね」

 皿は舐めたようにきれいになっていた。

「お前はいつもそんなふうに口数が多いのか?」執事がぴしゃりと言った。「余計なことはしゃべらなくていい。訊かれたことだけに答えるんだ。旦那様は騒がしいのはお嫌いだ。――名前は?」

「……ジャック」

 主人が主人なら使用人も使用人だ。

 目の前の男の声は問答無用の響きを帯びていた。元軍人か何かなのだろうか?

「私はサイモン、サイモン・カーンだ」

 私にサーはつけなくていいと執事のサイモンは言い、食べ終わった彼を主人に会わせると、二階へ連れていった。

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