East End

 イースト・エンドの汚水の中から拾いあげられたとき、彼の目には、男は神――いや黒ずくめのその姿は悪魔だっただろうか、いずれにしてもそう変わりはなかったが――に見えた。尻を掘られるのでも臭い一物を吸わされるのでも、ひと晩の宿(と、何とか呑み込めなくはない飯)と引き換えならばどうでもいいかという気になっていたからだ。

 この三日のあいだ、口にしたものは雨水だけ。無理やり尻に剛直をれようとしてきた男の持ち物を、慰謝料代わりにくすねようとしたのが露見しバレて、逃げるところを、左肩とふくらはぎをステッキでしたたかにたれたのだ。互いに官憲にたすけを求めるなど考えも及ばない身だからそれですんだが、まだ肩口と脚がズキズキ痛む状態では、かっぱらいを働こうにも満足に走れないというありさまだったから。

 もしそれ以上にひどいことになったとしても……それ以上にひどいことが今更この世にあるとも思えなかったし、どうせいずれ煤煙で肺を病んで血を吐いて死ぬか、処刑場タイバーンで吊るされるかするのが確定しているようなものだし、それでこの世とおさらばできるとしたら、それはそれで悪くないだろうとさえ思えた。

 顔が映るほど磨かれた黒いブーツの爪先が、汚泥にまみれた石畳と平行になった視界に入る。

「顔を上げるんだ」

 ビロードのようだが有無を言わさぬ声音だった。

 声につられ、指一本動かすのも億劫になっていたはずなのに、こわばった首をあげて声の主を見上げる。

 ロンドンの曇り空の下でさえ、男の顔は、逆光か、夢の中のようにぼんやりして判別がつきかねた。

「立てるか? 立てるのならついて来なさい。食事と――その気があるなら仕事をさせてやろう」

 男の声には不思議な吸引力があった。彼は空腹によるめまいでふらつきながらも、自分でも残っているとは思われなかった力で地面から体を引きはがし、きびすをかえした男のあとを追った。

 二頭立ての馬車の中でおそらく眠り込んでしまったに違いない。尻の下の突き上げるような揺れがおさまったところで、肩を乱暴に揺すぶられて起こされた。

 向いに座っていたはずの男はいつのまにかいなくなっていて、さては夢だったのかと思ったが、彼をつついたのは中年の御者だった。むっつりと不機嫌な表情かおで、さっさと降りるように急かしている。

 彼が連れてこられたのは、これまで足を向けたことさえない、閑静な住宅街の二階建て住居だった。灰色の石積みの家と、芝生と灌木に覆われた庭を美しくも頑丈な錬鉄の柵アイアンワークが囲んでいる様子さまは、建物同士が肩寄せあい、倒壊しないように互いに支えているような、ごみごみした貧民街から来た彼の目には、城も同然に見えた。

 半地下の入り口には、使用人頭なのか、初老の男が扉を押さえて待っている。真っ黒なスワローテイル・コートに、髪と同じ銀鼠シルバーグレーのベストを身につけているその男を、彼は一瞬、自分をここまで連れてきた屋敷の主人その人かと錯覚した。

「ほんとにこんな――」立派な屋敷ところに、と言いかけたのを、

「いいから中に入るんだ」

 ええいままよ、だ、と彼は腹をくくった。

 ここが盗賊の巣窟だったとしても、素足から靴下を脱がせることはできないのだから。

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