Till Hell Freezes Over

吉村杏

After Walpurgis Night

 あたたかな六月はじめの晩のことだった。

「お客人は全員お帰りになったか?」

 深みのある声が言った。

 声の主は火の入っていない暖炉の前で、安楽椅子に深く身体を預けていた。

 室内履きを履いた脚を足載せ台オットマンに投げ出しているところをみても、有閑階級の人間の例に漏れず、やや細身だが長身であることがうかがえる。背もたれからわずかにのぞく髪は、まださほどの齢とも思われないのに真っ白になってしまったとも見える、白金プラチナブロンドだった。

「はい」

 答えたのは年若い従者だった。二十代前半といったところか。あるじとは親子ほどの年齢差と言えるだろう。

 こちらは六フィートに届くか届かないかくらいのすらりとした体躯を、お仕着せの漆黒のテイルコートに包んでいた。秀でた白い額の左右できれいに切り揃えられた黒髪はマカッサル油で整えられたように艶めき、慎み深く伏せられた双眸も同じ色。

「誰が最初に帰って誰が最後まで残っていたのか当ててみようか、あの頑固なアイルランド男と、東欧の片田舎の伯爵夫人だろう」

 あいつらときたらいつも注文が細かいんだ、と口調をがらりと変えて憤懣をぶちまける主人の姿に、若い従者はくすりと微笑わらった。

 ふたりのいるのは誰に気兼ねすることもない、田舎の邸宅カントリーハウス控えの間ドローイングルームだった。壁紙から、ふっくらと詰め物をしたビロード貼りの長椅子まで、緑を基調にした落ちついた内装で、欧州全体がきな臭いにおいを漂わせているこの時代にあっても、大陸から隔てられた島国の、それも都会から離れひっそりと佇むバロック様式の館だけは、時が止まったように喧騒とは無縁でいた。

「旦那様はあのアイルランドの紳士に冷たくていらっしゃる」

「そうかね」

「そうですよ。あのかたは我々使用人に親切ですよ、どこぞの伯爵夫人とは違って。気前もいい。いつも、到着が遅いのに出立をかすのを申し訳なく思っていらっしゃるようですからね。それなのに、なぜわざとあのかたの気に障るようなことをなさるのですか?」

「私がいつあの男に意地悪をしたとお前はいうんだね」

十月ハロウィンには三回に一回はウエスト・エンドのお屋敷にお招きになるし、今回もまた招待状をベルファスト宛てにお送りになったでしょう。あのかたはロンドンがお好きではないし、現在のお住まいは大西洋の向こうのボストンですよ。何度もそう申し上げたでしょう」

「さてね。私が言ったのは、あの男の本拠地に送ってくれということだけだよ。たとえ月に住むことになったとしても、あの男が転居通知を送ってくるとは思わんがね」

 やさしい若者はやれやれというように小さなため息をいた。

「お前こそいやにあいつの肩をもつじゃないか」

「そのようなつもりでは……」

「いささか妬けるね。あの男とのつきあいは私のほうが長いんだ。あいつは偏屈者なんだよ。アイルランド人のご多分に漏れず癇癪持ちだし、おまけにそれを私の前では何とか隠そうとしているのがなんともいじましいじゃないか。カビの生えたカトリックの教義に従っているようなふり、、をしているが、なかなかどうして、やつにだって後ろ暗いところがあるのは承知しているんだよ。大体何だってあの上品ぶった御仁は、女優の卵やらキャバレーの踊り子やら、金で買える女しか相手にしようとしないんだ? そのへんの娼婦と変わりないじゃあないか。ほかのお客人と違って、処女にも少年にも興味がないときた! とんだ聖人君子だよ」

「ずいぶんな仰りようですね」

「そりゃあ私はあいつらのような生粋のお貴族様ではないからな。多少粗野なのはご容赦願いたいね」

「旦那様こそそうは思っていらっしゃらないくせに」

「どの部分がだね?」

「妬ける、というところですよ」

 従者の若者は濃く長い睫毛まつげに縁どられたをわずかに潤ませて主人を眺め下ろした。

「あなたは私がおそばを離れても何とも思われない」

「そんなことはないよ」揶揄からかうような声。

「お前はよくやってくれているよ、ジャック。本当だとも。さあ、夜は短いんだ。くだらないおしゃべりはこのへんにして、いつもの箱をとっておいで……」

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