How Many Miles To Babylon?

 そろそろ風が秋の終わりを告げる10月の半ば、ジャックは首都ロンドンの屋敷を離れた。かねてからの主の予定にお伴するためだ。

 男の所有している邸宅のひとつは、ロンドンの南西、ライの近郊にあった。これまでの人生のすべてがロンドンで完結していたジャックには知る由もなかったが、古くからの港町で、一時期は密輸でも栄えた、ある種いわくつきの町だ。

 主はそこへ、執事のサイモンと、ジャックを馬車で伴った。サイモンはむろん初めてではないが、ジャックの方はあちこち眺めるのに忙しく、終いにはサイモンから「あんまり首を振りすぎてステップから転がり落ちるんじゃないぞ」と注意される始末だった。

 とある没落貴族から買い取ったというその屋敷は、周囲を葡萄園に囲まれた中に存在していた。

 町の中心にあった古い城の城壁のような、所どころ欠け落ちた石積みが続くので、ここももとは城かなんかだったんですか、ところでお屋敷にはいつ着くんですかとジャックがしびれを切らして尋ねたところで、「もう敷地に入っている」と答えられ驚いた。

 そうこうしているうちに、ゆるやかな起伏をいくつか越えた先、林の向うに壮麗な館が姿を現したときには、ジャックは揺れる馬車の上で目と口を大きく開けて見入った。

 ジャックが最初屋敷だと思ったのが実は手前にある厩舎で、本物はさらに木立の奥に、神殿のように堂々たる姿を見せていた。

 三階建ての壮大な正面ファサードは、三角形の切妻壁がクリーム色がかったコリント式の円柱に支えられ、そこからゆるやかな大階段が、ドーヴァーの崖のように白い玉砂利の敷き詰められた車寄せに続いている。東西に延びた両翼は、高価な板ガラスをふんだんに使った大きな窓がいくつも設けられ、明るく開放的な雰囲気だ。

 カントリーハウスはロンドンの家屋敷と比べても格段に大きく、部屋数もゆうに三倍はあった。規模が規模だけに、ここにはロンドンのタウンハウスより人手があった。ふだんから邸内に詰めている者もいたし、さらに入り用となれば近隣の村からも人を雇う。それらを取り仕切るのも、当然のごとくサイモンひとりだった。

 ジャックはここへ来て初めてお仕着せをもらった。銀色のボタンのついたグリーンの上衣に、きれいな明るい灰色グレー膝丈のズボンブリーチズ、それからクリーム色のストッキング。ほっそりした黒革の靴には、ぴかぴか光る銀のバックルつきだ。主のお下がりと肉体労働でそこそこ鍛えられた脹脛ふくらはぎはすんなりと形よく伸び、下手な口を利かなければ、誰も彼を貧民窟出身のてて無し子だとは思うまい。

「やることは荷物運びだが、お客様の前に出る以上、みっともない格好はさせられない」というのがサイモンの弁だ。

「サイモン、まるであんたは親切な魔法使いフェアリー・ゴッドファーザーだ」

 その場でくるりと回って新しい衣装をお披露目してみせた彼に、謹厳な老執事は呆れた顔で眉間を押さえた。

 それに彼にはもうひとつ大事な仕事があった。

 孤児院を訪れることだ。

 半年前、ロビンはようよう、“旦那様”とジャックの勧めに負けて、そこへ行くことを承諾した。主人は院長に宛てた手紙をふたりの前で読み上げたばかりか、サイモンに、直接送り届けるよう命じたのだった。おかげで執事のいない間、ジャックが自身の汚れ仕事に加え、給仕やらお茶の用意やら服の整理までこなさなければならなかったが。

 馬に乗ることはおろか自分で馬車を操ることもできないので、ジャックは食材を届けに来た村人の荷車に乗せてもらい、孤児院へ向かった。膝の上には昨夜の晩餐会の残り物を詰めたバスケット

 もと修道院だった建物は、一面陰気な灰褐色の石造りだった。潮風のせいだろうか、直方体を重ねただけのような無骨な石材のあちこちがぼろぼろと欠けている。邸宅カントリーハウスの優美なまろやかさとは対照的だ。

 玄関先で主の名前を出すと、裏口に回るようにとは言われなかった。応対に出てきたメイドにバスケットを押しつけ、ジャックは彼の“弟”がどこにいるかを尋ねた。

「――ロビン!」

 細い円柱にぐるりを囲まれた中庭でひとり本を読んでいた少年は、顔をあげてあたりをきょろきょろ見回し、次いで膝から本をとり落とし、“兄”に駆け寄った。

「元気そうだなあ」ジャックはうなじのあたりで短く整えられた栗色の巻毛を撫でた。相変わらず痩せっぽちだが、心もち背は伸びたようだ。それに、着ているものは修道士のように地味な紺地の制服だったが、清潔な匂いがした。

「ジャックもね」

「ああ、まあね、たっぷり食わせてもらってるからな。お前は?」

「望みうる中では最上、っていうところかな」

 こまっしゃくれた物言いも、まるい薔薇色の頬と、利発そうにくるくる動く黒い瞳をもつ少年にはよく似合っていた。

「じゃあ、苛められたりはしてないんだな?」

「うん」ロビンはうなずいたが、その口ぶりからは快活さがわずかに減退していた。

「どうした? もし糞餓鬼どころか、嫌味な教師連中がお前にひどいことをしてるっていうんなら、たとえそれがデブの院長のやつだって――」

「違うよ、ジャック」物静かな少年はすぐに熱くなりがちな“保護者”を見上げて苦笑した。「その反対。ヘンドリックスさん、だっけ、とにかくあの人の名前を耳にしただけで、院長先生も他の先生たちもみんな気持ちが悪くなるくらい親切になるんだ。院長なんて、興味があるなら礼拝堂のオルガンを触ってもいいなんて言ったよ。クリスマスの時期にはお屋敷でパーティーがあるだろうからって。小さい子には、汚れるから絶対触るなってうるさく言ってるのに。よっぽどたくさん寄付しているんだろうね」

「へええ、そりゃよほどのことなんだろうな」ジャックはすっかり感心し、どころか自分のことのように誇らしい気持ちになって言った。

「それでね、大人用の図書室に入っていい許可ももらったんだよ。お前が一生懸命勉強するなら、ひょっとしたら牧師補くらいにはなれるかもなって」

 院内を案内してあげるというロビンについて、ジャックは薄暗い建物内に足を踏み入れた。どこかで小さな子供たちが追いかけっこでもしているらしい歓声が聞こえてくる。高い石組みの天井に、大人用のブーツと子供の小さな靴の足音が反響した。

「で、まさか本気で聖職者なんかになる気なのか?」

 図書室は鍵が閉まっていて入れなかったが、ロンドンの屋敷で覗き見た書斎ライブラリーの何倍もあるのだとしたら――カントリーハウスにも読書室があるそうだが――きっと一生かかっても読み切れないだろうとジャックは思った。

「もしそれだけ長く生きていられたらね」ロビンは微笑んだ。その愛らしい弓型の唇には、今ではすっかり、年相応の健康的な色が刷かれている。

「でも、勉強してる一番の目的は、ちゃんと字を書いたり読んだりできるようになったら、ジャックに手紙が書けるでしょ。何をしたかとか、どんなことがあったかとか――」

「ああ、そうだな。そうしたら今度こそ、旦那様にお願いしてお前を」

「その話は考えとくって言ったでしょ」

 ロビンのはぐらかしと、そのときサイモンに言いつけられていた用事があったのを思い出し、ジャックは後ろ髪を引かれる思いでその場を後にした。

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