The Confession

お入りカムイン

 いつもと変わらぬ主人の声に、彼は控えの間ドローイングルームに足を踏み入れた。

 ドレッシングガウン姿の雇い主は、安楽椅子に深く体を預け、暖炉の明かりで本を読んでいた。

 主人と顔を合わせるのは今日これがはじめてだった。昼間はずっと階下でブーツを磨いたりナイフを研いだりしていつも以上に忙しい一日を過ごした。同じ場所には一時間といなかったかもしれない。そこに存在していたのは肉体からだだけで、精神こころはどこか別の場所にいるようだった。

 赤紫色パープルのビロード張りの足載台オットマンに足を載せてくつろぐ主人の姿は、昨夜ゆうべあれほど俗悪な行為に耽っていたのと同じ人間には見えなかった。あるいは彼に気づかれていないと思っているのかもしれなかったが。

 だから、

「サイモンから聞いているよ」

 本から目も上げずに、ふだんと全く変わらぬ口調で言われたときにはびくりと肩が震えた。

 彼の様子に気づいているのかいないのか、野良仕事など一度たりともしたことがないだろう日に焼けていない指がページをめくるかすかな音と、薪のはぜる乾いた音だけが部屋に響いた。自分の心臓の音さえ聞こえるのではないかと彼が思うほど静かだった。

 彼が黙ったままでいたからだろうか、男は本を閉じて脇のテーブルの上に置き、彼に向き直った。柔和にさえ見える、整った眉の下の蒼いは、暖炉で燃える炎を全く映していないかのごとく、深く黒く陰っていた。

「お前が暇をもらいたいというなら止めはしないよ。この家は人があまり居つかないのだ、サイモン以外はね。お前の前にも何人か使用人が辞めていったよ。理由は色々だが」

「そいつら、は……」

「私は良い主人だと思うのだがね」気負うでも皮肉めかしてでもなく、思い出話でもしているかのように男は言った。

「給金はちゃんと払っているし、ひもじい思いもさせていない。少々宵っ張りだが、その程度の我儘わがままは許容範囲だろう。かつての使用人たちは誰も文句を言わなかったよ」

「……知って、いたのか、よ」言葉が喉につかえる。

「知っていたらどうだというんだ?」冷静な口調も表情も、凪いだ湖面のように何ひとつ変化した気配がなかった。

「お前が私のことを知らなかったのと同様、私がお前のことを何も知らないと思っているのか、ジャック? 私がその気になれば、男色バガリーでも窃盗でも何でも好きな罪状でお前を監獄へ送ることもできるのだよ」

「そんなことできるものか」彼は虚勢を張って言い返した。「俺は身元がバレるようなへまはしたことがない」

「お前はそれほどの分からず屋ではないはずだよ、ジャック」男の唇からは、犬か、慣れた小鳥でも呼び寄せるときのように舌を鳴らす音が漏れた。

「はした金で、お前と寝たことがあると喜んで証言する人間を、百人だって連れてこられるとも。だがそんなことをするつもりはないと言っているんだ」

 男の声音は下手に出るでも脅すでもなく、真綿で首を締めるような、どこか楽しげな様子さえあった。

 この男は俺が何で苦しんでいるのかを知っているのだろうかと彼は思った。ずっと昔から……それ以外の方法では満足を……本当に……?

「サイモンがあんたのもとを離れられないのは、あの人がユダヤ人ジュウだからだ」

 子供を犠牲にしていると告げても、やったのはお前だろうと言われて切り捨てられるのが落ち、、だ。同様のことがかつて何度も繰り返された。

「彼がそう言ったのか?」

 ジャックは首を横に振った。

「サイモンがここに留まっているのは、彼の息子について私に恩義があるからなのだが。……でも目のつけ所は悪くないな、さすがは私の見込んだ子だ」主は目を細めた。その様子は、さながら飼い犬が新しい芸を覚えたことを喜ぶ飼い主のようだった。

「だがお前はユダヤではないし、私の許を去ってもこの仕事を続けたいというなら紹介状を書くと言っているだろう。実際お前は雇い主に忠実な、役に立つ召使いだよ。盗みも横流しもしなかったろう。悪くは書かないとも。そのあとはどうしようとお前の自由だ。お前も知ってのとおり、私の住いはこの屋敷ハウスだけではない。我々は常に忌み嫌われ追い払われてきた。だからお前にそうされようとも私は一向に構わないし、なおさらお前が気に病むことではない」

「俺がここを去ったとしても……」

「私は気にしない。人はまったくその来たように、また去っていかなければならないのだから」

 男はほとんど瞬きをしない眼で、彼をじっと見つめた。

 薪は相変わらず静かに燃え、重苦しい緊張感がとばりのように部屋に下りる中で、彼は自分の体が――外も内も――じりじりと炎で炙られているかのような感覚を覚えた。

 小さな体を組み敷いているまさにその時、青白い月光に照らされた男の歓喜の笑みは地獄の悪鬼のようだった。主人の悪行を告白する老執事の顔は、暗闇の中で苦悶に歪んでいたのかもしれない。今も耳について離れない、子供たちのか細い声。

 いくら貧民の子だとはいえ、好き勝手に弄び、挙句の果てに外国の人間に売り渡していたとなれば、警察ザ・ヤードも放ってはおかないだろう。たとえすべてをやめさせることはできなくとも、少なくとも自分の目の前からこの男を消すことはできる……。

「それでお前はどうしたいんだ?」

 彼が自分に問いかけたまさにそのとき、別の声が耳を打った。

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