何気ない一言
私は“スランプ”という言葉を使えない。
というのも、過去にピアノの先生が言っていたからである。
「スランプっていう言葉はね、実力のある人間が使う言葉だよ。未熟者の場合は、ただの“実力不足”だ」
私に向けた言葉ではない。交流のある別教室に通っていた、私と同い年の子に向けた言葉だ。私ともそれなりに仲が良くて、私よりもずっとピアノが上手な子だった。その子が、「近頃不調だ。スランプだ」とあんまりうるさかったものだから、そう言ってやったんだ、という話を聞かされただけである。私はスランプだ何だと騒いだことなんてなかったから、先生に、その子を
以来、私はスランプという言葉を使えない。最近どうも不調だな、スランプってやつかな、と思うたび、いやいやこれはただの実力不足だ、と自動で訂正が入るのだ。努力を嫌い、逃げ腰が染みついている私にとって、この考え方が刺さっているのは良いことだと思う。スランプ、すなわち原因不明の不調だと思えば、脱するまで黙って耐えるしかない。しかし実力不足だと思えば、あとは努力するしかないのである。待てば海路の日和あり、より、まかぬ種は生えぬ、だ。好むところは前者のほうだが、実際に大事なのは後者のほうであると分かっている。
いつか「これはスランプだ」と胸を張って言いたいものである。
このように、案外、他人に向けられた言葉のほうが刺さりやすいものなのかもしれない。
着付けの先生が、
「器は大きくしておくべきですよ。中身はあとから、ゆっくり埋めていけばいいのですから」
と言ったのも、私ではなく私の母に向けてのことだった。着付けの先生の資格を取るか否か、母が迷って相談しているときのことだった。その言葉を横で聞きながら、確かになぁと思ったのを覚えている。器がなければ埋めようがないのだ。
この言葉を自分事として実感したのは、勤め始めて一年目のことである。ずっとバイトとして働いてきた塾にそのまま雇われたから、最初の半年などバイト気分のままであった。
そんなあるとき、保護者から、
「先生」
と呼ばれたのである。そして、
「先生のおかげで国語嫌いだったうちの子が、最近国語が楽しいって言ってるんです。ありがとうございます」
――そのときの私の焦りようと言ったら! 冷や汗を流しながら、もう何て答えたのかも覚えていない。その後すぐに本屋へ行って、指導関連の本を片っ端から手に取ったことは覚えている。そんなものを慌てて読み漁ったところで何になるのか、という感じだが、どうにかして今すぐ取り繕わなくてはと思ったのだ。
やばい、まずい、そうか私は「先生」なのか。保護者に言われて初めて実感して、私は恐れおののいた。「先生」と呼ばれる器を所持したことに気が付いていなかったことがそもそも問題ではあるが、気付かされて初めて器の中身を見て、その中身が底が透けて見えるほどすかすかであったことのほうが大問題だ。あれほどの焦りはなかなかない。今のところ、人生で一番の焦りである。
今はそこまで焦っていない。もちろん、まだまだ器に見合った中身ではないけれど。中身はあとから、ゆっくり埋めていけばいい。着付けの先生の言葉が今になって染みてくる。この言葉も私にとっては大きな支えだ。
さて、すると同時に、今度は反対のことを考えなければいけなくなる。そう、私は今や「先生」だ。私に多大な影響を与えた、ピアノの先生や着付けの先生と同じ立場にあるのだ、と。
同僚の簑島が、
「この前卒業生に会ってさー、あいつ今高校で軽音部入ってて、ベースやってるんだってー。意外じゃない? そんな感じじゃなかったじゃん。で、どうしてベースやってんのーって聞いたらさぁ、俺がさー、けっこう前にベースにはまってた時期あるの、覚えてるー? その頃にそいつにベースの話をしててさー、それでベース始めたんだって言われて、俺めっちゃびっくりしたー」
と聞かせてくれた。
「まさかそんな影響与えるとはーって感じじゃないー?」
まったくその通りである。まさかそんなに影響を与えるとは、欠片も思わずに私たちはいろいろなことを話し、いろいろなことを教えている。
何気ない一言の恐ろしさは、その“何気なさ”にある。狙って発せられるものではなく、気を付ければ防げるものでもない。無論、どうか刺さってくれと願いながら、狙って話す言葉はある。絶対に傷つけないようにと細心の注意を払いながら、慎重に話す言葉もある。けれどそんな意図など軽々と飛び越えて、言葉は何気なく飛んでいき、何気なく誰かに刺さってしまう。
何気ない一言が吉と出るか凶と出るかは、神のみぞ知るというやつであろう。いや、受け取り手である相手のみぞ知るというべきか。
私は万事最善を尽くしたうえで、ただ祈るしかない。
(2024/09/22)
ある塾講師の述懐 井ノ下功 @inosita-kou
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